第19話 ブランク
「ふふっ、怒らないでください。ちゃんとお話ししますから、ね?」
私の唇を塞いでいた人差し指が、ぷすりと私の膨らんだ頬に突き刺さった。
ぷすーと情けない音を立てながら、私の口から空気が抜けていく。抜けていく、抜けていく……。
なんだか、アリスにいいようにされるのが癪だったので、息が続く限り吐き続けてやった。細く長く、だけどしっかりと。吹部の基本だ。
「フーーーー……すぅぅぅ――げほ、げっほ」
「三十三秒、さすがは肺活量お化けの和奏ちゃんです」
「ひ、人を、げほっ……お化けとか、いう、な……」
なんだかクラクラとする。アリスが、背中を擦ってくれている。
久しぶりに、こんな限界まで息を絞り出したよ……。
「はぁ、はぁ……ありがとアリス。しばらく吹けてなかったから、さすがに肺活量が落ちてるね……」
昔、というか部活を引退するまでは、四十秒以上吐き続けられたのに。
バスの窓に映る私の顔は、恐らく真っ赤になっていることだろう。
「あぁ、酸欠ぅ~」
「大丈夫ですか?」
「うん~、ちょっとしてれば治るから~」
息をゆっくり吸って、ゆっくり吐く。身体中の血液に、新鮮な酸素が供給され始めた。懐かしいなぁ……酸欠になったのなんて、いつぶりだろう。
「和奏ちゃん」
「んー?」
「今日、時間ありますか?」
アリスは、真剣な声色で問いかけて来た。
夕方の予定を思い浮かべてみるけど、課題も少ないし高校生になったことで、門限もなくなった。
「うん。あるよ」
「でしたら、久しぶりに演奏がしたいです」
「演奏かぁ……うーん」
私が感じたのは、躊躇い。
私がフルートを触らなくなったのは十一月末、そして今は四月末。五か月ちょっとも練習をしていないことになる。
「ダメ……でしょうか」
「ダメってわけじゃないんだけど、なんて言ったらいいのかなぁ……」
頭を悩ませていると、吹部の顧問をやっていた先生がよく口にしていた名言が、浮かび上がってきた。
「一日練習しなければ自分に分かる。二日練習しなければ批評家に分かる。三日練習しなければ聴衆に分かる」
確かこれを言ったのは――
「――フランスのピアニスト、アルフレッド・コルトーの名言ですね?」
「そ。つまりだよ? 今の私は誰が聴いても分かるくらい、下手っぴになってるんだよねぇ……」
その証拠が、肺活量の衰えだ。
肺活量が落ちたくらいで――って思うかもしれないけど、これが大問題なんだよね。
「それは、気にしないで――」
「アリスは気にしないだろうけど、私が気にするのよ」
アリスの言葉を遮って言う。
これはただの意地っ張りだって、分かってる。
フルートは見た目以上に息を吹き込まないと、《《楽器が鳴ってくれない》》。
楽器を鳴らす。
口で言うのは簡単だ。そして、フルートで音を出すのも簡単。
ペットボトルの飲み口に唇を当てて、角度を調整すると「ホー」と音が鳴る。そのイメージで、フルートに息を入れると音が出る。
ただし、それは音が出るだけ。
音が出ることと楽器を鳴らすことは、実は全くの別物だ。
「私はね、結んだ約束は絶対に守る」
フルートは、楽器の至る所に穴が空いている都合上、どうしてもそこから息が漏れる。その穴を閉じたり開けたりして、旋律を奏でるわけなんだけど、息が足りないとスカスカの音しか出せない。
「アリスのためだけに吹くと誓った以上、周囲からはそれ相応の演奏が求められるのよ」
「和奏ちゃん……」
アリスは気にしないって言うけど、誰がどう見ても今の私は、アリスにふさわしくない。
片や、ブランクがあって薄っぺらい音しか出せない、フルート奏者。
片や、全国大会で奨励賞を取った将来を有望視されているピアニスト。
こんなんじゃ、アリスの演奏に飲み込まれるに決まってる。これで一緒に演奏した、なんて口が裂けても言えない。
プロ奏者は、息をたっぷりと使って中身のギュッと詰まった、豊かで深みのある音を奏でる。楽器に指先を当てれば分かるんだけど、ちゃんと楽器が鳴っていれば、楽器全体が振動するのを感じる。
これが楽器を鳴らす、ということ。
中学三年の私は、曲がりなりにもこれが出来ていた。だから、中国大会まで進めた。
「アリス、一か月頂戴。一か月で、何とかアリスの隣に立てるようにするから」
この感覚を取り戻せてようやく、アリスの凄みの有る演奏にも負けずに、私も隣に立てる。決意を込めて、繋いだままだった手をギュッと握りしめる。
これがもっと前に分かっていれば、みすみす春休みを無駄にしなかったのに……つくづく、行動が遅い自分が恨めしい。
すると、アリスも私の手を握り返して来た。
「……分かりました。私、待ってますね」
「ありがとう、アリス」
じわじわと、胸の奥に熱いものが湧き上がってきた。
今すぐフルートを吹きたい。
アリスの隣に一秒でも早く立てるようになりたい。
私の相棒が手元にないのが、やけにもどかしい。
この湧き上がる感情を、全部音にぶつけたいのに!!
「――ところで和奏ちゃん。一か月、どこで練習するつもりなんですか?」
「それは当然、アリスの――あっ……」
アリスの家の防音室……と言いそうになってはたと立ち止まる。
一か月頂戴、とか決め台詞を言っておいて、練習をアリスの前でするとか恥ずかしすぎる。
「……バス停に着くまで、こっち見ないで」
「ふふっ、分かりました~」
両手で熱くなった頬を触ろうとして、違和感。
あ、そうか。アリスと手を繋いでるままじゃん。
「手、放してよぉ……」
「嫌でーす」
くっ……ピアノを弾いてる影響で、アリスの方が指の力が強い。それに、下手に抵抗して指を怪我してはいけない。
結果、絡み合った指が解けることはなく、アリスの家に到着するまで私は真っ赤な顔を隠すことが出来なかった。