第1話『血濡れの未亡人』
爽やかな百合を目指して書きました。
お楽しみいただけると幸いです!
本日は一時間ごとに五話投稿予定です。
薄暗いホールに美しい音が響き渡る。
集まった観客は、スポットライトに照らされた一人の少女に夢中になっていた。
丁寧に編み込んだベージュの髪を揺らし、少女のしなやかな指先は、八十八の鍵盤の上を自由に飛び回る。シルバーのタイトな衣装が、スポットライトにキラリと反射する。
歯切れの良いスタッカート。均一に整った音調。
体全体を使いながら、少女の指先から次々と芸術が生み出されていく。
軽快な課題曲が終わり、自由曲が始まった。
静かな立ち上がり。
課題曲と比較して、どこか悲しい出だしだ。
演奏を聴いていると無意識のうちに、情景が浮かんでくる。
ああ、恐らくこれは悲劇に違いない。
私たちは、一瞬で異なる世界に引き込まれたような感覚に陥った。
しゃなりしゃなりと年若い女が歩いている。
やがて湖の畔で立ち止まった女は、何かを握りしめながら夜空に浮かぶ月へ手を伸ばし、嗚咽を漏らす。
女の手には、愛しい人の血で染まったハンカチ。
角にはお守りのために施した刺繍。
これは、年若い未亡人の物語。
そんな物悲しい場面を思い浮かべてしまうような、圧倒的な説得力を持った音の奔流が、ホール全体を包み込む。
皆、呼吸を忘れて演奏に引き込まれている。
もしくは自分の呼吸する音が、演奏の邪魔になると思っているに違いない。
転調。
静寂を突き破り、曲調が一転する。
繊細な演奏から打って変わって、荒々しい音の連続。
戦争だ。
私の耳にもハッキリと、軍靴の音が聞こえてきた。
未亡人は性別を偽って、戦争に参加してしまった。
女の心の内を荒れ狂う、復讐の炎が燃え上がっている。
胸には、あの日帰ってきた血染めのハンカチを忍ばせて、女は戦地へと赴く。
大の大人から小さな子供まで、老若男女関係なく、一人残らずピアノを弾く少女ーーアリスに魅了されている。
スポットライトに照らされて、鍵盤の上を白魚のような手が踊る。
技巧を求められる難所を、アリスはあっさりと通過する。
アリスの指先が鍵盤を一つ押すたび、私たちは眠気なんて感じぬまま、一層耳に全神経を集中させていく。
戦いが始まった。
女は、憎い敵を必死で睨みつける。
――居た、敵だ。
女は、湧き上がる衝動を抑えながら引き金を引いた。
当たった!
憎い敵の息の根を止めてやった!
やがて、敵は撤退していった。
女はなんとか生き残った。
だけど、悲劇は終わらなかった。
自分が命を奪った兵士の胸元から、血染めのハンカチが出てきた。
女は悟ってしまった。この憎い敵にもまた、帰りを待つ人が居たのだということを……。
なんという絶望、なんという虚しさ。
女のやり場のない感情が、ホールをいっぱいに満たす。
アッチェレランドの指示通り、じわりと曲のテンポが上がっていく。
もうすぐ曲が終わる、クライマックスだ。
アリスの指がせわしなく動き、五線譜に従って転調、和音、不協和音を紡いでいく。ぐちゃぐちゃにかき乱された、女の悲哀を示しているよう。
最後の最後、ラスト二小節。
一拍分、音が止む。これはミスじゃない、何度も練習してきた楽譜の指示通り。
ここからはテンポの縛りはない。
万感の想いを込めて、アリスは優しく腕を振り下ろす。
この曲の名前は『血濡れの未亡人』。
第一次世界大戦の実話を元に作曲された、悲劇の曲。映画にもなっているから、主題を聴いたことがある、という人も少なくない。
この曲が難曲とされる理由は、最後の二小節にある。この二小節は、人によって解釈が分かれるからだ。
すなわち、未亡人が敵の胸元から出てきたハンカチを見て復讐を諦めたのか、もしくはその場で命を絶ったのか、はたまた……だ。
三和音を一小節、続いて一オクターブ下の根音を一小節伸ばして、これまでの荒々しい雰囲気を一転させて、静かに曲は終わる。
アリスと私で作り上げた解釈は、ここに集まった観客の人たちに評価されたんだって、そう思うと目頭が熱くなる。
圧巻の演奏だった。
ホールに余韻を響かせながら、アリスは鍵盤から両手を上げる。
皆、ハッと息を吸い込む。
演奏が終わってようやく、アリスの表現した世界から現実に引き戻されたのだ。
息の詰まりそうな一瞬の静寂の後、溜め込んでいた感情を爆発させるような拍手が、四方八方から鳴り響く。
ブラボー! なんて叫んでいるおじさんもいた。
私も、手が痛くなるくらい一生懸命に拍手を送る。
「あぁ、やっぱりアリスは凄いなぁ……」
ホールの雰囲気や、余韻に中てられててしまったのだろうか。
私の隣に座っているお婆さんなんて、流れる涙を拭うこともせず、アリスへ拍手している。
一拍遅れて、肩で息をしながらアリスが椅子から立ち上がった。
観客席へ向けてペコリと一礼すると、一段と拍手のボルテージが上がる。
ステージの照明が落とされ、アリスは職員に付き添われながらステージ袖へ移動していく。
拍手に混じって、「どうしたんだろう」とか「大丈夫?」とか言っている声が聞こえてきた。
観客は、今の今までアリスがハンデを負っていたなんて、思いもしなかっただろう。
千代野アリスは、盲目のピアニストなのだ。
アリスが万雷の拍手を受けながらステージ袖へ消えると、次の子が入ってきた。
それでも、拍手は鳴りやまない。
「プログラム十二番、東北地区代表――」
アナウンスがあってようやく、拍手がまばらになっていく。
ステージの照明が上がり、いつでも演奏を始めていいのに、その子は鍵盤を触ろうとしない。
それもそのはず。
アリスの演奏の残り香が、余韻としてホールいっぱいに漂っているのだ。その子は、ステージ上からその匂いをしっかりと感じ取ったに違いない。
覚悟を決めたように、指が鍵盤の上を踊り始めた。
紡がれ始めた課題曲は、どこか精彩を欠いてしまっている。
この空気の中で、演奏することになる子が可哀想でならない。
最後までお読みいただきありがとうございました。
拙作は他サイトからの転載になります。どうぞ最終話までお楽しみいただけると幸いです。
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