第3章 亡霊王の魂【1】
亡霊王として異世界で目覚めて数日。エヴィヘットは自室のベッドにいまだ慣れることができていなかった。庶民であったエヴィヘットにとって、このベッドは豪華すぎる。眠れないとまではいかないが、なんとなく睡眠が浅いような気がしていた。早起きは前世からの習慣で、アイシャが来るまでのあいだ本を読んでいることが増えた。
控えめなノックのあと、アイシャが部屋に来る。エヴィヘットが早起きしていることを知っても、アイシャはまだ寝ている可能性に気を遣っているのだ。
「おはようございます、エヴィヘット殿下」
「おはよう、アイシャ」
アイシャは身分の高い者の世話をすることに慣れており、朝の支度はあっという間に終わる。エヴィヘットも世話されることに少しずつ慣れてきていた。
「今日は何かやることはあるかな」
エヴィヘットはこの数日、手伝いという名目のもとフォンガーレの執務室で過ごしていた。実際のところ、手伝いをすることはほとんどなく、フォンガーレを癒し、気力を湧かせるためにそばにいるだけだった。
「今日は騎士団の稽古の予定が入っております」
「稽古?」
「はい。亡霊王殿下のお力を証明するための稽古ですね」
「ふうん?」
亡霊王の力を持っていても、エヴィヘットはこれまで、騎士らしいことをして来なかった。剣を振るったのは勇者戦がせいぜいのところだ。そんな自分が騎士団に稽古をつけることができるのか。エヴィヘットには疑問だったが、おそらくこの予定を立てたのはフォンガーレで、エヴィヘットに稽古をつけるだけの能力があると確信を持っているのだろう。そうであれば、エヴィヘットには特に異論はない。
「グラディウスを使って稽古するの?」
「いえ。グラディウスを用いらなくとも、殿下は戦闘において充分に振る舞われることができますよ」
「僕は戦った経験がないんだけど……」
「剣を握られればおわかりになりますよ」
アイシャの微笑みには自信と確信が湛えられている。エヴィヘットはまだ亡霊王の力を完全に把握しているわけではないが、勇者戦の際には身体が勝手に動いた。亡霊王の魂には、確かに戦いが刻み込まれているのだろう。
* * *
朝食が済むと、エヴィヘットは騎士団の訓練場に向かった。見学にとフォンガーレも同行し、ヴォラトゥスとグラディウス、ティストナードとモーネもエヴィヘットに続いた。随分と大所帯だ、とエヴィヘットは少しだけ怯む。全員が自分のために同行している。それだけで少し緊張するようだった。
金属音が響く中、騎士団の訓練場でステュルカが一行を待っていた。
「王陛下、エヴィヘット殿下。お待ちしておりました」
ステュルカはフォンガーレとエヴィヘットを椅子に案内する。訓練場の全体を見渡せる場所だった。
ステュルカが短く笛を吹く。騎士たちは訓練を切り上げ、フォンガーレとエヴィヘットの前に整列して跪いた。その動きには無駄がなく、姿勢も美しい。その点においてもよく訓練されているようだ。
「本日は亡霊王エヴィヘット殿下が我々に稽古をつけてくださる。気を引き締め、エヴィヘット殿下の戦うお姿をよく目に焼き付けるように」
騎士たちは揃って返事をする。それだけの期待が集まっていることに、エヴィヘットはまた怯んでいた。期待通りの結果を出さなければならない。だが、エヴィヘットは勇者戦の他に戦いに出た経験がない。「剣を握ればわかる」とアイシャは言っていたが、本当にその通りなのかまだ疑っていた。
「今回はどんな稽古になるんですか?」
まずは心構えのために、とエヴィヘットはステュルカに問いかけた。ステュルカは穏やかに微笑む。
「殿下との模擬試合になります。騎士の鍛錬度合いを陛下と殿下にご覧に入れるための簡単な試合ですね」
途端、エヴィヘットの肩にプレッシャーが圧し掛かった。エヴィヘットは自分がどれくらい戦えるかを知らない。騎士団長ステュルカとともに亡霊王の騎士団に勝ち残った騎士と戦えるとは到底、思えなかった。
内心、焦りが止まらないエヴィヘットを尻目に、模擬試合の準備が着々と進められる。訓練場の中心に簡素な試合場が作られ、騎士たちはそれを取り囲むように控えている。亡霊王との模擬試合に、ラーセリは気合いが入っているようだった。
「エヴィヘット殿下、よろしいですか?」
爽やかな笑みのステュルカに、エヴィヘットは戦々恐々としながら頷く。エヴィヘットの手によく馴染む剣が用意されていたが、上手く扱えるとは思えなかった。
「では、始め!」
ステュルカの号令で、ラーセリが剣を構える。ひとつ息を整え、駆け出した。息を呑んだ瞬間、エヴィヘットの体は勝手にラーセリの切っ先を躱す。軽く身を翻し、剣を振り下ろした。それを剣の腹で受け止めたラーセリを蹴り飛ばす。ラーセリがバランスを崩した隙を見逃さず、エヴィヘットの剣はその喉元に突き付けられた。エヴィヘットが自分の体に意識が追いつくより先、あっという間に勝負は決まっていた。
(……これが、亡霊王の力……)
剣を下ろしたエヴィヘットに、騎士たちから惜しみない拍手が贈られた。ラーセリは悔しそうにしつつ、丁寧に辞儀をする。
(剣を握ればわかる……なるほど。これがチートなんだ)
亡霊王の魂に、戦いの記憶が刻み込まれている。エヴィヘットが意識しなくとも、魂が勝手に体を動かすのだ。
「お見事です、エヴィヘット殿下」ヴォラトゥスが言う。「お姿が変わられたことで、より軽やかな動きが可能になられましたね」
「期待通りだ」と、フォンガーレ。「亡霊王の魂は廃れていないようだな」
むしろ意識したほうが弱体化するかもしれない、とエヴィヘットは考えていた。魂に従うことで亡霊王の名に恥じない戦いができるのだろう。
「次はエルドとの模擬試合をお願いいたします」
悔しさに顔をしかめるラーセリの肩を軽く叩き、エルドが試合場に進み出る。その表情には、これまで積んで来た鍛錬への自信が湛えられていた。
「始め!」
ステュルカの号令とともにエルドが駆け出す。エヴィヘットはその気迫に怯みつつ、左手の剣に意識を集中した。エルドが振り下ろした剣を軽く受け止めると、とっ、と地を蹴り跳躍する。振り向きざまに振り上げられたエルドの剣は、エヴィヘットに届く前に彼の剣によって弾き飛ばされていた。
「そこまで!」
ステュルカの声で、エヴィヘットは足を止める。驚くべきことに、亡霊王の魂は追撃しようとしていた。確実に仕留めるまで、戦いをやめないのだ。
「鍛錬が足りぬようだ」
フォンガーレは目を細める。エルドは悔しそうな表情で剣を拾い上げた。
「亡霊王殿下と勝負ができるなど、思い上がりも甚だしかったようです」
「その気概は認めよう。これからも鍛錬に励むといい」
「はっ」
エルドが下がっていく中、エヴィヘットは緊張が最高潮まで上り詰めていた。ラーセリとエルドの相手をしていたということは、次は……――。
「では、最後は私とお手合わせお願いいたします」
ステュルカが前に進み出る。ステュルカの能力はフォンガーレも認めている。いくら亡霊王の魂があったとしても、これまでのふたりと同じように退けることができるか、エヴィヘットには自信がなかった。
ステュルカが剣を構えると、エヴィヘットは不意に、腕から力が抜けるのを感じた。ここで魂の効果が切れたのかと内心で焦っていると、ステュルカが地を蹴った。ステュルカが剣を振り上げた瞬間、腕に鋭い感覚が走る。瞬時に力が込められた腕を振り上げ、ステュルカの剣を弾く。しかし剣はステュルカの手を離れることはなく、その切っ先は再びエヴィヘットを目掛ける。エヴィヘットは軽く身を翻し、その一撃を簡単に躱した。ステュルカの背後を狙った蹴りは、手甲によって受け止められる。エヴィヘットが体勢を持ち直す一瞬の隙に、ステュルカは再び剣を振り下ろした。エヴィヘットは腕を支柱に跳躍し、その一撃を躱す。剣を振り上げるより一瞬だけ早く、ステュルカの動きはエヴィヘットの剣先によって封じられていた。
「そこまで」
フォンガーレが軽く手を挙げる。大きく息を吐いたエヴィヘットに対し、ステュルカは苦々しい表情になった。
「さすが騎士団長」グラディウスが言う。「これだけ食らい付いて来るとは」
「どうだ、エヴィヘット」と、フォンガーレ。「自分の実力が少しはわかったか」
「はい……」
肩で息をするステュルカに対し、エヴィヘットは呼吸ひとつ乱れていない。亡霊王にとっては難しくない試合だったようだ。
「意識しなくても体が動きました」
「それが亡霊王の魂だ。お前なら利き腕が切り落とされていようと剣を振るえるはずだ」
あまりに朗らかにフォンガーレが言うので、ひえ、とエヴィヘットは短く声を漏らした。
「でも、ステュルカは鍛錬を積めば僕に追い付けるんじゃないですか?」
「ご冗談を」ステュルカが笑う。「亡霊王殿下の魂に追い付くなど、一介の騎士である私には不可能ですよ」
どうやらこの模擬試合は単なる稽古の一環だったらしい、とエヴィヘットは考える。最初から、誰もエヴィヘットに勝てるとは思っていないのだ。
「お前にはこれから、騎士の実力を測るために定期的に模擬試合を行ってもらう。騎士たちはそれを目標に鍛錬に励むように」
騎士たちは意思のこもった表情で頷く。亡霊王に追い付くことはできないが、ステュルカのように食らい付くことができれば能力が伸びた証だ。トーナメント戦を生き残ったラーセリとエルドでさえ一撃でやられた。その道のりは遠いことだろう。
フォンガーレが自分の仕事に向かって行くと、エヴィヘットは椅子に座って騎士たちの稽古を眺めることにした。
「僕は見てるだけでいいの?」
「はい」グラディウスが頷く。「亡霊王殿下がいらっしゃるだけで、騎士たちは手を抜けなくなりますから」
その言葉の通り、騎士たちは気合い充分な表情をしている。普段は手を抜いているというわけではないだろうが、最強の騎士である亡霊王の前でだらしない姿を晒すわけにはいかない。怠けた瞬間、ステュルカが首を落とす可能性もあるのだろう。
「人間にも、亡霊王殿下がお目覚めになられたことが遠くなく伝わります」ティストナードが言う。「勇者の末路を知れば、しばらく攻め入る者はいないでしょう」
「愚か者がいないといいのですが」
モーネが冷静に言うので、エヴィヘットは小さく頷いた。勇者と呼ばれるからには、あの三人は人間軍に認められてこの城へ乗り込んで来たのだろう。その勇者が惨憺たる末路を辿ったことがどこまで伝わっているかはわからないが、亡霊王の脅威が知れ渡れば、人間軍に魔族と戦おうなどという気は湧かなくなるはずだ。
「亡霊王のことは人間も知ってるの?」
「かつての戦いで亡霊王殿下がおひとりで人間軍を壊滅させたことは歴史に遺っているはずです」と、グラディウス。「遺していないなら、人間は愚かだと言わざるを得ません」
「勇者でなければ騎士団の三人でも対処できるでしょう」ティストナードが眼鏡を上げる。「エヴィヘット殿下の出番はしばらくないかと」
「そう……」
亡霊王の魂の戦闘能力はこの模擬試合でよくわかった。だが、明確な敵はどんな手を駆使するかわからない。戦いの場に出る日が来ないことを祈らざるを得なかった。