第1章 亡霊王の目覚め【3】
アイシャの案内を受けて浴場に行くと、脱衣所だけで以前に暮らしていた家のリビングほどの広さがあった。さすが王城の浴場だけある、とエヴィヘットは感心していた。
そうしているあいだに、アイシャがエヴィヘットの服を脱がしにかかるので、エヴィヘットは慌ててその手を止めた。
「自分でできるから! ひとりで入るから!」
「さようでございますか」
身分の高い者が使用人に世話をされるのは当然のことだが、エヴィヘットはもともとただの平民。こんな扱いを受けることに抵抗があるのも当たり前だった。
「では、私は外にいます。何がありましたらお呼びください」
「うん。ありがとう」
自分も女性であったなら抵抗も少なくて済んだのだろうか、と考えてみたが、そもそも身分の高い者として扱われること自体に抵抗が湧くはずだ。これから慣れることもあるかもしれないが、しばらくはまだ戸惑うことだろう。
浴室も驚くほど広く、その中に大きなバスタブが置かれている。物語のイメージで言うと、魔族の中には人間より体の大きな者が多くいる。どの体型でも湯浴みできるようにバスタブも大きくなっているのだろう。
バスタブのお湯は少し熱いくらいだが、目覚めたばかりの体にはちょうどいい。
思考を巡らせると、あの三人のことが頭に浮かんだ。
(僕は、タクヤたちの悪趣味な道楽で異世界転移を試されて死んだ……)
異世界転生し、最強の騎士として目覚めた。それも、勇者のチート能力を上回る能力値を手に入れて。あれほど弱かった自分が、城の兵の半分を撃退した勇者を凌駕することが信じられない。この世界に神が存在するなら感謝したいところだ。この力を正しく使いこなすことができれば、亡霊王の称号に相応しい騎士になれるのだろう。
(そういえば、魔王陛下が『詳しいことは今夜、聞く』って言ってたな……。あとで会うってことなのかな)
魔王ともなると、亡霊王の能力値も把握していることだろう。能力値を使いこなすには、まずは自分の能力を熟知する必要があった。
湯浴みを終えて浴場を出ると、アイシャが優しく微笑んで振り向いた。
「それでは殿下、こちらへどうぞ」
おそらく魔王のところへ通されるのだろう、とエヴィヘットはそれに続く。エヴィヘットとしても、早くこの世界のことを把握したい。そのためには、魔王から話を聞くのが手っ取り早いだろう。
アイシャに案内されて辿り着いたのは、エヴィヘットの身長よりはるかに大きなドアの前だった。魔王はこれまでエヴィヘットが出会って来た人間たちより体が大きい。
(それにしたって大きすぎだな……)
ドアを眺めて呆けるエヴィヘットの傍らで、アイシャがドアをノックする。向こう側から声が聞こえると、アイシャは静かにドアを開いた。
「エヴィヘット殿下をお連れいたしました」
フォンガーレはベッドでくつろいでいたようで、アイシャの辞儀で本を閉じる。
「来たか」
先ほど王座の間で謁見したときより、フォンガーレの表情が柔らかく見える。いまは私的な時間なのだろう。
アイシャはもう一度、辞儀をして去って行く。ここはおそらくフォンガーレの寝室。どうしたものかとエヴィヘットが立ち尽くしていると、フォンガーレは不思議そうに手招きする。
「どうした。こちらへ来い」
エヴィヘットは首を傾げつつ、フォンガーレに歩み寄る。フォンガーレは、大きなベッドの自分の横にエヴィヘットを促した。
「僕はなぜここに呼ばれたのでしょう」
「従属契約を完了させるためだ」
「どうすれば完了するんですか?」
「簡単に言えば夜伽だな」
「夜伽……」
ベッドに上がろうとしていたエヴィヘットは、その言葉が脳内に浸透するのと同時に退いた。
「僕は男です!」
「何が問題なのだ」
「ええ……」
エヴィヘットが怯んでいるうちに、腕を引かれてベッドの上に放られる。自分の何倍もの体型の男に組み敷かれ、エヴィヘットは抵抗する術を持ち合わせていなかった。
「ま、待ってください……心の準備が……」
そんなものができるはずがないと思いつつ、どうにかこの腕の中から逃れる方法はないかと自分の内側に意識を向ける。何かしら逃げるための魔法かスキルがないかと検索してみたが、どうやら役に立つものはないらしい。
「これを知らなかったということは、お前は魔族ではなかったようだな」
魔族にとって常識なのか、と考えつつ、エヴィヘットは頷く。
「僕は人間でした」
「つまり一度、死んでいるということか」
「……はい」
「そして亡霊王に導かれた。この私のもとへ」
フォンガーレが不敵に笑う。どうやらこの場から逃げ出す方法はないらしいが、それでも抵抗せずにはいられない。
「これはしなければならないことなんですか?」
「先ほどの儀式は仮契約のようなものだ。正式に契約しなければ、お前の能力を最大限まで引き出すことはできん」
「でも、僕は勇者に勝ちました」
「正式な契約があれば、人間の国ひとつ滅ぼすことも容易ということだ」
そういえば、と頭の冷静な部分が考える。勇者として魔王を討伐するために魔王城に乗り込むのは当然だと思っていたが、そもそも人間の中から勇者が選抜されるには理由がある。
「魔族と人間は争っているんですか?」
「人間が一方的に敵視しているだけだ。その遣いが時折、来るのでな」
魔族が人間を攻撃することはないが、攻め込まれれば話は別、ということだ。そう考えていたエヴィヘットに、フォンガーレはまた不敵に笑った。
「さて、心の準備は整ったか」
「ま、まだです……!」
「待っていては朝になってしまうな」
だからグラディウスは朝まで適当に過ごすと言っていたのだ、とようやく気付いた頃には、すでにエヴィヘットは魔王に翻弄されていた。