第1章 亡霊王の目覚め【1】
目を開くと、薄暗い空間に佇んでいた。明かりに照らされてはいるが、足元はよく見えない。辺りを見回したとき、何か金属音のようなものが聞こえた。耳を澄ませてみると、遠くから何か騒がしい音が響いている。人の怒号、爆発音、激しい金属音。それが何であるかを判別できないうちに、騒音は徐々に近付いて来るようだった。
(……僕は、どうなったんだろう……)
頭がぼんやりする。直前のことが思い出せない。ここがどこなのかもわからない。
確か、学校にいた。最終下校時間の過ぎた夕暮れ時。数名のクラスメートとともに。あれらは一体、誰だったか。よく思い出せない。
「おい、首無しの騎士だ! 気を付けろ!」
そんな声に振り向いた瞬間、心が波立った。あのときの光景が、鮮明に思い出された。
それは三人の冒険者。剣を構え、軽装の鎧を身に着けた青年。真っ赤なローブを身に纏う少女は杖を手にしている。その後ろにいる重装の少年は槍を構えているが、怯えた表情をしていた。
「魔王城つったって、大したダンジョンじゃないわね」
この少女は、いつも賑やかなグループの中心にいたミカコ。陰で悪口を言われていたのは、都合良く聞こえていなかったようだ。
「このチート能力があれば魔王だって楽勝さ」
そう言って笑う少年は、自信家のタクヤ。クラスのリーダーのような存在だった。悪い意味での。
「なあ、早く終わらせて帰ろうぜ……」
タカオは根は悪くないが、いつもタクヤとミカコの後ろにいた。このグループの良心と言えるが、友達を選ばなかった結果を見せつけられていた。
余裕の笑みを浮かべたタクヤが、こちらに向けて剣を振り下ろす。驚きとともに手で払うと、激しい金属音が響いた。途端、タクヤが驚いたように目を剥く。その手にした剣は真っ二つに折れていた。
ようやく自分の手を見ると、西洋の甲冑によく似た手甲が嵌められている。その手をじっと見つめていたとき、まるで魔法のように大振りの剣が現れた。その途端、三人の顔が青褪める。
(ああ……なんだ……)
確信とともに剣を振り上げた。
(こんな簡単なことだったんだ)
それは一瞬のことだった。気が付いたときには、無惨な三つの死体が目の前に転がっている。三つではなくなっていたが。
剣が手から消えるのを眺めていると、また数人の足音が近付いて来た。鎧を身に纏った者たちと、その中心にローブの男性がいる。ローブの男性は、こちらに気付くと目を剥いた。
「ああ……」
転がる死体には目もくれず、男性は声を震わせる。
「お目覚めになられたのですね……亡霊王殿下……!」
男性が歩み寄って来るのでようやく気が付いたが、自分は随分と高いところから見下ろしている。この長い黒髪の男性も長身のようだが、自分の視点はそれよりさらに高いところにあった。
「お前たちは魔王陛下がご無事か確認して来い」
「はっ!」
騎士たちは足並みを揃えて廊下の向こうへ走り去る。それを呆然と見送っていると、男性が顔を覗き込む。
「勇者たちも、亡霊王殿下の御前では無力だったようですね」
自分の足元は血の池になっている。その中に転がるものを、ただ無感情に眺めた。
(勇者……この三人が……)
つまり、と考える。あの道楽のような実験で、この三人は無事に異世界転移した。その際、自分だけ失敗して死んだということなのだろう。この男性が自分のことを知っているとなると、異世界の何かしらに転生したらしい。この三人はチート能力を得て勇者を名乗っていたが、どうやら自分の能力はそれを上回ったようだ。
「まだぼんやりなさっているようですね」
男性が穏やかに微笑む。この勇者と呼ばれる三人のことはすでに視界にないらしい。
「どうぞこちらへ。落ち着いた場所へ参りましょう」
男性に促され、歩き出す。どうやら全身が甲冑でできているようだ。あの三人は敵として認識していたようだが、この男性にとっては仲間らしい。
(魔王……亡霊王……)
随分とファンタジーな世界に来たようだ。それも、あの三人と同じ世界に来るなんて、神の悪戯だろうか。この機会を与えてくれたのだとしたら、目に見えないものだとしても感謝するべきだろう。
男性が案内した部屋は、ベッドとチェスト、椅子と机が置かれただけの部屋だった。男性より幾分か背が高いため、部屋に入る際に腰を屈める必要があった。それで気が付いたのだが、自分は頭がないらしい。タクヤも「首無しの騎士」と言っていた。声を発することができないのはそういうことなのだろう。この巨大な鎧によく勝負を挑んで来たものだ。実に自信家のタクヤらしい。
「騒動が落ち着くまでここにいましょう」
穏やかに微笑んだ男性が、膝を折って跪いた。
「亡霊王殿下。お目覚めを心よりお慶び申し上げます。殿下がお眠りになってから悠に百年……。我々は、亡霊王殿下のお目覚めを心待ちにしておりました」
口が利けないのはむしろ僥倖だったかもしれない、と考える。もし言葉を発することができていたなら、なんと答えたらいいかまったくわからなかったところだ。
「わたくしはヴォラトゥスと申します。魔王陛下の側近です。魔王陛下のご無事が確認されれば、すぐに謁見が行われますよ」
魔王と言われて想像するのは、ゲームの最終ボスなどの姿だ。どれも凶悪で強大なイメージがある。そんな者を前にしては、いくら自分が勇者を凌駕する強者となったとしても、怯んでしまうのではないだろうか。
(まさか道楽のための転生でこんなすごい魔物になるなんて……)
亡霊“王”と呼ばれるからには、魔物の中でも高位の存在なのだろう。殿下と呼ばれるのは、魔王に次ぐ立場ということだ。
乱暴にドアがノックされ、トカゲ――おそらくリザードマン――の兵が部屋に入って来た。
「魔王陛下のご無事が確認されました。亡霊王殿下との謁見をお求めです」
「行きましょう。殿下がどんなお姿か楽しみです」
ヴォラトゥスが穏やかに微笑むので、ない首を傾げる。いまは甲冑姿のようだが、鎧を脱げば本来の姿になるということだろうか。
ヴォラトゥスの案内で歩く廊下は綺麗だった。戦いはここまで届かなかったのだ。届く前に亡霊王が勇者パーティを全滅させた。魔王が手を下すまでもなかったらしい。あれでよく「楽勝さ」などと言えたものだ。
「失礼いたします」
ヴォラトゥスが開いたドアの先は、学校の体育館より広いのではないかと思わせる部屋だった。その奥に、段差の上に置かれた豪華な椅子に腰掛ける大男の姿がある。浅黒い肌に不敵な笑みを浮かべたその大男は、魔王という称号に相応しい風采であった。
魔王を前に、自然と跪いていた。魔王の配下であることが、この鎧に刻まれているようだ。
「亡霊王、よくぞ目覚めた。お前の目覚めを待ち侘びていたぞ」
この魔王の名はフォンガーレ。それが頭の中に流れてきた。数百年、王座に就いている魔族の王だ。亡霊王が眠りに就く百年前も王として君臨していたのだろう。
「まずは口を利けるようにしてやろう。お前の名はエヴィヘットだ」
淡い光が鎧を包む。それと同時に、視界が鮮明になっていくのを感じた。徐々に兜が形成されていく感覚がある。魔王フォンガーレの力が自分に注がれたのだと理解した瞬間、がらがらと音を立てて鎧が剥がれ落ちた。視界が一気に低くなり、宙に放り出される。床に着地した足は、人間の身体と同じもの。手を見てみると、人間と同じ五本指の手だった。もちろん、頭もある。
「百年の眠りから覚めた亡霊王が、かような幼き少年だったとはな」
豪快に笑う魔王を見上げていると、ふたりの兵が鏡を持って来た。それを覗き込むと、異世界転移の実験をしたときとほとんど同じ外見をしている。ほとんどというのは、短い髪が銀色で瞳が紅玉のように真っ赤であるという点が違っていた。実験に付き合わされたときは高校生であったため少年ではないのだが、巨大な体躯の魔王から見れば少年なのだろう。
「お前の中にもうひとつ、何かが存在しているようだ。呼んでみよ」
魔王を見上げ首を傾げると、そばで跪いていたヴォラトゥスが言った。
「ご自分の内に意識を集中してみてください」
内に、と呟いて手のひらを見つめる。体が風に浚われたような感覚のあと、自分のそばで光が瞬く。それは人型を形成し、足元からその姿が見えるようになった。それは頭ひとつ分ほど背の高い黒髪の男性で、端正な顔立ちをしている。男性は地に足が着くと、そのまま跪いた。
「魔王陛下、お目通り叶い光栄です。亡霊王殿下におかれましては、お目覚めを心よりお慶び申し上げます」
この男性に見覚えはないが、亡霊王の配下であるのだろう。学年イチのイケメンと称されていたクラスメートより美形だ。
「して、お前は?」
フォンガーレの問いに、青年はより深く頭を下げる。
「亡霊王殿下の剣にございます。名はありません」
「ふむ。では、エヴィヘット。お前がこやつに名を付けろ」
フォンガーレが青年を差して言うので、思わず怯んでしまう。青年を振り向くと、期待に満ちた表情をしていた。先ほど魔王がそうしたように、魔族が名を与えることには意味があるのだろう。
「あ……えっと……」
まだこの状況に馴染めていない頭は鈍く回る。剣、剣、と心の中で何度も呟いていると、思い付くのに数秒がかかった。
「えっと、じゃあ、グラディウス……で……」
自信なく言った瞬間、青年を光が包む。光が青年に吸収されると、開かれた瞳は紅玉のような赤だった。
「不肖グラディウス、亡霊王エヴィヘット殿下の剣として、命を賭する覚悟にございます」
魔王が自分に付けたエヴィヘットという名。それもグラディウスと同じようにこの体に刻み込まれたようだ。
「さて、堅苦しいのはここまでだ」
フォンガーレが軽く手を挙げると、グラディウスとヴォラトゥスは姿勢を正して立ち上がる。ようやく緊張から解放されたような気がして、エヴィヘットは小さく息をついた。
「エヴィヘット」フォンガーレが言う。「勇者軍をひとりで下したらしいな」
「勇者軍……?」エヴィヘットは首を傾げる。「たった三人でした」
「そのたった三人に、城の兵の半分がやられたのです」
ヴォラトゥスは忌々しく眉をひそめる。あの三人は異世界転移のギフトとしてチート能力を手に入れていた。それは城の兵の力を凌駕し、魔王討伐を目指せるものだったらしい。それをエヴィヘットは捻り潰した。あの三人を上回るチート能力を得たようだった。
「ところで、お前の魂はこの世のものではないようだ」
フォンガーレがつくづくと言う。エヴィヘットはもともと異世界の人間で、まさしくこの世のものではない。
「やはり亡霊王はあのとき死んでいたのだな」
「あのとき……?」
「百年前、魔族と人間のあいだで戦争がありました」ヴォラトゥスが言う。。「亡霊王殿下はおひとりで戦地に赴き、人間軍を滅ぼされたのです。それからお眠りになられていたのは、そのときすでに魂を失っておられたということですね」
「亡霊王はひとりで魔族を守り抜いた」と、フォンガーレ。「その称号を誇るといい」
そんなすごい人に転生してしまったとは、とエヴィヘットは内心で慄いていた。自分は魔法の存在しない世界のただの高校生で、王の称号を与えられるような人間ではなかった。だが、その実力は勇者戦で確認済みで、異世界転移のチート能力を上回っていること明白だった。
「詳しいことは今夜、聞く。勇者の処遇を決めよ」
「勇者の……?」
「殿下、どうぞこちらへ」
ヴォラトゥスがフォンガーレに辞儀をして先を歩き出す。エヴィヘットも同じように頭を下げ、そのあとを追った。それにグラディウスも続く。勇者はすでに死んでいるはずだが、とエヴィヘットは首を傾げた。