終わり
ふと、違和感を覚えて目を覚ます。焦げ臭いにおい、パチパチという音、心の底から湧き上がってきた恐怖。私は、今何が起きているのかに気づくと、急いで隣で眠っている恋人を揺すり起こした。
「火事だ、火事だよ。ねえ、起きて」
彼は一度寝入ってしまうと、滅多なことでは起きない。途方にくれた私は、それでも勇気を振り絞って、襖を開けた。廊下に出て気づく、右も左も炎と煙しか見えない。急いで寝室に戻り、窓を開けた。外もまた炎が燃えていた。恐らくアパート全体が火事なのだ。私は火に囲われたことを知った。そしてこの光景に何故か既視感を覚えた。
『大丈夫』
ああ、私はこの声を知っている。
私を覆い隠すように上から抱きしめているのは、私がよく知っている体温。
『怖いよ。……怖いよ、お兄ちゃん』
『大丈夫、大丈夫だよ。……ずっと一緒にいるから』
「涼香」
よく馴染んだ声。いつもいつも、私が一人で追い詰められている時にだけ現れる人の声。
「……シン」
彼は一瞬、未だに眠ったままの先輩へ目線を向けると、何故だか酷く嫌そうな顔をした。そして、私に向き直り、笑った。
「終わらせてあげようか」
いつか聞いた言葉だった。私が願い、そして彼が叶えてくれると約束した言葉だ。
「え」
「僕が、終わらせてあげようか。こんなところで、こんな男と、炎で燃えて死ぬよりは、よほどマシだと思うけど」
シンの言葉は、かつては救いだったけれど、今の私にとってはもはや何でもなかった。
「私の恋人を、こんな男だなんて言わないで」
「……どうして、涼香は僕を必要としていたのに」
そうだ、幼い頃、私はシンを必要とした。——というか、必要としたからこそ、シンは存在したのだ。
もう分かっている。私が一人の時にだけ現れて、私に都合の良い行動をし、救いとなる言葉をくれる存在。そんな人が現実にいるものか。本当はとっくに、気づいていた。認め切るのが怖かっただけだ。認めた途端、何もかもなかったことになってしまいそうで、それを無意識に拒否していただけだ。けれど、もう私は逃げてはいけない。
だって、死にたくない。ここで終わりたくない。今、私は幸せに日々を過ごしている。これから先に、もっと幸せになれる未来がある。もうシンの救いは必要としていない。
生きて、幸せになりたい。
「確かにシンは私にとって必要だった。私の救いだった。——だけど、一緒に終わることはできない。だってシンという人間は、私が作り出した幻影にすぎないんだから」
シンなんていう人間は最初から、どこにもいなかったのだ。かつての私が、極限の状態の中で、自分の心を慰めるためだけに作り出した幻にすぎない。
「……そう、そっか」
シンはまた、先輩を見ていた。
「それじゃあ、これで僕は本当に終わりだ。」
打ち捨てられたような、寂しさを含んだ声。私が頼りにしたから、彼は私に寄り添った。私が求めたから、彼は私に応えたのだ。優しいばかりだった人を、自身の思い通りに操って動かしていたのは、きっと私だ。それなのに、たった一つ、初めて彼から求められたら、私は冷たくもそれを無下にするのだ。
「うん、ごめんね。もっと早く終わらせてあげられなくて」
私はシンに近づいて、手を伸ばすと、頬を挟んでこちらに視線を向けた。どこか私と似通った眼差しにぶつかる。
「ありがとう。私の初恋の人」
私はあなたがいたから生きてこられた。
私の言葉に、何故だかシンは酷く驚いたように目を丸くした。それから、少し躊躇するような間があってから、私の頬に手を伸ばす。私はこの時にはもう涙をいくつも零していた。彼の顔がゆっくりと近づいてくるのを見て、目を閉じる。
「どうか、幸せに、生きて」
震えた声だった。その声は、今まで聞いた中で一番優しく、一番甘く、どうにも縋りたくなるものだった。だからこんな状況にも関わらず、私はどこか夢心地のまま、唇が重なるのを待っていた。
けれど、予想した感触は得られないまま、次に目を開いたその時に、もう彼はどこにもいなかった。