傲慢
私は叶いそうにない、もはや叶える気もない初恋を心の隅に追いやって、高校卒業後の就職先の一つ年上の先輩と、自分で言うのもおかしいが、まあそれなりの関係性になりそうな気配を感じ取っていた。私は高校を出ると、晴れて自立して、小さなアパートで一人暮らしを始めた。私一人しかいない空間であることを思うと、シンと会える頻度が高くなるのでは、と期待のような感情も抱かないでもなかったのだが、幸か不幸か、シンは女の一人暮らしの家に上がり込むような人ではなかった。
私の就職先はおじさんとおばさんの家からそんなに離れた場所ではなく、五歳の子供が十八で就職するまでの十数年間でそれほど周囲は変化しなかったから、相変わらず自然に囲まれた環境ではあったものの、社会人が日中から森の中や川辺を歩き回ることはほとんどなかったから、私はシンと会う回数がめっきり減った。ひと月に一度会えれば良い方で、会っても昔のように寄り添ったり抱きしめ合ったりはせず、私が一方的に近況報告のようなものをするだけだった。
そんな状況が一年近く続いたある日のこと、私はとうとう先輩に付き合ってほしいと言われた。私はすぐにその告白を受け入れた——そう、少しも悩まなかったのだ。この時点で私はきっと自分の中でシンという一人の人間の答えを完全に出してしまっていたわけだ。認め切れていたかは別として、そう遠くない将来、認めてしまわざるを得なくなることもそれなりに理解していたのだ。
「涼香、結婚を前提として、一緒に暮らしてほしい」
先輩にそう言われたのは、交際を始めてからすぐのことだった。私はこれにも一も二もなく頷いた。彼が私を愛してくれていたように、私もまた彼を愛していたからだ。シンを相手に初恋をしていたときとは、何かが明確に違った。私は一歩ずつ、けれど確実に、私が幼い頃、憧れ、願った「幸せ」というものを手にし始めたことに気づいていた。そしてそれをこの上ない喜びとして受け入れ始めていたのだ。
その数日後、私は仕事からの帰り道、街灯もない暗い田舎道を歩く中で、シンに会った。私が成長すると同時に、彼もまた背が伸びた。すっかり大人の男の人と言うべき外見だった。けれど、その眼差しはいつまでも変わらない。どうしてか懐かしさを覚える、鏡に映したように私と同じ色の瞳。
「シン、久しぶり」
彼は何も答えなかった。
「ああ、そういえばね。私、先輩と一緒に暮らすことになったから、今のアパートから引っ越すよ」
「……そう」
シンは何かを言おうとして、そして迷って辞めたように見えた。私は次の日に朝から先輩と出かける約束をしていたことをぼんやりと頭の中で思い出して、そして彼との会話を早めに切り上げようと決めた。長く話し込むだけ時間の無駄に思えたからだ。
「うん。多分ね、結婚すると思う」
やっぱりシンは何も言わない。代わりに、何かを悔やむような、それでいて必死な表情をしていた。彼がこんな顔をしているのは、初めて見た。今なら分かる、このタイミングは私と彼が本来あるべき関係性に戻ることができる最期の機会だった。この時に戻ることができたら、私はこれまで何度も彼がしてくれたように、私からシンを抱きしめて、「ありがとう」と言うだろう。出来る限り、彼と出会った頃の幼い少女の表情をして。
けれど、私はあろうことか幼い頃からの友人が結婚の報告をしているのだから、一言くらい祝いの言葉をくれても良いのに、と思った。そして、その考えを振り払った。だって、そうだ、私は恐らく本心では彼に祝いの言葉など言ってほしくないのだ。そんな他人行儀な言葉を彼の口から聞きたくはないのだ。だから、彼は『言わない』。
「それじゃあね」
答えないシンを置いて、私はそのまま歩みを進めた。何故か、大切な幼少期の思い出に、自分から終わりを告げたような気がしないでもなかった。
夏も終わる頃、私は先輩と同居するために新たなアパートへと引っ越した。