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 人には一つや二つ、苦手なものがあるだろう。私にとって、それは炎だ。小さな頃から、ろうそくの火が苦手、理科の実験に使うアルコールランプは怖くて触れない。おじさんとおばさんに引き取られてからは、どうにかコンロの火だけは克服したけれど、それでも鍋やフライパンの取っ手は火から出来るだけ離れたところを持つようにしていた。何より恐ろしいのは、火事の映像だった。テレビで画面越しに見るだけでも怖くて仕方ないのに、学校裏の山が火事になったのを校庭から見た時は、震えて動けなくなった。案の定こういう人が多い状況の時はシンは助けてはくれない。私は一人で立ち尽くし、そして私の真っ青な顔と尋常じゃない震え方を見て、担任の先生は不運なことにおばさんに電話をかけて迎えに来させた。そう、私にとって本当の地獄はここからだったのだ。


 おばさんは私が火を苦手としていることに勘付いた。以来、家事が求めるレベルに達していなければ、マッチに火をつけて私の目の前に差し出した。別にそのまま私の手に火傷を負わせようというわけではない。可愛げのない子どもを、多少虐めてやろうと思ってはいただろうけれど。しかし、トラウマを繰り返されたら、間違いなく精神的に何かしらの負荷はかかるのだ。私は怖くて仕方がなくて、それがなにより辛くて。結果としてめちゃくちゃ家事が得意になった。今でも特技を聞かれたら、料理が最初に思いつくくらいには。その代わりといっては何だが、私は今でも料理が大嫌いだ。


 失敗しなければこの苦痛から逃げられる、文字にしてみたら当たり前のように思えるけれど、じゃあそれを文字通り達成できるのかというと話は別だ。十四歳の少女は、逆にその文字に支配され、出来ていたはずのこともできなくなり、よく料理を焦がすようになっていた。すると、あの怖い火に手を近づけられるのだ。私はその度に泣いて叫んだ。そして、とうとうおばさんとおじさんの目を盗んで家を抜け出した。この頃の私は、既にどこに行けばシンに会えるのかをほとんど正確に把握していた。


 暗い森の中をひたすら歩く。そのまま出てきてしまったから、少し寒い。脚に触れた草が刃物のような残酷さを持って肌を切る。それすらどうでも良い。あの家に戻るよりは。あの人たちに怒られるよりは。あの火を見るよりは。


「シン! 私だよ、出てきてよ!」


 出てきて、そして私を助けて。私の心の中にあるのは二年前の彼との約束だった。


 もう良い。私はもう充分私でいることを頑張った。終わらせて、終わらせてよ。


 彼はいつの間にか後ろに立っていて、そしてもう躊躇いもないままに、私を抱きしめた。ああ、私はこの体温を知っているのだ。よく馴染んだ、懐かしさすら覚える程の。


「終わらせてくれるんでしょう、もう今度こそ終わりで良い。終わりで良いよ、私」


 シンは何も答えない。いつものことだ。うまい言葉を並べるのは下手な人なのだ。それで良い。何も言わないでいてくれて構わない。


「一緒に終わろう。そして願うの、来世はもっと幸せな女の子になれますようにって。お母さんがいて、お父さんがいて、友達がいて、私を愛してくれる人たちに囲まれて、つらいことなんて何一つなくて、幸せに生きていけますようにって。……私だけじゃなくて、シンも。シンも次は幸せでありますようにって私は願ってあげる。だからシンも私の幸せを願って」


 息を飲む音が聞こえた。


「嫌だ」


 たった一言。今なら分かる、彼にとっての最後の一線。けれど当時の私にとっては希望を絶たれたと同じ言葉。


「どうして! 約束したのに」


「それでも嫌だ。終わりにはしない」


 ——彼はこの時、一体心の中で何を思っていたのだろう。


「じゃあ、これからも、明日も明後日も、私は苦しみ続ければ良いって言うの」


 そうだ。つらいけれど、苦しいけれど、自分では何もできない子供だった私へ。あなたはそれでも、この時終わらなくて良かったのだ。だって来世なんて、次は幸せな女の子になんて、そんなこといくら言ったって死んだら終わりじゃないか。本当に幸せになりたいのなら、今世で生きて幸せになるしかない。その惨酷な子供時代を必死で生き抜く以外に道はない。


 シンはそれを分かっていたから、かつての約束を反故にしたのだ。私が彼を自身の依存と身勝手さ故に愛していたのに対し、彼はもっと違う純粋な感情で私を想ってくれていたのだ。恐らく、これは自惚れではなく。


 ともかく、この出来事をきっかけに、私とシンの関係は少し気まずいものになった。期間にして、四年間程度だ。けれど、十四歳から四年経てば、十八歳だ。高校も終わる歳だ。私も良い意味にも悪い意味にも大人になった。気まずい関係性ながらもやはり定期的に私の前に姿を見せていたシンに、もはや自身の淡い初恋——と言ってみたかったのだけれど、どう振り返っても淡くはない、言い換えるなら仄暗い初恋——をどこかに忘れ去ったように、長年の友人として接することはあまり難しいことではなかった。別に本心から忘れ去ったのではない。この頃私は恐らくまだ彼のことが好きだったわけだし、それを置いても、私は自身の初恋相手のことを死ぬまで——あるいは死んでも忘れることはできそうにないのだから。

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