壺中天(こちゅうてん)その1
(さ、寒い。手がかじかむ。死ぬ……)
――今は十一月
外で水仕事をするには厳しい時期になってきた。今、私は水場で洗濯をしているが、水は刺すように冷たく、指先はしびれるように痛い......
私が長安に来て二週間が経った。今私は後宮にいる――
と、言いたいところだったが、実は宮内の太真宮というところで働いている。
長安に入城した太真様は、すぐ後宮に入って妃になる訳ではなかったようで、やはりしばらく女道士として暮らさないといけないようだ。そのために建てられたのがこの太真宮で、場所は皇帝の御屋敷のそばにあった。
そうすると私の身分もまた当初の予定とは変わってきて、後宮の官女ではなく太真様の弟子というか太真宮の小間使い的な扱いになってしまったのだ。実質使用人。いや下女扱い――
ここには他にも数人使用人がいるけれど、『手が足りないから』と、私もよく炊事掃除洗濯に駆り出された。
今日は洗濯当番ということでこの寒空の中、外にある水場でゴシゴシと洗濯ものと格闘している訳。
(洗っても洗っても減らないわね、この洗濯もの)
女性もの数人分の洗濯ものってそれなりの量になる。特に太真様のものは(太真様は一日に何回お召替えなさってるのかしら?)と思うくらい大量。それに、他の使用人の分と一緒に洗うという訳にもいかないから、別途一つづつ丁寧に洗わないといけない。それはもう、時間が掛かって掛かって......寒空の中、ずっと水仕事しているのはキツイ、キツイ。
(やっと終わった。さっさと洗濯もの干して炊事場の釜戸で温まろ)
ようやく洗濯当番の仕事が終わって炊事場の釜戸の火で暖を取っていると、炊事場に燕雀が現れた。燕雀とは私と同じくここで働く使用人。年が近いから、使用人達の中では一番仲良くしている。名前の通り、小鳥のさえずりのようによく喋る女の子で、いつも私を和ませてくれる女の子。
「玉葉、ここにいたのね。太真様がお呼びになっているわよ」
「太真様が? いったい何の用だろ?」
訝しみながら太真様のお部屋に向かう私。
(そういえば、ここへ来てから太真様にほとんど会ったことないわね。というか、前からそうか)
『お付きにしたい』とか『気心の知れた娘に身の回りの世話をお願いしたい』とか言ってた割には、この仕打ち。高く高くおだてられながら、一気に下に振り落とされた気分に浸る私。
(炊事に掃除洗濯、確かに身の回りの世話と言えば身の回りの世話か)
ブツブツ不平不満を口にしているうちに(もちろん小声で)太真様の部屋に着いた。扉を軽く叩きながら、
「玉葉です。お呼びだとお聞きしました。入ってもよろしいでしょうか?」
「よく来てくれたわ。中にどうぞ」
「では、失礼いたします」
大きな扉をゆっくりとそして静かに開けて中にはいる。ここ、太真宮は道士の住む道勧という位置づけではあったのだけれど、将来の三夫人候補でもある太真様のお住まいでもある訳だから、太真様のお部屋をはじめ、いくつかのお部屋はとても豪華に造られていた。
「よく来てくれたわ、玉葉さん。ごめんなさいね、こちらに来てから全然お相手できなくて。私もいろいろ忙しくてねえ」
「太真様、お久しぶりです。そんな、滅相もありません。ところで、本日は何用でしょうか?」
「そんなにかしこまらないでよ。私と貴女は『姉弟子』と『妹弟子』の関係なのよ。もっと姉妹のように接してもらってもいいわよ。なんなら、試しに私の事『お姉ちゃん』と呼んでみて」
そうでした、そういう『設定』がありましたっけ。もう少し気軽に接して欲しいという申し出は有難いですが、
(将来の三夫人候補に、『お姉ちゃん』はないわー。絶対ないわー。皇帝様に聞かれでもした日には死罪だわー。その時は五行先生も巻き添えにしたるわー)
でも、人は『やってはいけない』と言われることほど、やってみたくなるもので......深夜の間食、『開けるな』と言われている箱を開ける、ある人から聞いた『ここだけの話』を多数の他の人に『ここだけの話』として話す。等々......
「じゃあ、お、お姉ちゃん」
ちょっと、冗談半分に、モジモジ甘えたそぶりをしながら言ってみた。
「きゃあ、可愛い」
太真様は横たわっていた長椅子から駆けだして、満面の笑みを浮かべながら私を抱きしめた。
(く、苦しい)
抱きしめる腕の力も強くてちょっと痛かったけれど、それより問題は前方の胸! 谷間! 豊満な胸元に埋もれていく私の顔と頭。ずぶずぶと底なし沼に沈んでいくような恐怖が私にはあった。
(人は胸元でも窒息死するのね)
齢十五の私の走馬灯はすぐに終わった。道勧での引きこもり十五年の経験値では大した生き残る術を見出せなかったので、仕方なしに最後の力をふり絞って声を上げる。
「く、苦しいです、太真様。このままでは私は死んでしまいます」
「あら、ごめんなさい。さっきの貴女の『お姉ちゃん』の想像以上の可愛さに、思わず我を忘れてしまったわ」
私は生き残ることに成功した。そして一つ確信することもあった。(これが、皇帝様を落とした太真様の秘術なのね)と。
「はしゃぎすぎて喉が乾いたわ。馬鹿なことはやめてお茶でも飲もうかしら。玉葉さんも一緒にどう? あと、悪いけどお茶の用意もお願いしちゃっていいかしら?」
太真様の立ち位置というか、官位みたいなものはまだ確定していない。一応、女道士としての肩書はきまっているのだけれど、それ以外はまだ未定。
それに伴って、私を含めた使用人の立場も少し曖昧だった。正式に後宮で勤めている訳ではないので官女でもないし、とりあえずは太真宮に雇われている使用人的な位置づけ。人数もまだまだ全然そろっていない。だから、お茶の用意のような雑事も、正式な部屋付きの侍女がいないから、都度手の空いている使用人が対応していた状況だった。
再度長椅子に横たわる太真様の前にお茶を運ぶ。太真様のお言葉に甘えて私も頂くことにする。お茶請けも、これまた太真様のご厚意で月餅を頂く。
(甘い)
庶民に甘味は貴重品だ。これまたまた太真様のご厚意で二個目を頂く。ちなみにお茶をしながらの雑談の中で、今後私は太真様のことを『姉弟子』と呼ぶことになった。女道士の設定はちゃんと守ってみんなに周知しないといけないということで。
皇帝様やこの筋書きを書いた高力士様が、太真様の女道士設定にこだわるのには訳があった。太真様が一時的とは言え、道教の女道士になるというそのことが、とりも直さず、前の旦那さんである皇帝の息子さんとの離縁の宣言とその証明になるから。
太真様が召し上げられた本当の理由は誰もが知っている訳だけれど、こういう建前も『お貴族様』の世界では必要みたい。私のような庶民には無縁の話だった。