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後宮の女道士  作者: 深紫
七聖画(しちせいが)
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七聖画(しちせいが)その2

 翌日、私は再び興慶宮の庭を歩いていた。朝靄の中に白梅の枝が浮かび上がり、池面には薄く湯気が立っている。冬であることを忘れるほど、興慶宮には不思議な温もりが満ちている。まるで別の時間が流れているようだった。なぜ私がまたここにいるかと言うと――



「玉葉、あなたにも一部屋与えましょう。どうせなら、ここでの逗留とうりゅうにも慣れておいた方がいいわ。私が休む夜には、あなたもそばにいてくれると心強いもの」


 私は思わず目を見開いた。私のような身で、宮の中に居所を与えられるなど......


「通常、下女は数人での共同部屋に住まうと聞いています。よろしいのでしょうか? 私などが」


 恐る恐るそう尋ねると、太真様は小さく笑われた。


「あなたは私の妹弟子であり、用心棒でもあるでしょう? いざという時の備えよ。高力士にも話しておいたから、共に見に行きましょう」


 こうして私は、太真様と高力士様に導かれ、興慶宮の奥にある一角へと足を運んでいたのであった。


 その途上、高力士様は大真様より私の心配を耳にしたようで、彼は静かに私の方へと顔を向け、言葉を選ぶように口を開いた。


「「玉葉殿――太真様の御側おそばに仕える者として、今後は“尚祀しょうし”の職をお受けいただきます。香火を守り、兆しを読むこと。後宮に霊気乱るることなきよう、誠心誠意お努めください」


 詳しく聞くと、尚祀しょうし――それは、太真様の霊的な護り手として、占いや祈祷、厄除け符の管理を行う特任の女官。尚儀しょうぎ尚寝しょうしんのように貴妃の日常を補佐する職でもあり、実質的には上級女官の位置づけにあるという。


「だから、部屋を持つ事に引け目をかんじなくていいわ」


 太真様は、私の胸中を見透かすように、そっと背を押してくださった。


 そうして案内されたのは、小さな庭に面した離れだった。木戸をくぐり、障子を開けると、私は息を呑んだ。


 そこには、一面に描かれた彩色画が広がっていた。


 蓮池のほとりで舞う仙女たち、雲を裂いて昇る龍、金の絃を弾く琵琶の童子――どれも筆の冴えと気の通いが感じられる、幻想的な絵だった。だが、決して冷たくはない。温かみがある。人が命を懸けて描いたような、そんな“息づき”のようなものが、壁から滲み出ていた。


 だが、ひとつだけ、妙な空白があった。


 西北の隅――陽が差し込まぬその一角だけが、ぽっかりと塗り残されたように白く、何も描かれていなかった。


「そこが気になりますか?」


 高力士様が声をかけてくださった。私はうなずく。


「なぜ、ここだけ……?」


「これは“七聖画”の伝承になぞらえて、あえて空白のままとしたのです」


「七聖画……?」


 「昔、長安の雲花寺うんかじという寺に、七人の少年が現れて聖画殿に壁画を描いたという逸話があります。彼らは無償で絵を描く代わりに、『七日間、誰も中を覗くな』と告げた。しかし六日目、僧たちが耐え切れず扉を開けてしまった。中にいたはずの少年たちは消えており、代わりに七羽の白鳩が空へと舞い上がったといいます」


「……それで?」


「その壁画は見事でしたが、西北の隅だけが塗り残されていた。人は完全を目指しても、神の領域に手を伸ばすことは叶わぬ。その白き空白には、神聖さが宿ると伝えられています」


 私はその隅に、あらためて目を向けた。光の届かぬ静寂の中で、まるで何かがそこに“息を潜めている”ような気さえする。


「気に入ったかしら?」


 太真様が微笑んで、私を振り返る。


「ええ……とても、もったいないほどです」


 心から、そう思った。


「今夜は、この部屋で泊まってみてはどうかしら? 寝具は私が手配させるわ」


 外からは、冬の日差しが部屋の中をやわらかく照らしていた。私は小さく息を吐いて、再びその白き隅へと、静かに目を向けた。




ーー✳︎ーー✳︎ーー✳︎ーー




 その夜、私は静まり返った興慶宮の離れにひとり、寝具の中で目を閉じていた。


 だが、眠れなかった。


 屏風越しに差し込む月の光が、床の間を淡く照らしている。障子の外では、時折、梅の枝が風に揺れる音が聞こえるだけ。寒さはなく、むしろこの部屋全体が、あの白い空白の一隅を中心に、どこかひそやかに“息づいて”いるようだった。


 私は掛布を押しのけ、静かに起き上がった。香炉の香がかすかに漂い、空気に触れる肌がわずかに粟立あわだつ。


 ――あの場所が気になる。


 部屋の西北。壁画の中で唯一、描かれていないその隅。私は裸足のままそちらへと歩み寄り、静かに正面に座した。何もないはずの空白の壁。しかし、そこには確かに“気配”がある。人のようでいて、人ではない。


 目を閉じると、意識がふっと深い井戸の底へと沈みこんでいくようだった。


 気がつけば、私は夢の中にいた。


 夜の庭に立ち、白梅が淡く光を放っている。どこからか香の風が吹き、霧のようにたなびく空気の中に、ひとりの少年が現れた。絹の衣をまとい、顔ははっきり見えない。


「……あなたは?」


 私がそう尋ねると、少年は何も言わずに手を伸ばし、一本の筆を差し出してきた。細身で白い筆軸。房には金色の糸が巻かれていた。


「七つの筆のうち、これは君のものだ」


 少年は微笑み、そう言うと、霧の奥へと音もなく消えていった。そして私は、夢の中でその筆を受け取った......


――目が覚めたとき、私は愕然とした。


 掛布の中、胸元に抱かれていたのは、まさしくあの筆だったのだ。

 夢と寸分違わぬ筆。白木の軸に、金糸巻きの飾り。手に取ると、冷たくもなく、ぬくもりを帯びているような、不思議な感触があった。


 私はしばし呆然とそれを見つめた。


 まさか、あれは夢ではなかったの?


 視線を感じて顔を上げると、部屋の西北、あの空白の壁が、月明かりにうっすらと照らされていた。そこにはほんのかすかに、筆を走らせたような線のようなものが、確かに見える気がした。


 気のせいかもしれない。だが、違うとも思えなかった。私は筆を胸に抱き直し、もう一度静かに床で眠りについた。

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