勾魂使者(こうこんししゃ)その2
そこにいたのは、一人の女性。彼女は道場の影に隠れるように佇み、こちらを見て微笑んでいた。長く艶やかな黒髪が、柔らかな日差しに照らされてゆらめき、まるで絹のように滑らかだ。彼女の姿には不思議な威厳があって、その華やかさと落ち着いた雰囲気に圧倒された。
(……誰?)
思わず心の中で呟く私を見て、彼女はさらに優雅に微笑み、そっと歩み寄ってきた。
「あらあら、お邪魔だったかしら?」
先生がその女性に向かって歩み寄り、深々と頭を下げた。
「これはこれは、太真様。本日はご足労いただきまして、痛み入ります」
「先生、頭をお上げになってください。形だけとはいえ、わたくしは先生の弟子ということになっておりますもの」
その女性――太真様。私は彼女に直接会うのは初めてだったが、先生の言葉と態度からすぐにその正体がわかった。
道号「太真」、本名は楊玉環。
この美女こそ、今、最も皇帝の寵愛を受けていると言われる人物――とはいえ、この時点ではまだ正式な妃ではなく、名目上は「太真」という名を持つ女道士様だったのだけれど。
楊玉環様は、もともと皇帝の息子さんの妃だった。だけど、その息子の嫁に一目惚れした皇帝が、玉環様を自分のもとに召し上げてしまったという話。
皇帝が自分の息子の嫁を取り上げたなんてことになれば、世間の覚えが悪いから、驪山のふもとにある離宮、温泉宮に彼女を匿い、名目上は道教の女道士として囲っていた。
天師道を信仰する皇帝にとって、道教の女道士にするという手段は、表向きには理に適っていた。天師道は出家主義だから、玉環様も本来ならどこかの道観で修行するべき立場にあったはず。でも、彼女は皇帝のご寵愛を受ける特別な存在。普通の道士のように住み込みで修行させるなんて、そんなことをするわけがない。
そこで白羽の矢が立ったのが、うちの道観。一応、うちも天師道の一派に属しているし、それに規模も小さいから、玉環様の経歴をうやむやにしておくには都合が良かった。知名度もそこまで高くないしね。だから、形式上、玉環様は先生の弟子、つまり私の姉弟子という形で、この道観に名前だけが置かれている状態。
実際には、玉環様がここで修行することなんて一度もないけど、名目上は、彼女も私と同じ道士ということになっていた。
(そう言えばそんな話もあったわね。最近の羽振りの良さはこれか)
彼女のことは先生から聞いてはいたけど、普段の道観での生活でお会いすることは一度もなかったからすっかり忘れていた。
「先生、ここから先はわたくしが彼女に説明いたします」
そう言って道場に入ってきた玉環様は、私の方に歩み寄ってきてしげしげと私の顔を見た。まるで私を品定めするかのようにじっくりと顔を見つめる。
「直接会うのは初めてよね? 貴女が玉葉さんね。聞いていた以上にとても可愛いお嬢さんだわ。これなら将来、本当の女神様になっても不思議ではないわね」
「よくご存じで。この娘は赤子の時に、碧霞元君様を祀った祠の前に捨てられていたのを私が拾いましてな。以後弟子として育てているのです」
先生が感服した表情を浮かべながら答えた。玉環様の目に、ほんのわずかだが興味が走ったように見えた。彼女は目を細め、再び私に視線を戻す。
今の若い子だと碧霞元君様とか知らないかもしれないから、ちょっと補足しておく。。碧霞元君様は当時とても人気のあった女神様。その女神様が人間だった時の名前が玉葉。私の名はそこから頂いたのだった。
「そんな、滅相もございません」
褒められるのは悪い気がしないけれど、さすがにこの美しい女性の前ではどう反応すべきか迷う。それでも、自然と微笑みが漏れてしまうのを止められない。玉環様の上品な雰囲気と、飾らない優しさに、ほんの少しだけ緊張が和らぐのを感じた。
(へえ、意外と勉強しているのね)
私は心の中で驚いた。玉環様のような、皇帝の寵愛を一身に集める存在が、道教なんて気にしているとは思わなかった。どうせ名目だけの女道士なのだろうと、勝手に偏見を持っていた自分が少し恥ずかしい。
「あらあら、照れたお顔も可愛いわね。でも本当、これなら私のお付きに申し分ないわ。いえ、むしろこちらからお願いしたいくらい」
(そうか、玉環様のお付きという訳か。それならば仕方ない、か)
「実は来月初めに温泉宮を離れて宮中に行く事になったの。道号の由来となった太真宮よ。そこがこれからのわたくしの住まい」
「来月ですか? ずいぶん急ですね」
彼女が温泉宮に入ったのは、ほんの半月ほど前だったはずだ。もう少しそこで静かに過ごすのかと思っていたけれど、どうやら皇帝様も待ちきれなくなったらしい。
「宮中に入る際、しばらくは道士として扱われることになるの。だから、道教に詳しい人がそばにいてくれると助かるわ。それに、私が皇帝様に召し上げられた経緯を知っている人たちは、必ずしも私を快く思ってはいないでしょうね。そういう中で、せめて身の回りの世話だけでも、信頼できる娘にお願いしたいと思っているのよ」
玉環様の言葉には、柔らかさの中に確かな決意が感じられた。彼女の立場は確かに皇帝の寵愛を受ける華やかなものだが、その裏には複雑な思惑や敵意が渦巻いていることが伺える。表向きの華やかさに潜む危険――それを、彼女はしっかりと理解しているのだろう。
『気心の知れた』と言われても、今日初めて会ったばかりなのだけれど……。そんな風に思いつつも、美しいお姉さまに頼られて悪い気はしない。きっと、彼女となら上手くやっていけるだろう。そう思っていると、
「それに貴女、『見える』んでしょ?』
「......」
私は無言だった――
「玉環様。よろしいでしょうか? そろそろ温泉宮の方にお戻りになりませんと」
私たちの会話を遮るように、突然、外から低い声が響いた。その声と同時に道場の扉が開き、入ってきたのは長身の男――高力士。彼はしっかりとした体躯を持ちながらも、どこか冷たく張りつめた雰囲気を漂わせていた。
少し年はとっているけれど、その顔立ちは端正で美形と言っていい。でも、惜しいことに彼は宦官だった。そして正直なところ、私の好みではなかった。というのも、彼は少し神経質そうで、どこか線が細い印象があったし、それに――何よりも彼が、玉環様を宮中に召し上げるために裏で色々と画策してきた張本人だと知っていたから。五行先生や私が巻き込まれたのも、すべてこの高力士が描いた筋書きだった。
(何を考えているのか、全然わからない人だわ……)
なんとなくそんな嫌悪感を抱きつつ、高力士を見ていると、彼は玉環様に一礼した。彼の動作はどこまでも洗練されていて、無駄なものが一切ない。冷たさすら感じさせるほどの完璧さだった。
「あら、ごめんなさい。すぐ行くわね」
玉環様は高力士に向かって優雅に微笑むと、私の方を振り返って声をかけた。
「それでは玉葉さん、これからよろしくね」
彼女の言葉には、自然な優しさが込められていた。これから始まる新しい生活への不安が少しだけ和らぐ。私も慌てて背筋を正し、できる限りの礼を返す。
「はい、かしこまりました」
玉環様と高力士が連れ立って道場を出て行く。彼女の残した涼やかな香りが、空気中にほんのりと漂っていた。しかし、それもすぐに消え、道場に残されたのは、私と先生――そして、重い沈黙だけ。
静けさが続く。その沈黙が何とも気まずく、重苦しい。先生と二人きり残されたこの空間が、どうにも居心地が悪くて仕方ない。
私が内心でそんなことを考えていると、その空気をぶった切るように、先生が口を開いた。空気を読むどころか、全く読めない人だってことを、改めて実感させられる瞬間だった。
「と、いう訳だ。玉葉、これから後宮で一生懸命頑張れよ!」
あっけらかんとしたその言葉に、私の胸にこみ上げていた何かが一気に吹き飛んだ。いや、呆れたと言ったほうが正しいかも。こんな大事な局面で、それが先生の締めの言葉?
「何が『と、いう訳だ』ですか、先生」
私は思わずため息をつき、先生に呆れ顔を向けた。
(駄目だ、この人。早く何とかしないと)