勾魂使者(こうこんししゃ)その2
――そして月末近くになったある日の道場にて
「先生やばいです。このままでは私たちは死罪です。そうなる前にさっさと金目の物をかき集めて逃げましょう。吐蕃なら伝手もありますので、とりあえず西に行きますか?」
長安への引っ越しが迫った月末近くの事だったわ。私と先生は非常に非常にマズイ状況に陥っていたの。その切羽詰まった状況の中で、今度は私の方が先生以上の素っ頓狂な事を口走ってしまったわ。
「玉葉。ちょっと落ち着け。事態が良く呑み込めないのだが、お前だけならともかく、なんで私まで死罪になるのだ? あと、基本引きこもりのお前が何で吐蕃に伝手を持っている?」
吐蕃とは、当時長安から遥か西方にあった国の事ね。その頃の長安では国際的な貿易が盛んに行われていて、いろんな国の人たちが出入りしていたの。
でも、吐蕃の件を口に出したのはまずかったわね。ひなびた道勧の引きこもり娘がなんで吐蕃に伝手があるのか? 先生ならずとも気にはなるわよね。よし、こうなったなら、ここは先生の注意を逸らして話を変えなきゃ。私はそう考えて、今回の経緯を事細かに先生に説明したわ。
「『お前だけならともかく』というところが引っ掛かりますが、このままでは我々は、期日までに長安に行けません。我々が先に長安に入り、長安の新しい道勧で玉環様をお迎えする。我々の熱心な懇願に答える形で玉環様が長安においでになる。というのが今回の玉環様長安入りの筋書きです。それが失敗すれば、我々は玉環様だけではなく皇帝様の顔をも潰す事になってしまいます。玉環様の長安入りの前に、我々は絶対新しい道勧に引っ越さなければならないのです」
「それは分かっている。実際荷造りもあらかた終わったし、あとは手配した牛車に載せて長安まで運ぶだけだろ? 人手も足りてるはずだし、何の問題もない筈だが」
「その牛車が問題なんですよ。牛車と御者を貸してくれるはずの李さんが何日か前から家に引きこもっているらしく、李さんの奥さんも今のままでは車を出せないと」
「他の牛車は手配できないのか?」
「村で手配できるのは李さんのとこだけです。村の外の荷運び人となると、あいにく伝手がなくて。村で牛を飼っている人は他にもいるのはいますけど、他の家の牛はほとんど耕作用ですから。荷車引かせて、特に村の外まで出たことある人と牛というと......その点李さんは何度も行商で長安城内に出入りしていますからね。今回の件ではとてもあてにしていたんですが」
「そうか......荷車の手配も出来ない奴がなぜ異国に伝手があるのか知らんが、そもそも李は何で家に引きこもっているんだ? ぐうたらのお前と違って働き者で評判のあいつが」
「『お前と違って』というところが引っ掛かりますが、ここ数日何かに怯えるように布団を被ったままガタガタと震えているそうです。ろくに食事も取らないので、奥さんも大そう心配なされていましたが」
「そうか。最近村で何か変わったことでもあったか? それこそ、李が怯えるような出来事が」
「さあ、そんな大事は起きてないと思いますが......そういえば、村でどなたかの葬儀がありましたね。それが関係しているかどうかはわかりませんが」
「ん~、困ったな。とにかく李に車を出してもらわねば、李より先に我々の方がくたばりかねない。ちょっと李のところを行って話を聞いてくるか」
「わかりました、先生。ではわたくしは道勧の留守を預かっておきますので、どうかお気を付けてお出かけください」
「いや、お前も行くんだよ。道すがら聞きたいこともあるし。吐蕃の事とか」
ちっ、話を逸らす事に失敗したわ。
吐蕃の件は結局、根掘り葉掘り先生に問い詰められたの。村に向かうまでの道中、散々先生に説教されたけど、その件はまた今度お話しするわね。
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――村のはずれにある李の家にて
村のはずれに李さんの家はあったわ。行商の仕事をしている李さんの家はそこそこ羽振りが良く、何人かの住み込みの使用人もいた。家に私たちが着くと、使用人が奥にいた李さんの奥さんを呼びに行ってくれた。私たちは客間で奥さんを待ちながら、振る舞われたお茶とお菓子を頂いていたわ。
しばらくして、穏やかな笑みを浮かべた奥さんが現れた。しかし、今日はその笑顔がどこかやつれている。
「まあ、これはこれは、五行先生。お越しいただきありがとうございます」
奥さんは柔らかい声で挨拶をしたが、その表情には明らかな疲労が見えた。温和で優しそうな人なのに、今はその面影が薄れていた。
「ああ、久しぶりだな。李の具合が悪いと聞いた。様子を見に伺ったんだ」
先生はそう言いながら、椅子からゆっくりと立ち上がった。
「先生、ありがとうございます。実は私も、先生に李を見ていただきたく思っていたところなのです。お手数おかけしてしまいました」
奥さんの声には、どこか焦りと不安が混じっていた。
「どういうことだ? どんな具合なんだ?」
先生が尋ねると、奥さんは沈んだ表情で口を開いた。
「本人曰く……『死神に取り憑かれた』と申しております」
「死神、だと?」
「本人の話をお聞きいただけますでしょうか?」
奥さんは、さらに言葉を重ね、手を合わせるように頼み込んだ。
「わかった、案内を頼む」
先生は頷き、私たちは奥さんに導かれて李さんの寝室へと向かった。屋敷の中は広々としており、部屋の一つ一つが豪奢な調度品で彩られていた。西方からの品々も多く飾られており、李さんが成功した商人であることが窺えたわ。
李さんの寝室に入ると、まず目に飛び込んできたのは、閉め切られた窓。全ての窓が布で覆われ、部屋は不気味なまでに暗い。床には壊れた硝子や陶器の破片が散乱しており、物が暴れた跡があちこちに見受けられた。どうやら李さんはかなり錯乱し、暴れていたらしい。
そして、当の李さんは寝台の上で布団に包まり、震えながらこちらをじっと見ていた。
奥さんが心配そうに彼のそばへ寄り、そっと声をかけた。
「貴方、五行先生が来てくださったわ。大丈夫よ、安心して」
李さんの震えが少しずつ収まり、彼は布団を投げ捨てると、まるで助けを求めるように五行先生の元へすがり寄った。道袍の裾を掴み、潤んだ目で必死に訴えてきた。
「先生……俺はもう駄目なんだ。近いうちに、きっと死ぬ……」
「一体どうしたというのだ? 何があった?」
先生が落ち着いた声で尋ねると、李さんは怯えた顔で答えた。
「勾魂使者が……俺を迎えに来たんだ……」
「勾魂使者?」
「勾魂使者って、先生……」
「ああ、玉葉」
勾魂使者は、民間信仰における死神の一種よ。白色の服を着た背の高い男と、黒色の服を着た背の低い男の二人組とされる場合が多いわね。
その正体は、寿命を迎えた人間の魂を捕らえる冥界の役人とされていて、起源ははっきりしないけど、六朝時代に書かれた奇怪な話を集めた小説集『志怪小説』には既にその記載が見受けられるわね。
先生は李さんを宥め落ち着かせ、寝台に座るように促したわ。先生と私と奥さんの三人は、李さんの対面に椅子を用意してもらって座った。
小半時くらいして李さんがようやく落ち着いたところで、彼はこれまでの経緯を語り始めたの。