09) 野良犬の帰還
エンゾ・バロテッリは心底自分の判断を呪っている。
脅迫をともなう強引な勧誘をリュックに仕掛け、彼が良い返事をくれるものだと「たかを括って」いた事を。そして彼が再び事務所に現れる際に、ソファに思い切り腰を埋めてリラックスしていた事を。
「あは、あはは!細けえ事は分からねえがよ、それでお前は組織の役に立とうとして、ここにいるんだよな!なっ?なっ?」
凍りつくような油汗がエンゾの背中から吹き出し、歯はカタカタと小刻みに音を立てる。見るからに親子ほどの歳の差が感じられる少年を目の前にして、エンゾは目をひん剥いたまま笑っているのか怒っているのか分からない表情で硬直していた。
「この能力さ、幼い頃から備わってたらしいんだけど、本人の意思に関係無く無秩序に発動してたんだよ。ばあちゃんには悪い事をしたと思ってる。それに、もしかしたら自分の両親も無意識にやってしまった可能性もある。だからこれ以上被害者を出さないためにもって、必死に自己暗示や自己催眠を繰り返したんだよ」
「おい……リュック……お前えまさか……」
「とある言葉を引き金としている。その言葉を唱えない限りは、能力は発現出来ない身体にしたのさ」
――その言葉、気になるかい?――
立ち上がって逃げようにも腰が抜けて立ち上がれない。短刀などの武器も用意していないから逆襲も出来ない。両脚をジリジリと擦り付けて後ずさるしか無いのだが、ソファにずっぽりと腰を埋めている今、脚は空回りしたままだ。
「……ディメンション・リビルド……」
リュックは小さな声でそう呟く。それを直訳すれば『次元空間再構築』となり、つまりはリュックによる死刑宣告。緊張が漂うこの事務所において、リュックの力は発現したのである。
げえええっ!っと、屠殺される直前の家畜のような叫び声を上げ、エンゾはその場で悶絶する。両手で胸を押さえて足をバタバタさせるも、やがてその場でぐったりと横たわる。
「エンゾ・バロテッリ、お前は俺を私物化しようとしたな?俺の能力を利用し私腹を肥やそうとしたよな。そのためにお前は、俺の身辺調査を行なって、触れてはいけない部分に触れたな。これはその報いだ。お前は詰まるところ、欲に目が眩んで手を出しちゃいけないヤツに手を出したんだよ」
ゆっくりとソファから立ち上がり、横たわるエンゾを尻目に出口へと足を運ぶ。その表情には高揚も低迷も無く、たった今自分が何をしたのかについてなど、まるで感慨を抱いていないようだ。つまり今のリュックにとっての『殺し』とは、単なる作業に過ぎなかったのである。
「……パウル・グラーベ、お前のボスは死んだぞ」
「あ、ああ。分かってる」
「紺色の血のボス、エンゾ・バロテッリは体調が急変して死亡した。分かるよな」
「ああ、分かってるよ。ボスは昔から身体の具合が悪かったんだ。それで今日、不幸にも事務所で亡くなった」
「そうだ。外傷は一切見当たらない突然死、他人が見ても分かる訳がない。もし上部の連中に聞かれてもそれで通すんだ、パウル出来るな?」
「ああ。ボスは病死したんだって貫き通す。やっと暴力の日々が終わったんだ、このチャンスを絶対に活かす」
事務所の外でリュックを待っていたのは、“仕事”の案内役だった青年パウル。リュックの問い掛けに対して背筋を伸ばして真摯に答える姿を見れば、どうやらリュックの言葉に理解を示し、申し合わせながら行動している様に見える。たった今、二階で何が起きてどんな結末になったのかを全て承知しているかのように冷静だ。
「エンゾがいなくなった今、新しいボスはお前だ。紺色の血のメンバー総勢八名、率いる事は出来るなパウル?」
「やる、やるさ!お前が地獄のような毎日を終わらせてくれたんだ。立派な組織にしてみせる」
「うむ。もし問題が起きたら、南二区に事務所を構えてる二次組織、“屈辱の精算”の行動隊長でコンラードと言う名のおっさんがいる。そいつを頼れ、俺の名前を出しても良い」
――紺色の血の“元”ボスであるエンゾ・バロテッリから暗殺の依頼を受けて実行したリュック。依頼は見事に成功したものの、ボスのエンゾはそれで満足はせずにリュックの能力を手に入れようと画策した。リュックの身辺を部下に調査させ、窓口係のパウルを痛め付けて見せしめにし、リュックに“ノー”と言えない環境を作り上げて強引に勧誘したのだ。
しかしエンゾの深慮遠謀と荒っぽい画策は、本人の突然死と言う形で幕を閉じた。画策に気付いたリュックが、エンゾの部下たちに急接近して裏交渉を成立させ、エンゾと部下であるパウルたちの切り離しに成功したのだ。
エンゾとリュックの『悪党』としての格の違いは、エンゾの無惨な死と、「紺色の血」が新しい組織としてスタートする事で決着したのである。
「おい……おい、リュック!」と、パウルは去り行くリュックの背中に声を掛ける。まだ確認していない事が心に引っかかっているのか、街に溶け込もうとするリュックの姿に我慢出来なかったのだ。
「リュック、確かに紺色の血は小さいし、小さなシノギで食ってる末端の組織だけど、お前本当にこれで良かったのか?」
「これで良かったとは、どう言う意味だ?」
「だってそうだろ?今回の件は全て、お前の実力で決着したんだ。お前が紺色の血のボスだって宣言しても、俺だって仲間だって文句は言わない。黙って従うんだぜ?」
「前に言ったろ?俺が組織に入ったら、ライバルを片っ端から殺すって。俺が皆殺しにしたら、組織に一体誰が残るんだよ?」
苦笑いしながら平然と言い放つその内容に鼻白むパウル。『タコが腹空かせて自分の手足食ったら、どうやって泳ぐんだよ』とリュックが更に言い放つも、タコが一体何なのか知る由も無い。
――【カラス】が見てる、それ以上余計な事は言うな――
謎の言葉を残したまま街の雑踏に消えるリュック。人波の隙間を軽々とすり抜けて行くその姿は、まるで寝床に急ぐ野良犬の様にも見えたのだった。