待合小屋
その小さなドアはまるで寒さに震えるように音を立てて開きました。町の外れにある人気のないバス停。その後ろに設けられた小さな待合小屋の門を私はくぐりました。
これほどまでに冬は寒いものだったのでしょうか。夜も0度を下回らないとしていた天気予報を私は思い出します。もともと外で歩き回る予定でしたから、予報よりも低い気温を想定して着込んできたつもりです。それなのに寒さで体が震えてしまうとはどういうことでしょうか。私は両手に息をはーっと吹きかけます。小屋の中で風を受けないだけで寒さはだいぶマシに感じます。それから、淡々と振り続ける雪が軽い音を鳴らして小屋の扉に当たります。昨日一昨日と大雪が降り続いたというのに今も降り続ける雪。段々とその勢いは増していくようにも見えます。ドア越しに見える誰もいない寂れた交差点。道路の向こうの信号は雪でぼやけて赤色だけが見えます。両手の感覚が段々と融解し始めます。今の私には寒さはもはや痛みにも感じるほどです。突然足元から猫の鳴き声が聞こえてきて私は驚きます。見るとこれもまた冬らしい茶白猫です。白が基本となり薄茶色の耳尾斑点。とても愛らしい目をした猫ですから、私はその猫を撫でてやりたくなります。しかし、そんな私の気持ちを読んだのでしょうか。それともただの気まぐれなのでしょうか。茶白猫はくるりと向きを変えて小屋の隅へ向かっていきます。小屋の一番奥で体を丸める茶白猫。知れ渡った猫の性格がありますから、こんなことはよくあることだと気にもとめない人が多いのでしょう。しかし、私には、それも今日の私には少し応えます。一寸ばかり項垂れた私はつい数十分前に別れ話をよこしてきた彼女のことを、いえ、元彼女のことを思い出していました。
どれくらいの期間だったでしょう。なんとなく始まった元彼女との関係。曖昧ではありますが、付き合い始めてから今日で丁度1年くらいだったと思います。振り返ってみればとても短い期間です。彼女と約束していた海外旅行はやらずじまいになってしまいました。クリスマスなどのイベントごと、長期休暇のあれやこれやもやり残したことばかりで思い出としては物足りないような気が私にはしています。そうです、今日のデートの前に彼女が一周年記念のデートだねと言っていたような気がします。やはり私の記憶は間違っていないようです。それと同時に笑ったあの一番好きな彼女を私は思い出します。弾んだ心で地元の雑誌を開き、デート先を決めだす彼女。それを見て何だか笑ってしまう私。一人暮らしに似合った小さな机の周りでの記憶を私は思い出します。楽しかった日々。
しかし、楽しかったはずの日々。私には、その楽しさが知らない二人のものであるかのように感じていました。というのも、彼女との別れはどちらかの過ちによるものではなく、自然に薄らいでいった愛によるものなのです。賞味期限が切れたのでしょう。二人を繋ぎ止めていた糸を自ら切ることなく終わってしまったために私はそう感じるのだと思います。
ふと下を見ると、先程まで部屋の隅で機嫌が悪そうに丸まっていた猫が自分の足元にすり寄っていました。小さく気だるく鳴く茶白猫。私はその猫の頭を撫でてやろうとします。意外にも猫は少しも抵抗しようとしませんでした。私の様子を見て慰めようとしてくれたのかもしれません。私はその小さな生き物が世間で可愛がられている理由が今やっとわかったような気がしました。
私はしばらく、物思いに耽っていました。
どれくらい時間がたったでしょう。小屋がガタガタと震えるのを感じて私は顔を上げました。硝子越しに見える雪は段々とその勢いを増していきます。信号による青い光が硝子越しにかすかに見えます。もう私はここを出なくてはなりません。足元で小さく丸まった猫を掬い上げて、座っていたベンチの上に乗せてやります。少し迷いましたが、私は自分のマフラーをほどいて、猫の下に潜らせました。
小屋のドアを開けると勢いよく風が雪とともになだれ込んできました。雪の叩きつける音が耳の栓を抜いたかのように頭の中に響き始めます。私はフードを被り、歩き始めました。
少し歩いた後、私はなんとなく後ろを振り返ってみました。50m程歩いただけなのですが待合小屋は雪に隠されて見ることができませんでした。強い風が急に顔に吹き付け、私は前に向き直しました。
待合小屋のおかげでしょうか。私は、今やっと彼女との間に僅かに残っていたものをこの手で自ら切れたような気がします。もしかしたらあの小屋は私を待っていたのかもしれません。あの猫も、あんな対応をしながら私が来ることを知っていたのでしょうか。そう思うと益々あの茶白猫の頭をもう一度撫でてやりたくなります。