【電子書籍化進行中】故郷へ帰りますと言ったら求婚された
「えぇっ! 騎士団を辞める?」
「うん……アリス、今までありがとうね」
「何でオリアナが! 浮気したのはマイクじゃない。オリアナが辞めることなんてないわ!」
アリスは憤慨しているせいか、だんだんと声が大きくなってきた。
騎士団の近くの飲み屋は知り合いが来るかもしれないと思って、少し離れた飲み屋にしたのはやっぱり正解だった。
「それがさ。コリーンは妊娠してるらしいのよ」
「えぇ!!」
恋人だったマイクが真っ青な顔でメイドのコリーンとの浮気と、彼女の妊娠を告白したのは一月ほど前のこと。まさに青天の霹靂だった。
アリスはしばらく呆然として、「はぁー!?」と声をあげた。
「あいつ何考えてんの! 最低!」
勢いにまかせてアリスはどん、とグラスを机に叩きつけた。自分以上に怒ってくれる友人がいることに、オリアナの心はどこか晴れやかになった。
オリアナとアリスは同時期に騎士団へ入った同期だ。大変なことも、嬉しいことも、ずっと一緒に経験してきた。彼女にはオリアナの決断を誰よりも早く伝えようと思っていた。
「だよねぇ。二人は結婚するんだろうし、さすがにもう騎士団にはいられないかな。気持ち的に」
オリアナとマイクが付き合い始めたのは、二年ほど前のことだ。
マイクは第三騎士団の1番隊隊長を務める騎士だ。若くして隊長に任命された実力もさることながら、整った容姿もあって、とても人気がある。そんなマイクに熱心に口説かれ……、やがて情熱的な告白をされたときは驚いたし、正直舞い上がった。
「でもさ。あんなにマイクはオリアナにべったりだったのに……なんでコリーン? 全っ然タイプが違うじゃない」
「さぁ。本当はコリーンみたいな子がタイプだったんじゃない?」
コリーンは騎士団に掃除メイドとして去年入ってきた少女だ。オリアナと違って小柄で、スタイルが良い。表情もコロコロと変わって、愛嬌たっぷり。同じ女でも「可愛い子だなぁ」と思う。
彼女が浮気相手だと聞かされたときは、傷つくと同時に、納得してしまった。
あまりにも自分と違う女性を選んだ恋人を見て、遅かれ早かれ自分たちは別れる運命だったんだと理解した。
「オリアナのどこが悪かったっていうのよ。許せないわ。コリーンにいくなら、まずオリアナと別れてからにしなさいよ!」
「それは本当にそうだよね。でも、もういいの」
マイクとは二年も恋人として過ごしてきたのだ。結婚だって考えていた。それが全て、無になってしまったのだから、最初は割り切れない思いもあった。不誠実な彼に怒りもあった。
しばらくは勝手に涙が出たり、意味もなく大きな声を出してしまったり……仕事をするのも辛かった。
でも退職することを心に決めた今は、自分の感情に一区切りつけることができた。
地元に帰ったらきっともっと気持ちが穏やかになる。
オリアナの地元は王都から馬車で数時間程度のバスティカという街だ。そこそこ大きな都市で、実家は商会を営んでいる。仕事もあるだろうし、先に結婚が決まるかもしれない。
「騎士団の仕事は楽しかったから、残念ではあるんだけどね……」
「オリアナぁ……」
瞳を潤ませたアリスに、オリアナはふふっと笑う。アリスはそんなオリアナをじっと見返した。
「オリアナだったらマイクなんかより、ずっといい男を捕まえられるよ」
「そうかな……」
オリアナは思わず苦笑してしまう。
自分は地味だし、普通の女である。しかも恋人から浮気されてしまったところだ。到底そういう風には考えられない。
「オリアナは人気あるんだよ。美人だし、優しいし、真面目だし。仕事もできるし……」
「ちょっと。褒め過ぎだよ。アリスったら」
「だって私、オリアナが大好きだから!」
「ありがとう。私もアリスが大好きだよ。可愛いし、思いやりがあって、話してたら楽しい」
女同士の友情を確かめ合い、二人は互いの肩をこつんと付けた。
それから二人はまた乾杯して、グラスを空にした。
◇ ◇ ◇
退職することは自分の中で決意しただけで、まだ職場には報告していなかった。そろそろ退職の意思を上司に伝えなければならない。
「オリアナ、ユリウス様よ」
「はーい」
ユリウスが来たと知らされ、オリアナは作業を中断し、手を洗った。
オリアナが所属する薬事部は騎士団全体の薬を作る部署だ。騎士の個人的な薬も請われれば作る。痛み止めや、化膿止めなどが多い。
ユリウスは近衛騎士で、良く薬事部にやってくる人物だ。彼はなぜかオリアナの作った薬を欲しがり、しかもオリアナが直接手渡すことを求める。
彼は睡眠が浅いらしく、眠る前に薬が必要なのだそうだ。オリアナの作った薬が一番彼の体に合うらしい。何度か医師の診察を受けるように促したものの、彼は「そうだな」と答えるだけだった。ユリウスは男爵家の子息なので腕の良い医者にもかかれるはずだが、忙しいらしい。
オリアナはいつも彼に渡している薬を袋に詰めながら、彼には退職のことを伝えなければいけないなと思った。
部屋に入ると、長い足を組んで椅子に座ったユリウスがしかめっ面で床を見詰めていた。
ユリウスはきらめく銀髪が印象的な美男だ。マイクより更に長身で、貴族らしく洗練された容姿だが、あまり笑ったところは見たことがない。
「お待たせいたしました」
「……いや、今、来たところだ」
「本日もいつもと同じ薬で大丈夫ですか?」
「あぁ」
オリアナは彼の前に座った。彼はいつもオリアナの目を見ない。言葉も少ないし、いまいち何を考えているのか良く分からない人だ。ろくに会話もしないのに、頑なにオリアナを指名する理由も謎である。薬を作る人間はともかく、手渡すのは誰でも良いと思うのだけれど。
「いつも通り二週間分入れています」
ユリウスは無言で薬を受け取った。そのまま立ち去ろうとしたので、オリアナは「あ」と声を出した。声に驚いたのか、ユリウスは虚を突かれたようにオリアナを振り返る。
「ユリウス様。実は私、退職しようと考えていまして」
「……!」
「申し訳ありませんが、私が辞めた後は別の薬師を探すか、お医者様にかかってくださいね」
「……」
ユリウスは返事もせず固まってしまった。
オリアナは心配になって彼の顔を覗き込む。彼はぱっと顔を背けた。
「……オリアナ嬢。あー、その……別の場所で薬を作るのか」
「いえ。実家に帰ろうと思いまして」
「……は? なっ、なぜ」
「家族からも、そろそろ帰ってこいと言われていますし……」
これは本当だ。もうオリアナは二十歳。結婚していて当然の年齢だ。家族はいつまでも結婚しない娘に痺れを切らし始めている。
「いや、しかし、あなたは…………」
ユリウスは明らかに動揺している。
オリアナがいなくなり、薬が手に入らなくなることが不安なのかもしれない。
「大丈夫ですよ、ユリウス様。他の薬師も優秀ですから、私がいなくても」
「全然、大丈夫ではない……俺は、あなたがいなければ……」
深刻な顔でユリウスはつぶやく。
「あなたのご実家は、バスティカの街だろう。……マイクと、結婚するのか」
「いいえ」
なぜユリウスが自分の出身地を把握しているのだろう。そんな話、したことがあったかな。
彼の口からマイクの名前が出てきたことも驚きだ。ユリウスは近衛騎士で、マイクは第三騎士団。交流があるとは思わなかった。しかもオリアナがマイクと恋人同士だったことも知っているらしい。
「あいつと結婚するんじゃ、ないのか」
「その……彼とは別れましたから」
ユリウスはこれ以上ない程目を見開いている。そのまま無言で立ち上がると、突然よろめいて、傍らにあったお茶をガシャンと落とした。熱いお茶が彼の左手にかかる。
「あぁ、ユリウス様! お怪我は……!」
「だっ、大丈夫。全く問題ない。本当に、あの、うん」
「いや、火傷をされてるかもしれません」
オリアナは自分のハンカチに水を浸して彼の手に当てる。
「こ……これ、は……もしや、あなたのハンカチ……では……」
「申し訳ありません、このような物を使ってご不快かもしれませんが」
「いや! かっ構わない! また洗って返そう」
「これぐらい、差し上げますよ。あ、捨てていただいても」
「捨てる訳がないだろう! もっ、貰えるのなら、有難く頂戴する。また新しいものを返そう」
そのまま大事そうにオリアナのハンカチを右手で包みこんで、ユリウスは立ち上がった。ふらふらと物や棚に当たりながら、ようやく扉に辿り着くと、立ち止まる。
「オリアナ嬢。また来る」
「は、はい」
変わった人だ。オリアナはぽかんとしながら、彼の背中を見送った。
◇ ◇ ◇
どう切り出すか数日間悩みぬいて、ようやくオリアナは上司に退職の意思を伝えた。上司は熱心に慰留してくれた。
「オリアナが決めたことなら仕方ないけど、心変わりしたらいつでも言ってくれよ」
「ありがとうございます」
こうも求められるのは有難いことだ。自分の働きを評価されているということなのだから。オリアナは素直に嬉しくなった。
それからは退職に向けて、仕事の整理を始めた。引継ぎのため資料を作り、職場に置いていた私物を処分する。後任者が分かりやすいように、資料を分類しなおして、メモを付ける。
一番悩んだのは、ユリウスのことだ。彼の件については、引継ぎに入れていいのか良く分からない。オリアナの薬を、オリアナから貰うこと。彼はそれを譲らなかったのだから。
仕事を終え、騎士団職員の通用口に向かって歩いていると、珍しい人物が立っていた。ユリウスだ。貴族であるユリウスは徒歩ではなく馬か馬車で通勤しているので、ここで彼を見たことはなかった。
彼はオリアナをみとめ、近付いてきた。
(え、え……ちょっと、何……)
オリアナは混乱した。空は薄暗く、帰宅する同僚が多い時間帯だ。道行く者は、ちらちらと彼を見ている。近衛騎士ユリウスが、騎士服ではない貴族然とした服装をして、迷いなくオリアナに向かって歩いているからだ。
ユリウスはオリアナの前で立ち止まった。何を話すでもなく、じっと固まっている。オリアナは困惑した。
「あの、ユリウス様。私に何か?」
「……付いて来て、くれないだろうか」
「は? どちらに?」
「来れば、分かる」
ユリウスは無言で手をオリアナの前に出した。しばらく彼が何をしているか分からなかったが、はたとエスコートの手かと思い至る。
平民にはこんなことをする男はいない。さすが貴族令息だ。
「私は貴族のお嬢様ではありませんので、そのような気遣いは不要です」
「オリアナ嬢。君はレディだ。レディを敬うのは当然のことだ」
そういえばユリウスはいつも自分のことを「オリアナ嬢」と呼ぶ。オリアナが女性であるというだけで彼はこのように扱ってくれるらしい。
彼の勢いに押され、オリアナはそっとユリウスの手に自分の手を重ねた。ユリウスは「こちらへ」と言い、オリアナの歩く速さに合わせるように歩き始めた。
元々、今日のオリアナに予定はない。当然、この美麗な近衛騎士と会う約束していた訳でもない。
ユリウスがオリアナをエスコートする姿を多くの人が興味深げに見ている。きっと明日は皆から質問攻めだろう。でも、オリアナにだってこの状況の意味が分からない。
ユリウスに促されるままに馬車に乗せられると、そのまま御者が扉を閉め、走り始めた。一体どこに行くのだろう。肝心のユリウスはいつも以上に無表情で、なぜかオリアナの横辺りを凝視したまま動かない。
オリアナは所在なく馬車の外の景色を眺める。
「突然、すまなかった……」
しばらくして、ユリウスはぽつりと声を出した。
「どういったご用件かは、教えてくださらないのでしょうか」
するとユリウスは無言で懐から包みを出し、オリアナに差し出した。その包みは綺麗に包装され、一見して贈り物だと分かる。
開けてもいいかと確認すると、ユリウスが頷いたので、オリアナは包みを慎重に開けた。包みの中からは絹のハンカチが出てきた。手触りもよく、縁にレースがあしらわれ、美しい。
まさか、先日のハンカチのお返しだろうか。あの時ユリウスに渡したハンカチは、こんな上等なものではなかったが……。
「これを私に?」
「あぁ……。気に入っていただけただろうか」
ユリウスの顔は真っ赤になっている。その瞳は不安げに、こちらの反応を伺っていた。
「嬉しいです。ありがとう、ございます。今日はこちらを渡していただくために?」
「それもあるが……実は先日、バスティカの……あなたのご実家に行ってきた」
「は?」
人はあまりにも予想外なことを言われると、間抜けな声が出るらしい。
ユリウスが、なぜオリアナの実家へ?
オリアナの実家は商会を営んでいる。もしかして、商会に用があったのだろうか。しかし実家で買えるようなものは、すべて王都で揃う。わざわざバスティカまで行く必要がない。
「あなたのお父上から、あなたへ求婚する許可を頂いてきた」
「……!?」
驚きすぎて、次は声も出せない。オリアナの脳内の処理が追い付かない間に、馬車が停まった。
ユリウスはまたオリアナをお姫様のようにエスコートしながら馬車からおりた。
そこは明らかに貴族の邸宅だった。門番がいる扉をくぐると、美しい庭園が広がっている。オリアナは思わず辺りをきょろきょろと見回してしまう。
「ここは俺の家だ」
「そう、ですか……」
もはやオリアナには突っ込む気力さえない。
「……店だと人の目が気になるし、俺はあまり街に詳しくなくて、求婚するに相応しい場所が思いつかず……しかし、あまり時を置くと、あなたは王宮を去ってしまうだろう。それに、ぼやぼやしている内に必ず俺の他にも求婚者が現れる……あなたは魅力的だから……」
ユリウスはしゅんとした様子でぽつぽつと言い訳じみた言葉を続けている。求婚する時って、こんな風に相手に宣言するものなのだろうか。
「ユリウス様。その……私が平民だということはご承知でしょうか」
「もちろん、知っている」
「あなた様は、貴族の御令息です」
「そうだな」
「でしたら、その……今からしようとされていることは、おやめになった方がよろしいかと」
貴族と平民の結婚も、あると聞いたことはある。しかし、周囲ではあまり見ないし、オリアナ自身、貴族男性との結婚は考えたこともなかった。
求婚するためにまず相手の親に許可を貰うという発想も、平民にはない。きっとオリアナの家族は突然現れたユリウスに仰天したことだろう。
ユリウスはゆっくりと首を横に振った。
「確かに、俺とあなたは、事実として身分が違う。でも俺にとってそのことは、大きな問題ではない。うちの爵位は男爵位であるし……、そもそも俺は次男で実家の爵位を継がない。いずれは平民になる身だ」
「そうなんですね……」
ユリウスが男爵家の子息ということは知っていたけど、いずれ平民になるとは思わなかった。彼は近衛騎士なので、平民になってもそう生活が変わることはないのだろう。しかし、いかにも貴族らしい容貌のユリウスが平民になるなど、どこか想像がつかない。
「あなただって平民といっても大きな商家のお嬢様で、学校を卒業し、しかも薬学まで修める才媛だ。取り立てて問題にするほどの違いは、ないと考えている。それに、何よりも俺が……誰よりもあなたを慕っているのだ」
「……っ」
「寝つきが悪いのは本当だが、薬の受け渡しであなたを指名していたのは……あなたとの接点があの瞬間しかなかったから……ずっと俺はあなたに会える日を楽しみに毎日を過ごしていた。あなたに心を決めた相手がいると分かっていてなお、諦めきれず……」
ユリウスはずっとそらしていた目を、オリアナに合わせた。
「碌に話したこともない男から突然このようなことを言われ、戸惑っておられるだろう。驚くのも、無理はない。身分差についてあなたが不安に思うのも、理解する。しかし……、オリアナ嬢。どうか、俺を選んでいただけないだろうか。俺と……、結婚して欲しい。あなただけを、愛しぬくことを誓う」
ユリウスはそっとオリアナの手をとり、跪いた。まるで騎士の誓いのように、その手に額をつける。
「ユリウス様……!」
「あなたの心が決まるまで、待っている。今日は俺の気持ちを伝えたかった。時間を取ってくれて、ありがとう。また、求婚の返事でなくとも……、会えたら嬉しい」
顔を赤くして、たどたどしく話すユリウスが可愛く見える。オリアナは自分の胸が激しく高鳴っていることに、気が付かざるをえない。
——でもこんなの、ときめいてしまうでしょう。
いつも無表情な騎士様が、こんなに懸命な様子で、自分に求婚してくれるなんて……。しかも誓いまで立ててくれた。
オリアナだけを愛す——、と。
その言葉は今のオリアナにとって、強烈な殺し文句だった。
それからユリウスは、またオリアナをエスコートして、馬車に同乗し、オリアナを家まで送ってくれたのだった。
◇ ◇ ◇
ユリウスとオリアナの関係は急接近した。
ユリウスは頻繁にオリアナを誘い、二人は休日に出かけたり、仕事帰りに夕食を共にしたりした。近衛騎士の訓練の開放日に、アリスと見学にも行った。訓練中のユリウスはオリアナの前の彼と全く違い、凛々しく泰然とした様子だった。そんな彼を見て、オリアナはまた胸が高鳴ってしまう。
ユリウスはエスコート以外で触れてくることも、オリアナの答えを急かすこともない紳士的な態度だ。しかしその目線からは、彼の熱い想いが伝わってくる。
オリアナの家族からは「いつ結婚式を挙げる?」といった手紙が届き、職場では「寿退職か」と勘違いされている。ユリウスが狙ってやったことなのかは分からないが、これは外堀が埋められている状態なのかもしれない。
「言った通りだったでしょ! オリアナならマイクなんかよりもずっと良い男を捕まえられるって」
アリスはユリウスの件を喜び、もう祝福モードだ。
「正直、ユリウス様のような方が私を……好いてくださるなんて、びっくりだわ」
「全然びっくりじゃないよ。本当に嬉しい。だって今のオリアナ、本当に幸せそう」
「……!」
そうかもしれない。実際、マイクと付き合っている時よりも、ずっと今のほうが楽しい。
正直なところ、オリアナはユリウスに好感を抱いていた。というか、もう殆ど彼に恋をしていた。
ユリウスは常にオリアナの意思を尊重し、オリアナに自分の意見を押し付けるようなことがない。
——ユリウス様なら……。
身分の差には相変わらず躊躇する自分がいるが、もうオリアナは彼の気持ちを受け入れると決めていた。
「オリアナ嬢。今日も会ってくれてありがとう」
「こちらこそ……お誘い、嬉しいです」
「あ、そっ、そうか……。それならば、良かった……」
そのまま二人で顔を真っ赤にしてしまう。
今日はユリウスから仕事帰りの夕食に誘われた。オリアナは今日、彼の求婚を受け入れると彼に伝えるつもりだ。
オリアナはユリウスのエスコートで歩き始める。どこかふわふわと、落ち着かない気持ち。今日は最近王宮で評判のお店に連れて行ってくれるという。
浮足立った気持ちで馬車寄せまで彼と歩いていると、予想外の人物の姿が目に入った。こげ茶色の髪に、青い騎士服を着た青年。オリアナがこの二年、深く関わってきた相手。
「マイク……?」
オリアナが困惑している間に、マイクは二人の前までやってくると、ユリウスに険しい視線を向けた。
「頼みます。ユリウス様。オリアナを解放してください!」
マイクはまるで許しがたい悪を糾弾するかのように、芝居がかった口調でユリウスに向かって言い放った。あまりのことに、オリアナは呆気にとられてしまう。
「オリアナは、控えめで、男の言うことに逆らえない女なんです! あなたのような身分ある男性に言い寄られたら、断れない!」
そんな事実はない。オリアナは自分の意思でユリウスと会っている。
ユリウスがちらりとオリアナを見たので、オリアナは慌ててぶんぶんと首を横に振った。ユリウスはふっと瞳をやわらげた。
「あなたがオリアナに付きまとっていることを、知っています。オリアナはあなたにいやいや従っているだけだ……! だって、彼女はまだ俺を愛している!」
「はぁっ!?」
思わずオリアナは声を上げた。
「何も言わなくても俺には分かっているよ。オリアナ。……相手の意思を無視して、無理やり付き合わせるなんて、非道なことです。騎士道にも反する。どうかオリアナを解放してください!」
マイクの言い分が信じられなくて、オリアナは思わず手を震わせた。
一体彼は何を言っているのだろう。手ひどくオリアナを捨てたのは彼だ。それなのに……いやだからこそ、いつまでもオリアナが自分に未練を持っていると思っているのだろうか。そもそもコリーンはどうしたのだ。
怒りのあまり、オリアナがマイクに否定の言葉を放とうとしたとき、ユリウスがそれを遮った。
「それで先ほどから急に、君は一体何者だ。名乗りもせずに、無礼だとは思わないのか」
「……あっ、自分は第三騎士団の……マイクと、申します」
「そうか、マイク。君は先ほど、俺がオリアナ嬢に付きまとっていると言った。それはまぁ、その通りだ。先日俺は彼女へ求婚して、色よい返事がもらえるように、猛アプローチをかけているところだからな」
こんな、多くの人が行きかう場所で自分への愛を宣言され、オリアナの顔は一気に上気した。マイクはぽかんと口を開けている。
「オリアナ嬢のような素晴らしい女性はいない。だから俺も必死なんだ。……たしかに、少々急ぎ過ぎたかもしれないが」
「そのようなことは、ありませんっ……!」
堪えきれず、オリアナはユリウスの手を取った。
「ユリウス様。あなた様の言葉や行動に、私がどれだけ救われたか、きっとご存じないでしょう」
「オリアナ嬢……」
「もう、ユリウス様は私の大切な方です。ですから、次は私から……お伝えしたい。私もユリウス様を、お慕いしています。心から」
ユリウスは息を呑んだ。
そのままオリアナをそっと抱き寄せ、耳元で囁く。
「嬉しい。あなたからそのような言葉をいただけるなど思わなかった」
「ユリウス様……」
「これ以上あなたのその可愛らしい表情を他の男に見られたくはない、という俺の我儘を……聞き届けて貰えるだろうか」
ユリウスはじっとオリアナを見た。その表情が、何とも言えないほど美しくて。オリアナは頷いた。
ユリウスがオリアナの肩を抱いてその場から去ろうとすると、後ろから声がする。
「えっ、ちょっと……! オリアナ!! 話を聞いて……」
「君。もう二度と、俺の妻になる女性の名を気安く呼ぶなよ。いいな」
低い声で牽制するユリウスに、置いてきぼりのマイクは呆然としたまま動くこともできなかったのだった。
◇ ◇ ◇
——間に合って良かった。
ユリウスはずっと触れたかったオリアナの黒髪に、優しく触れる。
あの男——オリアナの元交際相手、マイク。あいつが浮気相手と別れたことは知っていた。コリーンの妊娠が虚言だと露呈したのだ。だから近いうちに奴はオリアナへ復縁を迫るだろうと予測していた。
その前に、何としても自分がオリアナの特別な存在にならなければいけなかった。あの男のつけ入る隙などない程に。
じっと自分を見つめていたオリアナの翠の瞳が緩む。
——可愛すぎる。
ユリウスはたまらずオリアナの肩を引き寄せた。
ユリウスがオリアナに夢中になったのは、一年ほど前のこと。
元々眠りが浅かったユリウスだが、その頃は全く寝付けない日が増えてきていた。たまたま実家に出入りしている医師の都合がつかず、やむを得ず騎士団の薬事部に行ったことがきっかけだ。
その日、ユリウスの症状を丁寧に聞き取り、薬を出してくれたのがオリアナだった。
艶のある濡れ羽色の髪をきっちりと一つに束ね、清潔感のある身なりをした女性。アーモンド形の翠色の瞳がユリウスの顔をじっと見ているが、そこに媚の色は一切見当たらない。
ブラウスのボタンを上までとめ、ひざ下のスカートは歩くたびに綺麗なプリーツが揺れる。彼女が動くたび、ふわりと石鹸の香りが漂ってくる。
「寝入りを助ける薬です。こちらを試してみてください。でも、お医者様にきちんとかかられた方が良いと思います」
お大事になさって下さいね、とオリアナが微笑んだ顔に、心拍数が上がる。
ユリウスは完全にオリアナに恋をしてしまった。
すぐにユリウスはオリアナについて調べた。
しかし出てきた事実は、受け入れ難いものだった。彼女にはすでに交際相手がいたのだ。
(第三騎士団の一番隊隊長マイク……よりによってこんな男と)
オリアナの交際相手がユリウスも認められるような男だったなら、まだ諦めもついた。しかしマイクという男は女性にだらしない騎士だった。
頻繁に花街で女性を買い、飲み屋の女性と一夜の関係を結ぶこともしばしば。遠征先では必ず現地女性と親しくなるらしい。
オリアナのような女性を恋人にしておいて尚、他の女性と関係を結ぶ神経が分からなかった。しかし、二人の仲は順調だという。自分の出る幕はない。
(あなたが結婚するまでは、一方的に想うことを許してほしい)
ユリウスは定期的に薬事部に尋ねるようになった。もはや薬のためではない。数少ないオリアナと会える時間を諦めることができなかったのだ。
会えば会うほど、オリアナに惹かれていく。言葉の端々から察せられる教養も、嫌味のない受け答えも、意外と快活な笑い声も。彼女の全てがユリウスを惹きつけてやまない。
いくらオリアナに恋焦がれても、積極的に彼女を奪うつもりはなかった。ユリウスが理解できなくとも、オリアナにとってマイクが必要な相手ならば、自分が二人をかき乱すべきではないとユリウスは考えていた。
「マイクの彼女って、オリアナちゃんだろ。薬事部の」
「あぁ」
オリアナの名前が聞こえ、思わず足を止める。訓練所の隅で、マイクと数人の騎士が休憩しているようだ。
「良いなぁ。なんでお前、あんなキレーな彼女がいるのに女遊びすんの」
「仕方ないだろ。オリアナはお嬢様だから、やらせてくれないんだよ。結婚するまでは駄目だってさ」
まじで信じらんねぇよ、とマイクはぼやく。
「へぇー。貴族のご令嬢でもないのに、すげぇな」
「お高くとまってんだよ。俺が女の子と遊ぶのはオリアナが男心を分からないせいでもあるってこと」
「でもさぁ、今の相手、コリーンだろ。さすがにバレるんじゃねぇの」
「バレないようにやってるって。コリーンは掃除メイドだからオリアナとは関わりがないし、オリアナって意外と馬鹿だからな。そういうの全然気づかないの」
それ以上は聞いていられず、その場を立ち去った。
知らないうちに強く握り閉めていた拳から、血がにじんでいる。ユリウスは怒りに震えていた。
奴は小馬鹿にしたように、オリアナを貶してした。自分が不誠実であることを、オリアナに問題があるからだと責任転嫁していた。
結婚まで清い関係でいたいと望むことが、なぜ問題なのだ。欲望を抑えられない自分を恥じるのが先だろう。
——なぜ、お前のような男が……!
ユリウスはマイクに殴りかかりたい衝動を抑えることに必死になるのだった。
マイクからオリアナを奪うと、ユリウスは決心した。
ユリウスは自分の家族に「好きな女性がいる」と報告した。家族はユリウスの恋を応援してくれると言った。
ユリウスは、オリアナの実家が王都近郊の街バスティカにある裕福な商家であることも、自分はオリアナの実家にとって魅力的な婿であることも知っていた。
ユリウスの家は男爵家だが、男爵領は肥沃な土地であり、国有数のぶどう産地だ。多くの良質なぶどう酒を作り、それを国内や外国に販売している。
これまで多くの商会から声がかかっていたが、どこの商会にも優先権を与えたことはなかった。
結婚の許しと引き換えに、男爵領のぶどうの優先権を与えると言えば、オリアナの実家はユリウスを歓迎するだろう。
貴族でもない彼女を、恋人がいる女性を、無理やり政略結婚で手に入れることは、卑怯かもしれない。
でも、あの男にだけは、オリアナを渡したくなかった。
だからあの日。オリアナが仕事を辞めて故郷に帰ると言ったとき、全て遅かったとユリウスは絶望したくなった。結婚のために、彼女は騎士団を辞めることにしたのだと思ったのだ。
「その……彼とは別れましたから」
少し気まずそうにオリアナが言う。
——マイクは自滅したのだ。
ユリウスは想像もしなかった事態に動揺した。
図らずも求婚の準備を進めていたことで、すぐに彼女の実家へ行くことができた。ユリウスはようやく、堂々と彼女に求婚できる立場になった。
馬車の中、いつも向かい合わせに座っていた二人だが、今日は並んで座っている。
「……オリアナ嬢」
「はい?」
「彼のことはもう、何とも?」
ユリウスはずっと、マイクの話題を出すことを避けていた。思ったよりも、ユリウスはマイクの言葉に動揺していたらしい。
オリアナは驚いたように目を見開いている。
「自分でも驚くぐらい、もう彼に対して興味がないんです。まぁ、さっきはちょっと……いやかなり腹が立ちましたけど……」
オリアナはユリウスをじっと見た。
「こんなこと言ったらはしたないかもしれませんが、今の私はユリウス様にしか興味がありません」
なんて嬉しいことを言ってくれるんだ。
ユリウスは彼女の唇に口付けたい衝動にかられたが、鋼の理性を動員し、彼女の髪に唇をよせた。
「愛しているよ」
「私もです」
その後、二人は周囲も驚くような速さで婚約したのだった。
オリアナは騎士団を退職し、小さめの家を借りて、ユリウスと暮らし始めた。
だからオリアナはマイクがしばらく騎士団で嘲笑の的になったことも、コリーンが「ずっとオリアナにいじめられていた」と主張してユリウスの同情を買おうとしたことも知ることはなかった。
ユリウスはたとえ一瞬でもあいつらについてオリアナが思いを巡らせる必要はないと思っている。
「ただいま」
「おかえりなさい」
輝く笑顔で自分を出迎えてくれたオリアナを、ユリウスは抱擁する。
最近商売が順調だというオリアナの実家から送られてきたぶどう酒を開け、今夜も二人は乾杯したのだった。
最後までお読みいただいてありがとうございました。