表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

あしながおじさんの孫

作者: 嘉ノ海祈

「あ、また届いてる」


 郵便物の整理をしていると、とある封筒が私の目に入った。月に一度、必ず届く空色の便箋。

宛名を確認すればそこには既に他界している祖父の名前が書かれている。


(…おじいさまと一体どういう関係だったんだろう。おじいさまが亡くなっていること、きっと知らないんだろうな)


 毎月送られてくるその手紙。何となく開けるのが憚られて、開けずにしまってある。だけど、こうも定期的に届くのを見ると、一体どんな内容が書かれているのか気になるものだ。試しに中身を見てみようと思った私は、その便箋の封を開けると中の手紙を開いた。


 親愛なる ネルソン・ピットニー様


 寒い季節が終わり、段々と温かくなってきました。いかがお過ごしでしょうか。

王宮の庭に咲いているアネモネの花を見て、一度だけ訪れたことのある貴方の家の庭を思い出しました。貴方の家の庭にも、立派なアネモネが咲いていましたよね。それを愛おしそうに眺めていた貴方の横顔は忘れられなくて、今でも覚えています。きっと今年も、貴方の家の庭には昔と変わらずアネモネの花が綺麗に咲き誇っているんでしょうね。また改めて見てみたいものです。


 さて、今月は騎士団に新たな団員が入団しました。私は彼らの指導に追われ、忙しい日々を送っています。今年の新人はかなり優秀な人材がそろっています。彼らが成長して活躍してくれる日が楽しみで仕方がありません。

 最近、私はスラム街に住む子供たちに週に一度、文字や剣を教えるようになりました。彼らが将来、きちんとした職に就いてスラム生活から脱出できるように。貴方のように彼らを学校に通わせてあげることはできませんが、私は私にできるやり方で、彼らを支援していこうと思います。

 毎年、この季節になると自分がこの騎士団に入団した日のことを思い出します。あの頃の自分にとって、こうして王宮で剣を握って働けることは本当に夢のようでした。目の前の出来事は幻想で、いつか儚く消え去ってしまうものなのではないかと、毎朝目覚めては恐る恐る自分の頬をつねっていたことを今でも覚えています。


 こうして今の私がいるのは、私をスラムから救い出し、学校に通わせてくれた貴方のおかげです。本当は貴方に直接お会いして感謝を伝えたいのですが、貴方は私に会ってくれないでしょうから…。貴方にお会いできるその時まで、私は手紙を送り続けます。


                             感謝を込めて エドガー・クリムゾン

 

(…そういえばおじいさま、誰かのあしながおじさんになるのが夢だって前におしゃっていたわね。いつの間にか、その夢を叶えていらっしゃったのね…)


 エドガーさん。聞いたことのない名前だ。この手紙の内容を見る限り、王宮で騎士として働いている人なのだろうか。


「レティシア!レティシア!どこにいるの!?」


 ふと、扉の外から私の名を呼ぶ声が聞こえる。近づいてくるその声に、私は咄嗟にその手紙をエプロンのポケットにしまうと、慌てて返事をした。


「ここに居ります、お継母様!」


 わたしの言葉に部屋の扉がガチャリと開かれる。継母は私を視界に入れると「あらこんなところにいたのね」と肩をすくめた。


「私宛の手紙はあったかしら」


 机に広げられた手紙の束を見つめながらそう私に問う継母に、私は彼女宛の手紙をまとめてさっと手渡す。その手紙の差出人には全て有名な男性貴族の名前が書かれていた。


「まぁ、こんなに。ふふふ、開けるのが楽しみね」


 紅い唇を妖艶に歪め微笑むその姿は、男を誑かして弄ぶ小悪魔だ。どうして父がこんな女を再婚相手として選んだのか全く理解できない。


「そうそう、レティシア。今すぐクッキーを買ってきて頂戴」


 浮足立つように部屋の扉に向かって歩いていた継母は去り際にこちらを振り向くとそう言った。それに私は目を見開く。


「えっ?…昨日、今日食べるためのパウンドケーキを買ってきたと思いますが…」


 雨が降っているというのに、明日のおやつに、巷で話題の店のパウンドケーキが食べたいからと昨日買いに行かされたのだ。私がそう言うと、継母はとたんに不機嫌そうな顔になる。


「うるさいわね。いちいち口答えしないで頂戴。今の私はクッキーが食べたい気分なの」

「…わかりました」


 私がそう言うと継母は機嫌を取り戻し、鼻歌交じりで部屋を出て行った。部屋に残された私は深くため息をつく。


(まだ掃除も終わってないのに…)


 さっさと買ってきてしまおう。でないと、継母の機嫌がさらに悪くなりどんな無理難題を押しつけられるか分からない。エプロンを取り外し、外出用の上着を羽織り出かけようと玄関に向かうと、派手な服を身に包んだ義姉のアマンダが部屋から出てきた。


「ちょっと、レティシア!私の部屋の掃除まだなの?もうすぐボブが来るんだけど!?」


 ボブはアマンダの彼氏だ。アマンダは掃除が下手で、いつも部屋が散らかっている。彼氏が来る時くらい自分で掃除をすればいいと思うのだが、面倒なのと自分は片付けが苦手だからという理由で掃除は私任せなのだ。


「掃除なら昨日もしたでしょう?1日も経ってないのだから、そんなに汚れだってないでしょうし、ご自分で片づけたらいかがですか?お義姉さまがご自分で片づけられた方が、ボブさんだってお喜びになりますよ」

「無理よ!床のものを片付けるだけで一日が終わっちゃうわ。ボブが来るまでに間に合わないわよ!」


 はぁ。昨日あんなに綺麗にしたのに、なんでそんなに汚れるんだ。呆れて言葉もでない。


「だいたい、レティシアの分際でその態度は何よ?姉の言うことが聞けないわけ?お母様に言いつけるわよ」

(この親のすねを齧ることしかできない我がまま娘が…)


 しかし、継母に言いつけられるのは色々と面倒だ。継母はアマンダに甘く、彼女の言うことを何でも引き受けてしまう。性格の悪いアマンダが告げ口をすれば、必要以上に大げさに継母に話が伝わり、地獄のようなお仕置きをされるに違いない。


「分かりました。直ぐに買い物を済ませてきますから、それまで自分でできる範囲で片づけておいてください」

「買い物より先にこっちを手伝いなさいよ」

「お義母様から直ぐに買ってくるように言いつけられているんです。お義姉さまがお義母様に交渉してきてくださるのなら考えますけど」

「…いいわよ、お母様の頼み事なら仕方がないもの。とっとと帰ってきてよね。ボブが来るまでには片づけたいんだから」


 アマンダも継母には逆らえないようだ。我がままなのに、こういうところは肝っ玉が弱い。


 私は家を出ると、速足で継母のお気に入りのクッキーが売っている店へと向かった。もっと近いところにクッキーを売っている店はあるのだが、継母はここのクッキーしか食べない。地味に家から距離があるのが腹立たしい。


 何とか店にたどり着きクッキーを購入したころには、大分時間が経っていた。


(…急がないと、アマンダの彼氏が到着する時間になっちゃうわね)


 どうせ、あの姉のことだ。今頃、片付けもせず部屋で遊んでいるに違いない。


(いっそのこと、本性知られて、ボブに振られればいいだわ。私はあいつらの世話係じゃないのよ)


 そもそも彼らには貴族の血は流れていない。正真正銘の平民だ。継母は所謂花街の出で、遊女だった。アマンダはその時、仕事で相手をした客との間にできた子どもだ。父の子ではない。


 実の母が死んでから、父は狂ってしまった。毎日のように花街に出かけては酒浸りになり、ある日急に継母とその子供を引き連れて家に帰ってきた。そして、継母を後妻に据えると彼女に家を任せ好きなようにさせてしまった。


 あれでも、祖父が生きていたころは普通の淑女を演じていたのだ。多少の我が儘はあっても、今ほど酷くはなかった。寧ろ、妻を亡くし悲しみにくれる父に寄り添ういい女を演じていた。全てが狂ったのは祖父が亡くなった後だ。祖父という監視役がいなくなったからか、継母の行動は次第にエスカレートしていった。


 今や、この家のお金は全て継母が握っている。あの家にいる以上継母に逆らうことはできない。下手に逆らえば食事すら与えられない状況になりかねない。家庭に興味のない父はこの状況に絶対気づかないだろうし。そうなれば自分が苦しむだけだ。


(外で稼げれば家を出ていくこともできるんだろうけど、18歳にならないと仕事ができないし、貴族の令嬢が外で働いているのは体裁が悪いからお義母さまが許してくれないだろうなぁ)


 一応これでもうちは貴族なのだ。子爵家だけど。


(おじいさまが生前、物凄く国に貢献したおかげで、子爵家にしてはお金も権力もあるからなぁ。それなりに有名なんだよね…)


 でも、それもきっともう終わりだろうな。父親は狂い、継母が好き放題に権力を利用してるせいで、我がピットニー子爵家の印象は悪くなっている。家が潰れるのも時間の問題かもしれない。


(普通に帰っていたら間に合わないわね)


 私はメイン通りから繋がる脇道へと視線を向けた。あの道を通れば時間は短縮できる。人通りが少なくてちょっと不気味なので普段はあまり通らないのだが、こうなったら腹をくくるしかないだろう。


 私はそう決意を固めると路地裏へと足を踏み出したのだった。


※※※


「ひひひっ!こんな所で上玉に出逢えるとは…今日はついてるな」

「本当ですね。お頭」

「ちょっとくらい味見を…」

「馬鹿、やめとけって。値段が下がるだろうが」


 私は路地裏を通ったことを全力で後悔していた。なんでこういう日に限ってごろつきに出逢うんだろうか。こんなことになるなら、普通にメイン通りを使って帰ればよかった。反省する私をよそに、ごろつきたちは手慣れたように私を抑えつけると紐で身体を縛っていく。抵抗しようにも、たいして鍛えてもいない貴族令嬢が男3人にかなうわけがない。


(…彼らの会話からすると、私はどこかに売られるんだろうな)

 

 怖い。一体どこまで連れていかれるんだろうか。あの家だって使用人みたいにこき使われて嫌だけど、昔から住んでいる家で勝手を知っているうえに、叩かれることはあっても殺されたり貞操を奪われたりはしない。断然、マシだ。


 先の見えない不安に私が怯えていると、突然、ごろつきの一人が悲鳴を上げながら倒れた。


「ぐわっ!」


 ごろつきたちは驚いたように辺りを見回し警戒をする。すると、背後から低い男性の声が聞こえた。


「その女性を放してもらおうか」


 さっと私の前に飛び出ると、瞬く間に残りのごろつき2人を気絶させていく男性。あまりの一瞬のできごとに私は茫然とそれを眺めていた。


「怪我はないか?」


 ごろつきを物凄い速さで縛り上げた男性がこちらを振り向くとそう私に尋ねる。私は慌てて「大丈夫です」と頷いた。


「そうか。助けるのが遅くなってすまない。怖い思いをさせてしまったな」


 男性の言葉に私は思いっきり、首を横に振る。


「いえ、助けていただいてありがとうございます!」


 すると男性はふっと微笑みを浮かべる。


「自分の仕事を全うしただけだ。礼はいい。…それより紐をほどかなければならないな。今ほどくから少しじっとしていてくれ」


 突然のことに理解が追い付いていなかったが、よくよく見れば男性は騎士の鎧を身に着けている。なるほど。この人は騎士団の人だったのか。


 いつの間にか彼の部下らしき騎士が数名来ていて、地面に転がったごろつきを拾い上げていた。助けてくれた男性は私の縄をほどき終えると、私に向かって言う。


「この道は人通りが少なく犯罪が多い。今後は使うのを控えた方がいい」

「はい。身をもって体感しました。今後は控えます」

「ああ、そうしてくれ」


 その後、念のため男性が家まで送ってくれるということになった。私は申し訳なくて遠慮をしたのだが、これも仕事の一環だというのでお言葉に甘えて家まで送ってもらうことにした。


「ここです」

「ここは…」


 家の前まで来ると、男性は驚愕の表情を浮かべた。私が子爵家の令嬢だったことに驚いているのだろうか。いや、それにしては反応が大きすぎるような…


「君はピットニー子爵家の人間だったのか?」

「あ、はい」

「なら、ネルソン子爵を知っているか?」

「はい。私の祖父です」

「そうか!君がネルソン子爵のお孫さんだったのか!」


 興奮したようにそういう男性に、私はだから何だというのだろうと首をかしげる。


「俺、いや私はどうしてもネルソン子爵に伝えたいことがあるんだ。よければネルソン子爵に取り次いでもらえないだろうか?」

「ええと…」


 どうしようか。どうやらこの人はおじいさまが既に亡くなっていることを知らないようだ。


「ああ、すまない。いきなりこんなことを言われも困るよな。私はエドガー・クリムゾン。第3騎士団の騎士団長を務めている」

「エドガーさん…って、あ!手紙の人!」

「…手紙?」

「あの、これ…」


 そう言って私はポケットの中に入っていたおじい様宛の例の手紙を取り出し、エドガーさんに差し出した。エドガーさんはそれを確認すると驚いたように私を見る。


「どうしてこれを君が…?」


 エドガーさんの問いに私は申し訳ないと思いながら事実を伝えた。


「実は祖父、ネルソン・ピットニーは既に他界しているんです。私は毎日、我が家に届く手紙を整理しているのですが、貴方からの手紙が毎月のように届くからどんな内容なのか気になってしまって。確認の意味もこめて少し中を拝見させていただいたんです。すみません。勝手に読んでしまって…」

「他界…。そうか、ネルソン子爵はもう既にこの世にいらっしゃらないのか…」


 すっと俯くエドガーさん。その声は震えていて深い絶望と悲しみにのまれているようだった。何と声を掛けたらよいのかも分からず、私は静かに隣で佇む。


 しばらくして、エドガーさんは顔を上げると、申し訳なさそうな顔で言った。


「すまない。取り乱してしまった。返信がなかったからどうしたのだろうと心配はしていたのだが、亡くなっていたのだな。いつ頃だ?」

「1年ほど前に…」

「そうか、そんな前に…。私は一代貴族で男爵だからあまり貴族の事情に詳しくなくてな。辛いことを聞いてしまって申し訳ない」

「いえ、そこらへんはもう吹っ切れているのでお気になさらず。祖父も最後まで元気でしたし。人生大往生って感じで亡くなったので」

「ははは、それはネルソン子爵らしいな。そうか、それは良かった」


 私の言葉にエドガーさんは少し安心したように笑った。生前の祖父とエドガーさんの関係について、もっと詳しく尋ねようとしたところで甲高い怒鳴り声が邪魔に入った。


「レティシア!貴方、一体どこに行ってたのよ!?」


 義姉のアマンダだ。鬼のような形相でこちらへと駆け寄ってくる。彼女は私の元まで来ると私の顔を思いっきり引っぱたいた。突然の衝撃に私は耐えられず後ろによろむく。地面に倒れそうになったところで、隣にいたエドガーさんが私の身体を受けとめ支えてくれた。


「貴方のせいで、私は散々な目にあったのよ!?貴方が早く戻ってこないから、ボブが私の散らかった私の部屋を見てしまったわ!そのせいで私、彼に振られたのよ!?」


 じんじんと痛む頬を抑えながら、私は真っ赤な顔で声を上げるアマンダを見る。間に合わなかったのは申し訳ないとは思うが、そもそも本来は彼女が自分で部屋を片付けていれば問題がなかったはずだ。振られた原因を全て私に押し付けるのはやめてほしい。


 私が口を開こうとしたところで、エドガーさんが私を守るように前に出た。


「あまり部外者が他人の家族の事情に口をはさむべきではないとは分かっているが、これだけは言いたい。貴方の部屋が散らかっているのは貴方の問題であり、彼女のせいではないだろう。その部屋を見られたことで貴方が恋人に振られたのも、貴方自身に問題があったのであって彼女のせいではない。こんな風に彼女を叩き、彼女を責めるのは、一人の人間として見過ごせない」


 エドガーさんがそう言うと、アマンダはキッと睨みつけるようにエドガーさんを見た。


「あんたには関係ないでしょ!?ちょっと黙っててくれる?というか、そこをどいて!!もう一発あいつを殴らないと私の気がすまない!」

「どかない。私には彼女を守る義務がある。ネルソン子爵に私は彼女のことを頼まれているからな」

「えっ?!」


 エドガーさんの衝撃の発言に私は思わず驚きの声を上げた。固まっている私をよそにエドガーさんは私の手を取るとこちらに視線を合わせて言う。


「行こう。君がこれ以上ここにいる必要はない」

「え?」

「私は君のことをネルソン子爵に頼まれている。もし、自分に何かがあって君の傍にいられなくなった時は、君を守るようにと」


 おじいさま、そんなことを…。じーんと心が熱くなる。エドガーさんは私に少し走るよと声をかけると一目散にその場を駆けだした。自然と手を繋がれていた私の身体もそれにつられて駆けだす。背後からアマンダの甲高い声が聞こえたが、振り返る余裕などなかった。



「ここは…」


 エドガーさんに連れられてきたのは、どこか見覚えのある建物だった。エドガーさんは私の呟きに「ああ、やっぱり記憶があるんだな」と言う。


「ネルソン子爵から譲り受けた別荘だ。子爵から君だけはここに連れてきたことがあると聞いている」


 ああ、思い出した。幼いころ、おじいさまに連れられてきたことがあるんだ。おじいさまは確か秘密の隠れ家だと言っていた。てっきり私以外の人も着たことがあるのだと思っていたが、私だけだったのか。


 別荘の中に入るとエドガーさんはお湯を沸かし、温かい紅茶を入れてくる。私はそれをありがたく受け取りながら、ほっと一息ついた。


 一度着替えるために部屋に戻っていたエドガーさんが、何か紙を持ってこちらへとやってくる。エドガーさんは私の向かい側に座ると私にこれを読んでみてくれとその紙を差し出した。


「これ…おじいさまの字?」

「そうだ。ネルソン子爵は君の父親の変化も、母親の本性にも気づいていた。だから、自分が死んだ後、君に万が一のことがあった時には助けるように言われていたんだ。本当ならもっと早くに助けに行くべきだったのだが、まさか子爵が亡くなっているとは思ってもいなかったからな。君には申し訳ないことをした」

「いえ!こうやって助けてくださっただけでもありがたいです。もしあのまま家に居たら、私、殺されていたかもしれませんし…」


 あの時のアマンダの瞳を思い出し、私はぶるっと身震いをした。あの時のアマンダの目は完全に憎悪に染まっていた。もしあのままエドガーさんと別れて家の中に入っていれば、継母と二人で私を責めてきただろう。アマンダを溺愛している継母のことだ。平気で私に陶器を投げてきてもおかしくはない。彼女には一度、淹れたての紅茶を投げられて全治1ヶ月の火傷を負ったこともある。


「でも、私、これからどうすれば…」


 帰る家がなくなってしまった。お金もないし、他に頼れる当てもない。かといって、このままエドガーさんにお世話になりっぱなしになるのも申し訳ない。そう悩む私に、エドガーさんは優しく慰めるように言った。


「実は、ネルソン子爵から遺言を預かっている。ネルソン子爵は君に爵位と遺産を渡すように遺言を残している。君が望むなら、君の父親から爵位を取り返し、君がピットニー子爵となることはできる」


 そうなんだ。おじいさまはそこまでしてくれていたのか。そして、遺言を託すくらいにこのエドガーさんを信用していたのか。


「だた君も予想はしているだろうが、そうした場合君の父親と母親、姉は爵位も財産も失う。正直、そうなったときに生き残れるほどの力を彼らは持っていないだろう」

「そうですよね…」


 そうなのだ。別に彼らがしてきたことを思えば当然の報いではあるとは思うのだが、曲がりなりにも家族ではあるし、自分のせいで彼らが死ぬのは後味が悪い。だから正直、エドガーさんの提案には頷くことができなかった。


「…一応もう一つ、別の提案があるにはあるのだが」


 少し言いづらそうに口をもごもごと動かすエドガーさん。私は静かに彼の言葉の続きを待った。


「その、君さえ良ければ私と婚約をしないか?」

「え?」


 こ、婚約?それってエドガーさんと私が結婚を前提にお付き合いをするってこと?突然の提案に私の思考はフリーズする。エドガーさんは更に説明を続けた。


「これはまだここだけの話だが、実は近々、私は伯爵位を報奨として賜ることになっている」

「え、それは凄いですね。おめでとうございます」


 男爵から伯爵に一気に昇格なんてとても凄いことだ。私が素直にお祝いを述べるとエドガーさんは少し嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。…それでだが、私が伯爵になれば君の父親よりも階級が上になる。もし、君が私のもとに嫁いでくれるのならば、私は君を守ることができる。結婚をすれば君が家を出ることも不自然ではないしな」

「なるほど…。そういうことですか…」

 

 悪くない話だ。別に好きな相手がいるわけでも、将来を誓った相手がいるわけでもないし、貴族にとってこういう利己的な理由で婚約するのは珍しいことではない。エドガーさんとは今日出会ったばかりだし、お互いのことをよく知っているわけではないから婚約に対して不安がないわけではないが、少なくともおじいさまが信頼をよせるほどの人物だ。信用はしていいと思う。


「エドガーさんはそれでいいんですか?…その、好きな人とか…」

「問題ない。特にそういう相手がいるわけでもないしな。…寧ろ、君が私のはつ…いや、何でもない」


 …ん?最後の方、なんて言ったんだろう。声が小さくて聞き取れなかった。


「君こそ、どうなんだ?既にそういう相手がいるのか?いるのであれば別の方法を考えるのだが…」

「大丈夫です。特にそういう相手はいません。…その、エドガーさんとは今日あったばかりですし、すぐに恋愛対象として見ることはできませんけど、信頼はできる方だとは思っています。おじいさまの人を見る目は正確ですし、きちんと私のことを守ってくださいましたから…。だから、この話、引き受けさせてください」

「そうか。ありがとう。私のことは徐々に知ってくれればいい。君の気持が定まるまで、私は君に一切触れないようにするし、過度な干渉もしない。もし、君に私以外に好きな人ができたときは相談してくれれば解消にも応じよう」


 私を守るためにそこまでしてくれるのか、この人は。きっとエドガーさんにとって、私を守ることがおじいさまへの恩返しの一環なんだろうけど、それでも母と祖父を失って以来、誰一人見方がいなかった私にとって、エドガーさんの言葉は嬉しくて胸の奥に染みるものだった。



 あれから一年の月日が過ぎ、私は白いドレスを身にまとっていた。着付けを手伝ってくれていたメイドが、着替えが終わった私を見て微笑ましそうに言う。


「とてもよくお似合いですよ。クリムゾン夫人」

その言葉に私は笑顔で返した。


「ありがとう」


 その時、部屋の扉が叩かれる。入るように声をかけると扉が開き一人の男性が部屋にはいってきた。白いスーツに身を包み、髪をオールバックでまとめた男性。そうエドガーさんだ。彼は私の方を見ると、ほうっと感心した声をあげた。そして綺麗な微笑みを浮かべ私に言う。


「美しいよ、レティシア。…本当に綺麗だ」


 心の底から感動したような言い方に、私は思わず笑ってしまう。本気だよという彼に私は分かってると言った。


「エドガーさ…エドガーもカッコいいよ。そのスーツ、よく似合ってる」


 私がそう言うと彼はたまらないと言った様子で私を抱きしめた。メイドは気を利かせていつの間にか部屋を出て行ってくれていた。今、この部屋には私と彼の二人だけだ。


「さっき君のお父さんに会ったよ。私たちのことを祝福してくれていた」

「そう…よかった」


 この1年で父はようやく自分の過ちに気付いてくれて、正気を取り戻してくれた。あれほどやりたい放題だった継母や義姉の行いも嗜めてくれたらしい。今は三人とも(継母や義姉は渋々だが)慎ましい生活を送っているようだ。エドガーが色々と働きかけてくれたらしい。


「ああ、君がこうして私の腕の中にいてくれることが夢みたいだ」

「あはは、何それ」

「君は知らないだろうけどね。私の初恋の相手は君だったんだよ」

「え?」


 私がエドガーの初恋?…初耳だ。


「前に君の家に一度だけ行ったことがあるという話をしただろう?あの時だよ。庭にいた君を偶々見かけたんだ。楽しそうに花に水をやりながら一生懸命世話をする君を見て、私は一目で恋に落ちたよ」

「初めて聞いた」


 私の言葉にエドガーは面白そうに笑った。


「初めて言ったからね。君が私を好きになってくれるまでは言わないつもりだったから」


 そうだったんだ。そこまで私に気を遣ってくれていたなんて知らなかった。エドガーによると、久々に私と会ったときは一目で私だと分からなかったらしい。成長して雰囲気がすっかり変わっていたのと、まさか私に会えるとは思ってもいなかったから全く気づけなかったという。


「当時、表情に出ていたのかネルソン子爵に直ぐにばれてね。君を守れるくらいの強さと権力を手に入れなければ、私の孫はお前にやらんって言われたよ」

「ええ…!?」


 そんなことがあったのか。だからおじいさま、エドガーに私を守るようにって…。


(でも、そっか。エドガーは最初から私のために努力を重ねてくれていたんだ。おじいさまへの恩返しのためだけじゃなくて)


 そう思うと私は嬉しくなった。心のどこかでエドガーはおじいさまの恩返しのために私と結婚をしてくれているんじゃないかと思っていたから。


「愛してるよ、レティシア。これからも色んなことがあるとは思うけど、いつまでもこうして君と笑いあいながら生きていきたいと思うよ」


 改めてそう私に言葉をかけてくれるエドガー。私も彼の赤い瞳を見つめながら言葉を返す。


「私も。愛しているわよ、エドガー。お互い支え会いながら、一緒に乗り越えていきましょう。私たちならできるわ」

「ああ」


 青空から差し込んだ光が私たちを祝福するように照らしていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ