第362話 少佐の場合6
株式を上場してから数日。
テレビのインタビューに雑誌の取材、他の有名な経営者との対談と、スケジュールが目白押しであった。
普段の会社経営の仕事にプラスして、これらが増えるのだから、体が3つぐらい欲しいところである。
しかし会社設立して数年で新興市場とは言え、株式上場にこぎつけた手腕は高く評価されていて、天才女性経営者として注目を集めている間に名前を売らなくてはならない。
彼女の会社が開発した主力商品が、若い女性に人気のSNSツールということで、元々感度の高い女性達の間では憧れの人のように扱われてきた。それが、ここへ来て一般層にまで一気に知名度が広がったという感じである。
そして、この業界では知名度=会社の収益=株価といった側面があり、できるだけ多くメディアに露出するのは戦略通りなのであった。
それでもあまりの忙しさに、流石に秘書は彼女の体調を不安視していたが、実はこの数日、非常に体調が良かったのだ。
「不思議なものね。あとでぶり返しが来なきゃ良いけど」
上場前日、仕事帰りに普通に道を歩いていただけなのに、貧血気味になって眼の前が暗くなり……、気がついたら道端で寝ていたことがあった。
驚いてスマホの時刻表示を確認したら、寝ていたのはせいぜい10分弱。まだ肌寒いような季節ではなかったのでそれは良かったが、こんなに疲れているのかと、我ながら愕然としながら身の回りのモノをチェックすると、財布もスマホも大丈夫。衣服も別に乱れていないし、何事もなかったようだった。
いや、パンプスが片一方どこかに無くなっていた。
しばらくあたりを探したが見つからず、仕方ないので諦めて、片足だけ裸足ですぐ近くのマンションに帰ったのだった。
その時、裸足の方の足首にちょっと違和感があった。――ような気がした。
「ころんだ拍子に捻挫でもしたのかと思ったけど、別に大丈夫みたい」
歩いていて意識が遠ざかるぐらい疲れていたのに、10分少々寝ただけでこんなにも違うものか、と思うぐらい意識が明晰で、体も軽い。
そんなにうたた寝って効果があるのかな、と思いながら、自宅に帰ると、シャワーだけ浴びて、翌日に備えてすぐに寝た。
明日は、市場が開くとともに我が社の株の取引が始まる。
それを兜町で見守った後、すぐに記者会見に臨むのだ。少しでも睡眠時間を確保しなくては……。
ベッドに潜り込んで目を瞑ると、次に目覚ましの音で気がついた。
彼女はどちらかと言うと寝付きが悪い方で、ベッドの中でその日にあったことを思い出したりしている間にいつの間にか眠りに落ちるというのが通常だったので、短い時間でもこれだけ熟睡出来たのは珍しい。
その御蔭か、その日はハードスケジュールが全然苦にならず、楽しいぐらいであった。その翌日も、さらに翌日も調子は良かったのだが、さすがに徐々に普段通りに戻っている気がした。
この体調の変化は、株式上場の緊張感がもたらしたもので、仕事の大事な時期に神様がくれたプレゼントみたいなものだと彼女は感じていた。
実際には気絶した時にフロリアが飲ませた強力な体力回復ポーションが、この世界の人間に想定以上の効果が現れた、というに過ぎないのだが、そもそもそんなモノを呑んだ記憶が無い彼女にとっては、そんなことに思い至る訳もなかった。
その日も帰宅は夜中になった。
普段は厳重なセキュリティに守られた高級マンションに自分で運転する車で向かう。
彼女専用の社用車もあるが、さすがにこの時間になると運転手は帰っているし、自宅まで送り迎えをされるのを彼女が嫌って、普段は自分の車で出勤しているのだ。
彼女の住むマンションは海外から赴任してきた外資系の企業の役員や芸能人、成功した投資家といった金持ち御用達のようなマンションで、大学院時代にはアパート暮らしだったことを考えると随分な出世である。
当人的にはこんなに高級マンションで無くても良かったのだが、彼女のスポンサーであり経営の指南役でもあった、海外の投資家は彼女に投資する条件の一つとして、彼女に安全で快適なマンションに住んで、仕事に全力投球できる環境を作ることを挙げた。
そのエンジェル投資家と呼ばれる人物は、多くのスタートアップに関わってきただけあって、常に適切な助言を彼女に与えていたし、今回の助言も投資家の言う通りなのだが、偶に1人になりたくい日もあった。
それで徒歩でマンションに帰ろうとして、貧血を起こして道端で居眠りしてしまう、という危険を冒してしまった。幸い何事もなかったので、これからはもっと自分の安全確保に気を使わなくては……と彼女は思う。
とくにこれだけ名前が売れてしまうと、彼女にとっては全く関係の無い事柄で狙われる可能性がある。一種の有名税みたいなものだが、できるだけ節税して支払額を減らす努力はするべきであろう。
彼女が自宅の玄関のドアを開けると、不思議な匂いがした。
なにかの花のような良い匂い。甘酸っぱく、どこか懐かしいような、でもどんな花の匂いなのか思い出せない。
彼女はフラフラと30畳ほどもあるリビングに行く。
危険はできるだけ避ける、と決断したばかりなのに、なにかに吸い寄せられるように。
リビングは日が暮れるとセンサーが反応して自然に明かりが灯る。そして、女性が寝る時に部屋を管理するスマートホームにお休みと声をかけると消灯するのだ。
だから、明かりが点いていても、別に不審は感じなかった。
彼女はリビングへの引き戸を開ける。
リビングは少し冷たい雰囲気のタイル張りの床だが、中央に毛足の長い巨大なラグを敷いてあって、その上に高価なイタリア製のソファーセットが置かれている。
そのソファーに見知らぬ少女が寝転がって寛いでいた。
窓の外を眺めていたのだが、女性がドアを開ける物音で振り向いて、「やあ、怜子。今日も遅かったな」と言った。
***
「それで、あなたは命からがらここまで逃げてきたってこと?」
「ま、そう言って良いでしょうね。あんな化け物だと知っていたら、ちょっかい掛ける前にもうちょっとしっかりと準備したんだけど……」
女経営者・怜子の問いに少佐はそう答えた。
さすがに度胸が座っている怜子は、自宅のリビングに見も知らぬ少女が寛いでいても、いきなり騒ぐような真似はしなかった。
「泥棒? それとも強盗かな。現金や宝石類みたいな持ち運びが簡単なものはこの家には無いわよ」
「知ってるわ。社長になってからは、身につけるものはそれなりに高価なものを買ってたけど、それは仕事上の必要があってのことだったしね」
「……」
「ところで、なんで生きてるの? トラックはどうしたの?」
「何を言っているのか判らないわ」
「あなたは、上場前日の深夜に交通事故で死んだはずなのよ」
そして、少佐は自分の前世の女性に対して長い長い話を始めた。
途中、夜が明けて、女経営者は仕事に出なければならなかった。
「帰ってきたら、話の続きを聞くわ」
女経営者は完徹の疲れをものともせず、シャワーを浴びて、牛乳とコーンフレークとゆで卵の朝食を済ませると、さっさとでかけていった。
不思議と女経営者は、この少佐をあまり疑う気持ちにならなかった。普通であれば、こんな荒唐無稽な話を聞かされて、少女の頭の中を疑うなり、警察に連絡するなり、そうした対応をするべきであろう。
しかし、女経営者は少佐の言うことをそのまま信じた訳ではなかったのだが、全てを嘘、デタラメとして切り捨てることも出来なかった。もちろん、自分しか知らない秘密――例えばこれまで誰にも言ったことのない初恋の相手の名前、女というだけで業績を嫉妬されて追い出された大学院で友人だと思っていた同じゼミの学生に二人だけの時に言われた言葉――を知っている、ということも大きかった。
だが、それだけではなく、この隻腕の少女の言葉には無視できないなにかがあるのだ。
当人の言葉が真実であるなら、そこにあるのは闇魔法系の心理操作の魔法なのかも知れない。
少佐の方も、不思議と怜子が裏切って、警察なり、最低でもマンションの警備員を呼ばないか、と心配することもなく、彼女を仕事に送り出すと、マンション内のものを勝手に使って、快適に過ごすのだった。
少佐の方はシャワーで済ませたりせずに、湯船にたっぷりのお湯を入れると、かなりの時間を掛けて入浴し、冷蔵庫を勝手に開けて、冷凍してある宅配弁当を解凍して食べた。料理にあまり時間を掛けることのなかった前世では、少佐は栄養バランスに優れている、という評価の高い宅配弁当業者の製品を取寄せて、冷凍していたのだった。
「ふん。久しぶりだけど、まあまあの味ね」
以前は割りと気に入っていた弁当の唐揚げなど、味が薄味に感じるのは好みが変わったからだろうか。
いつも読んでくださってありがとうございます。




