第360話 少佐の場合5
夕方には大学の授業を終えた長男が帰ってきて、夜7時すぎには父親も帰宅して、家族が揃って夕飯となった。少佐も寝ているばかりでは仕方ないので、一緒に夕食をとる。
長男の方は大学のあとにバイトをしているので、この時間に帰宅するのは珍しいそうだ。もっとも、昨夜のように夜中になるのは飲み会で遅くなったからでそれまた珍しいそうだ。
母親がきれいな女の子を拾ってきたから、早く帰ってきたとからかっているが、バイトが休みなのは本当に偶然らしい。
食事の間中、父親や長男を慎重に観察したが、やはり暗示や思い込みがかかっている様には見えなかったが、かと言って少佐のことを疑う様子もなく、ごく当たり前に受け入れている。
そして、家族の誰も少佐の生まれや素性を聞こうとはしない。
平然と昔から一緒に暮らしていたかのように接している。
亡くなった娘のものだったという部屋の備品や衣服をそのまま使うのはちょっと気が引けた。通常であれば、引っ越しまでしたのに大事に持ってきた娘の遺品は誰にも触らせたくはないだろうに、と思うのだが……。
それとも、自分がその娘の代わりとして扱われているのだろうか。
少佐は7歳になった頃に両親の元から引き離されて、それ以来、周囲の人間は誰一人信用できる者はいなかった。居たのは、少佐を利用する者か、後に少佐に利用される人間ばかりであった。
もはや通常の人間とは言えないような膨大な魔力、それも人の心に働きかけ支配する系統の魔法に適正のある魔力の持ち主であった少佐が、ごく普通の生活を送るのはもとから難しいことだったのはやむを得ない。しかし、グレートターリ帝国のような魔法使いに対しても、そうでない人間に対しても冷酷な扱いをする国で無ければ、随分と違っていたのかも知れない。
そのまま、この家に世話になって数日が過ぎた。
トパーズの影もなく、どうやら完全に撒いたらしいと確信が持てるようになってきた。
ニュースを検索してみると、あの黒豹と戦闘になった場所は同じ東京近郊ではあるが、北と南に分かれていて、車で移動しようと思えば数時間も掛かるほどであった。
今のところ、黒豹を撒いたと考えて良さそうであった。
フロリアはまったく手がかりがなくて、どうなったのか判らない。一緒にこの世界に飛ばされているのか、それともフロリアだけあちらに取り残されたのか。
トパーズは、フロリアとははぐれているだけで、こちらに来ているという確信があって行動していたようだったが、それも落ち着いて話し合った訳ではないので、あの獣がどんな証拠があってそう思ったのか判らない。
「でも、油断をしてはならない。フロリアなり、あの黒豹なり、いつまた現れるか分かったものではない」
そうなると、この場所で殺し合いだ。
いま、世話になっているこの人たちに迷惑が及ぶようなことは避けたい。
そう考えている自分に気がついて、少佐は我ながら意外な感に打たれた。
これまで、特に恨みがある相手ではなくとも、利用したり、巻き添えにしたりするのはいつものことで、躊躇したことなど無かった。
それが、出会って数日程度の相手を気に留めている。
自分が前世を過ごした世界とは言え、これまで生活して基盤を築いてきた世界とは別の場所に飛ばされて、心細くなっている心理状態が、こんな気持にさせているのだろう。
そう少佐は、自分の状況を分析していた。
きっと、万が一の時にはこの家族を犠牲にして、気に病むことなんか無いのだろう。自分はそういう人間なのだと……。
そう言えば、いま自分が居る場所を聞いた時に日付も聞いて、以前の自分が死んだ日の翌日であったことに驚いた。
そうなると、黒豹に追われて、町を逃げ回っていた、あのぐらいの時間に自分は翌日の株式上場に向けて夜遅くまで働き、帰りに事故で死んだというなのだ。
その奇妙な因縁に、偶然では無いなにかを感じたのだが、それだけで放置していた。
もしかして黒豹と格闘などしておらず、すぐに状況に気がついていたら、事故現場に向かっていたのかもしれない。
あの場所からはかなりの距離はあったので間に合うかどうか判らなかったが……。
だが、事故現場に間に合って、私はどうしたのだろうか、と少佐は思う。
自分で自分を助けたのか。
その場合、ここに居る自分はどうなるのだろうか。
「ま、あり得なかった過去を考えても仕方ない。それよりも、これからどうするか、だ」
このままこの世界で暮らす。
あちらの世界に戻れなければ、そうするしか無いが、身寄りが無く戸籍や住民票もなく、片腕の15歳ぐらいの見た目が外国人っぽい少女がこの国でどうやって生きていける?
この家の人たちは助けてくれそうな気がするが、彼らに出来るのは小市民的な生活を送れるようにサポートすることぐらいであろう。
自分のような人間がそれに満足して暮らして行けるのだろうか。今は、心が疲れているので、この場所が心地よく感じるかも知れないが、数ヶ月も経つ間に退屈で耐えられなくなるのでは無いか。
あちらの世界には、強く願って転移魔法を使えば戻れるような気がしている。
それが単なる思い込みなのか、予知魔法が無意識下で働いて、戻った未来を予感しているからなのか、少佐には判らなかった。
そもそも戻りたい?
こちらの世界でも、退屈で平凡な日常ではなく、以前の人生のようにコンピュータサイエンスの最前線の研究をしたり、IT企業を運営して株式上場を目指したり……。
そうした人生であれば不満はおきないのかも知れない。
むしろ、人を人とも思わず、全てが皇帝の奴隷であるような世界なぞよりも、働きがいがあるのかも知れない。
そんなことを考えている間に数日が過ぎ、体力も気力も十分に充実してきた。
母親は「明日は休日だから、皆で近くのショッピングモールに行って買い物をしよう。この娘もお古ばかりじゃなくて、新しい服を買い揃えないとならない」と夕食の時に言った。
長男も父親も休み、ということで車を出して、午前中から少し遠いが、沢山の店が入っているショッピングモールまで足を伸ばすことにしたのだった。
前世では15歳ぐらいの年齢のときは、クラスでも真面目一方のガリ勉のように思われていて、自分自身でもおしゃれに興味は無かった。というか、変におしゃれをして目立つのを避けていたので、洋服を沢山買う、というのはちょっとワクワクする経験になりそうだった。
現在のこの体は、転生人は美人揃いの格言通りに、あちらの世界でも人並み優れて魅力的であり、それ故に皇帝の毒牙に狙われることになったのだが、こちらでも西洋人のモデルのように見えるのであった。
きっとおしゃれをすれば、下手な芸能人でも太刀打ち出来ないであろう。
――しかし、その話題が出た少し後。テレビのニュースで、「設立数年でベンチャー市場に株式上場に成功した、新進気鋭の若手女性経営者」のインタビューが放映された。
そこに映っているのは自分であった。
"死んだ筈では?"
少佐はあっけに取られた。
てっきり、あの晩に前世の自分は死んだものと決めつけていて、確認することさえしなかった。
そもそも、自分が経営していた会社が創業経営者急死のあと、どうなったのか、それは今の自分に生まれ変わってからも、時々気になっていたことであった。
ところが、こちらに転移してからの激しい気持ちの揺れの中で、そんなことさえ確認するのを忘れてしまっていた。
長男に頼んで、タブレットかスマホを借りて、黒豹が暴れた場所は検索したというのに、こんな事がすっぱり頭から抜け落ちていたなんて……。
やっぱり自分はどこかおかしくなっていたようだ。
少佐は、早くに眠くなったと言って、自室に引き上げると、ベッドに腰掛けてずっと考え続けた。
そして夜が更けて、皆が寝静まってから、この部屋の本来の持ち主が着ていた外出着の中から適当なものを選んで着替え、皆を起こさないようにソッと家を出た。
何も書き置きなどはしなかった。
少佐は道の角まで行くと振り返って、その家のシルエットを見ながら、「さよなら。ありがとう」と呟いた。
その後は、変に魔力をつかって黒豹に感知されては敵わないので、歩いているうちに幹線道路に出たので、タクシーを停めて、以前の自分が住んでいたタワーマンションのある町に行ってくれと命じた。
夜中に、日本人には見えない15歳ぐらいの少女が、かなりの距離がある都心まで行く……普通であればタクシー運転手に不審がられて通報されかねないケースであるが、ここで少佐は闇魔法系の幻惑魔法を効果的に使って、誤魔化したのであった。
その運転手は、数時間後にふと気がつくと、自分が普段は行かないような場所を流していて驚いたのだった。
ぼんやりしている間にこんなところまで来てしまったのか。お客を載せた覚えもないし、売上も立っていない。運転手は自分が無自覚のうちにかなり疲れていて、このまま仕事をしていたら大きな事故を起こすかも知れないと思い、しばらく休暇をとることをきめた。
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