第345話 少佐の過去3
頭の中に霧が掛かっているような状況はだいたい半年程度続いたと思う。
それまで、自分が何をされているのか理解していたのだが、なんだか夢の中の出来事のようでふわふわしていて現実感がなかった。
それがある朝おきたら、薄いヴェールが剥がされたかのように、意識が冴え渡っていたのだった。魔導具の影響による状態異常を克服したということなのだろう。
そして、意識が明確になると、自分の体に刻みつけられた忌まわしい劣情の痕が悪臭を放っているかのように感じた。
丁度、皇帝がかなり遠い場所に行幸に出かけていて、しばらく後宮を留守にしている時期で良かった。
この精神状態で、皇帝に召されていたら、寝所で暴れて大騒ぎになっていたことだろう。
彼女……アナトリア妃は、第四后妃になってからお付きの侍女を与えられていたのだが、その侍女達に風呂に入り体を清めたいと命じ、侍女たちが朝から風呂など聞いたこともありませんと諌めたのを怒鳴り散らして、無理やり用意させた。
どうも自分よりも年長の侍女達は、幼さの残る癖に皇帝の寵愛を受けているアナトリア妃を軽んじ嫉妬していて、こうした小馬鹿にするような態度が当たり前になっていたようだった。
この侍女共は全部取り替えてやる。そして二度と他の后妃付きになれないように、一番卑しい下働きに落してやる。
そう決断して、アナトリア妃は1人で風呂に入った。これまた侍女達は后妃がご自分で体を洗うなどもってのほか、侍女の仕事であると主張したが、今度は睨みつけて黙らせた。
魔法使いの威圧を知らずしらずのうちに使っていたため、睨まれた侍女たちは恐怖でしばらく動けなくなるほどであったのだが、そんな事はアナトリア妃の知ったことではない。
皮膚が痛くなるまで、体を洗ったが、それでこの半年間の間にあの男に擦りツケられた忌まわしい白濁した液がどこかにまとわりついて居るような気がしてならなかった。ともあれ、妊娠していないのが幸運だ……そう思え、と自分に言い聞かせた。
彼女はしばらく前から周囲からアナトリア妃と呼ばれていて、誰も本名のジャナンとは呼ばなくなっていた。
それで良い。両親が名付けてくれた大切な名前ジャナンと呼ばれる資格を失ったような気がしたからだ。
女官どもを遠ざけ、数日にわたりアナトリア妃は1人で悶々と悩み続けたのだ。
彼女は前世でも男たちの嫉妬のためにいつも足を引っ張られてきた。
だが、あの人生最後の日々は、それを跳ね除け、自分の才覚と知恵によって成功をおさめ、地位を勝ち得たのだ。
口さがない連中の中には、米国の投資家を女を武器に丸め込んで資金を出させて、それで成功しただけ、高級娼婦みたいなものだ、と言う者も居たが、間違いなくあの投資家が見ていたのは彼女の才能だけで、性的な関係は一切無かった。
才覚を信じて資金を提供してくれた投資家に十分な見返りをもたらし、多くの従業員に業界水準よりずっと高い給与を支払い、世間一般には新しく刺激的なSNS体験を提供する。
それに成功し、その証となる株式上場を目前にしたところまで行ったのだ……。
今の自分は身分こそは御大層な后妃なぞになっているが、実質はまだ成熟しきっても居ない体を権力者に弄ばれている、ただの子供だ。
だがこのまま終わってたまるものか。
もう汚されたのであれば、それで良い。今回の自分は前世の自分と比べて、どうやら男に対する性的なアピールははるかに上のようだった。
この年で既に、数えきれないほどの女性を抱いてきた皇帝を魅了するほどに……。
鏡で自分の体を映してみると、確かに美しい。
繊細な柳のようなしなやかな曲線。ピンと張り詰めたよう。
顔立ちも一見すると、眼が大きすぎてバランスが悪いようにも見えるが、その眼の力がとても強く、見る人によっては神秘的だと感じさせたり、恐怖を感じさせるするものであった。多くの人を惹きつけて離さない瞳であった。
ならば、この汚された体を使って成り上がってやる。
アナトリア妃はその印象的な眼光にふさわしく、心の奥底に秘めていた情念は人一倍激しかった。
己の身に降り掛かっていた"事態"を消化するまでにはかなりの時間を要したが、その間、丁度皇帝が後宮を留守にしていたのがありがたかった。
皇帝がようやく戻ってきた時には、アナトリア妃は以前の朦朧とした少女から別人へと生まれ変わっていたのだった。
それからは話は早かった。
皇帝から寝所に召されると、魔導具を使われたが、もうアナトリア妃の精神が汚染されることはなく、むしろ皇帝の方が知らず知らずのうちにアナトリア妃の言いなりになっていったのである。
あまり急速に皇帝を操り人形にしてしまうと周囲に気取られる。なので、1年近くを掛けて、じっくりと皇帝を蝕み、周囲はおろか本人も己が己の判断で行動していると信じつつ、実際にはアナトリア妃に良いようにされていたのである。
この間、ほぼ毎日、寝所に召されるのはアナトリア妃ばかりであった。間を開けると、洗脳が薄らぐので、それはやむを得ないことだったのだが、そのために、他の后妃やその后妃の実家にあたる貴族達の攻撃を受けることとなった。
その中には建国以来の大貴族家や、新進気鋭の軍閥などが居た。彼らは最初はアナトリア妃を掣肘しようとしていただけであったが、すぐにこれは容易ならざる事態だと判断し、彼女を暗殺する方針に切り替えた。
幾度かの襲撃があったが、その度に返り討ちにあい、それどころか襲撃の証拠を握られて罪を問われ、断絶に追い込まれる貴族家が数家。あからさまに断絶したのは基本的に実行犯で、黒幕の大物貴族は物証を残すような場所に出てくることはなく、皇帝の意を受けた官憲の手は届かなかった。
ただし、物証などあまり気にすることのないアナトリア妃の襲撃の手が緩むことはなかったので、結局、御家断絶に追い込まれたことにかわりはなかった。
アナトリア妃も常に襲撃に対して、余裕を持って反撃に成功していた訳ではなく、何度かは追い詰められて死に掛かることもあった。
しかし、その度に潜在的な能力が覚醒して切り抜けていったのだった。本来であれば、10年、20年を掛けてすこしずつ開花するような隠れた魔力であったのかも知れないが、彼女の場合はそれを無理やり少女のうちに引き出して、それを武器に生き抜いてきたのだった。
ただ、とある貴族家が彼女に加えた攻撃は非常に効果的であった。
その貴族は、元は彼らの側からアナトリア妃排斥を狙って活動した処、反撃を受け一族が窮地に追い込まれた。
一族の重鎮達の慎重論を無視して、アナトリア妃にちょっかいを出す決断をした、その貴族家の若い当主は追い詰められた結果、アナトリア妃のその生まれ故郷の村を焼き討ちしたのだった。
単なる八つ当たり、逆恨みとも言える行動で、それが一族の状況を好転させる上でどんな意味があるのか、というと、実はまったく意味がない。
ただ単に、アナトリア妃を傷つけただけの結果に終わった。
知らせを受けた時、アナトリア妃は一刻も早く村に向かいたい、帰りたいという気持ちで半ば無意識のうちに、始めての転移魔法を使ったのだった。
転移魔法は訓練所時代に誰にも実現不可能と言われたことから、前世の研究者気質でずっと取り組んで居たのだが、それがこの時に発動したのだ。
一瞬前には後宮に居たはずなのに気がつくと、廃屋の前に立っていた。
混乱したアナトリア妃は、最初は自分がどこに居るのかも判らなかった。
しばらく周囲を歩いてまわり、やっとここが自分の生まれ育った村(の破壊された跡)であり、最初に転移した時に目の前にあった廃屋こそが自分の家だったのだ、と理解した。
「おとうちゃん、お母ちゃんは?」
両親、そして幼かった弟、妹。
隣に住んでいたおじさん、おばさん。向かいのおばあさんに、近所の友達たち……。
村の様子を良く観察すると、それぞれの家は無人になってそれほどの時間が経っているわけではなく、自然に朽ち果てたもので無かった。人の手により破壊されたものであったし、そこかしこに血痕が黒い染みになっていたし、家の柱には剣か斧のようなもので斬りつけた跡もあった。遺体もいくつかは目立たない処に転がっていたが、いずれも狼にでも食い荒らされたのか、ほとんど原型も残っていなかった。
少佐は自分の家の残骸から、母親がいつも使っていたことをかすかに覚えている櫛や父親の着物らしきもの、弟や妹の使っていたであろう食器などを集めると、村を出て、見晴らしの良い丘の上まで行って、穴を掘ってそれらの遺品を埋めて、近くの石を墓標代わりに立てた。
そして、その墓の前で長い時間を過ごしたのであった。
――いちど転移魔法を使ってからは、発動させるための感触が自然と分かるようになり、問題なく後宮の私室(房)に戻れたのだった。
アナトリア妃は、自分の故郷の村を襲った一族の主だったものを次々と暗殺していった。最後に首謀者の当主を暗殺し終えた時には、一旦は憑き物が落ちたように大人しくなった少佐であったが、その後、故郷の周辺を治める地方官の提出する報告を定期的に取り寄せて読んでいたのだが、アンデッドの群れがあの村の近くでたびたび目撃されていることを知った。
矢も盾もたまらず、アナトリア妃はまた故郷の村に飛び、今度は数日掛けて周囲を調べ、アンデッドの群れを発見した。
その時点では相当体が崩れ、淡い記憶の中の姿かたちとはまるで違っていたが、それでもひと目みただけでアナトリア妃には、この動く死体の群れが自分の村の人たちだとわかった。
両親の姿もある。その脇から離れない、あの小さなアンデッドは弟妹なのであろう。廃村になった村に残っていた死体が少しだけだった訳である。
アナトリア妃は泣きながら、群れにファイヤーボールを叩き込み、アンデッドを一体残さずに完全に焼き尽くしたのであった。
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