第169話 キーフルへ
マレクは元同僚から、フィオリーナ(フロリア)失踪の話を聞いて、目の前が明るくなった思いがした。シモン襲撃の際に失態を晒して、騎士隊を放逐され、レオポルト隊長の親族に預けられ数日。
父のモレスキーはバルトーク伯爵家の騎士として名を馳せ、その跡を継ぐべく、マレクも見習い騎士として励んでいた。
それが騎士隊を放逐されたとなれば如何ほどにか落ち込むところであるが、マレクはフロリアが失われそうなことの方に心を奪われていて、特に騎士への道が閉ざされたことに感慨は無かった。
それよりも、尊敬していたレオポルトがフロリアに"色目"を使っていることの方がよほど心をかき乱し、そればかりがバルトーク伯爵その人までもがフロリアに執心だと聞いて気が狂わんばかりになった。
そのフロリアが逃げたのである。
マレクの常識からすれば、シュタイン大公国の民とは言え、シュタイン大公は雲の上の人過ぎて、実感が無い。
身近な絶対的権力者、逆らうことなど考えることすら出来ないのがご領主様であるバルトーク伯爵である。
騎士という比較的貴族よりのマレクにして、そうなのである。
庶民のフロリアなど、貴族から粉をかけられて、それを断ることなど絶対に有り得ないことなのだ。
――ところが、フロリアは皆の前から姿を消した。
「ああ、そんなに俺のことを思ってくれていたのか」
ちょっとした行き違いから悲鳴をあげられたりしたが、やはりあの娘と自分とは運命の糸で結ばれているのだ。だから、伯爵の誘いを断り、純潔を保つ為にその身を隠したのだ。
「待っていてくれ、フィオリーナ!! 俺が今すぐ迎えに行くぞ!!」
マレクがレオポルト隊長の親族の家から出奔したと聞いて、前日にフロリア失踪の報をマレクに教えた同輩は血の気がひく思いであった。
この世界の人はストーカーというものに対する認識がとても薄く、このマレクの暴走も「若いものにありがちなのぼせあがりで、しばらくすれば落ち着く」程度のこととして捉えていたので、同輩はマレクに冷水を浴びせて正気に還らせる為に、フロリア失踪を教えたのだった。
それが、さらなる暴走を生んでしまい、レオポルト隊長まで今度こそ、脳天から湯気が出るほど怒り狂っている。
若い頃、マレクの父親のモレスキーに世話になったレオポルト隊長は未だにマレクを見捨ててはおらず、折を見て騎士隊に復帰させるつもりであった。だからこそ、眼が行き届く自分の親族に預けたのだ。その最後の好意も無にされて、レオポルト隊長は怒りと失望に震えるのであった。
***
バルトーク伯爵家としても、フロリアをこのまま諦めるなど到底ありえなかった。
最初のフランチェスカの乗る馬車襲撃の際の治癒魔法と召喚術師としての才能、フランチェスカの呪いを解きバルバラの陰謀を暴いた錬金術師としての知識と技量、そして最後の魔法使い襲撃に対する高速移動の魔法や屋敷中に声を届ける特殊な魔法の数々。
この娘1人が居るだけで、この先バルトーク伯爵家にどれほどの利益をもたらすことか……。
それが屋敷から逃げてしまったのである。書き置きが残してあったことから、本人の意思であることははっきりしているが、元々、本人の意思などあまり関係無いのだ。
あの娘は、将来の大公妃を輩出して更なる飛躍の時を迎えたバルトーク伯爵家が一番うまく"使える"のだ。
このまま逃がす訳にはいかない。
とりあえずは、これまでの短い期間であの魔法使いの娘が行った様々な"仕事"に対する支払いは保留にされた。娘をうまく確保できなかった場合はせっかく支払った大金が無駄になるだけだ。それに伯爵家にとってすら、一度に支払うにはちょっと大きすぎる金額だという事情もあった。
だが、全く支払ってなかった場合には、フロリアを説得する際に不利な材料となりかねないということで、伯爵の指示でごく一部だけ頭金というカタチで冒険者ギルドの口座に振り込んでおいた。
そして、伯爵家からの追跡者としてミクラーシュが選ばれた。レオポルトが行きたがったが、いつまで掛かるか不明の仕事に騎士隊長を派遣する訳にはいかない。
ミクラーシュは、伯爵家の現当主の末弟ということでいわば冷や飯喰らいである。庶民から見れば結構なご身分の冷や飯喰らいではあるが……。
決まった仕事があるわけではないし、それなりに町に出て遊んだり、ちょっと他の町に物見遊山の旅に出たり、という経験もあり全くの世間知らずでもない。
そして、それなりに見栄えのよい風体をしているということでミクラーシュが選ばれたのであった。
この手の人選はご令嬢であるフランチェスカの預かり知らぬところで決定されたので、彼女がダンスレッスンのときのことを持ち出して反対する機会は無かった。
また、仮に反対したところで、やはり他に適当な人間がいないということで、釘を刺された上で、ミクラーシュが選ばれたことだったろう。
***
この世界でのフロリアの父は、馬1頭で牽ける荷馬車に雑貨や身の回り品を積んで、町を回って商売をする行商人であった。
1つの町に本店を構えて、商品の仕入れのために他の町まで交易隊を編成して取引を行う商人と比べると、荷馬車一台だけが店であり倉庫であり、生活の全てであるこうした行商人は一段低く見られがちであった。
しかし、町と町の合間にあるような小さな村も回って、生活物資を届けてくれる行商人はこの世界にとって無くてはならない存在なのであった。
もっと簡易的な商売としては、馬車も持たず(持てず)に自分で荷を背負って旅をする荷担ぎの行商人も居るのだが、さすがに彼らは町から徒歩でも数日程度の村よりも遠くには旅をしない。
それに比べてば、馬車を持つ行商人の方が行動範囲は広いのだが、それでもやはり限られた範囲を出ることは滅多にない。
だから、今回の交易隊の隊長を務める商人は、その旅に同行させてくれ、と頼みに来た行商人を見て、もうこのあたりでは商売ができなくなるような不始末をしでかしたのではないか、と最初から疑念の籠もった眼で面接した。
何しろ、今回は国境を抜けて、あまり仲の良くないシュタイン大公国の首都の手前迄行く長旅をする予定なのである。
しかし、面接をした限りでは特に不審な点はなかった。このあたりでは見かけない顔であったが、話を聞くと元々はシュタイン大公国の出身なのだという。
若い頃に冒険者になって故郷の近くで活動していたのだが、一人前になるに従って修行の旅に出たくなって、仲間とともに国境を超えてヴェスターランド王国の北の方まで旅をして、そこで好きな女が出来たもので、仲間と別れて女と一緒に暮らし始め、行商人になったのだそうだ。
ところが先年、その女が亡くなり、子供も居なかったもので、生まれ故郷が恋しくなって商売の本拠をそちらに移すことにしたのだそうだ。
「家からの手紙で、親父も年を取って、脚を痛めたというものでね。せめて家の近くに居てやろうと思ったのですよ」
と、その男は乾いた笑いを浮かべて言った。
いきなり見ず知らずの外国に行っても簡単に商売など出来ないが、生まれ故郷の近くということで、幼なじみや顔見知りで似たような商売をしている者も居て、すでに行商人仲間に入れてもらえるように頼んであるのだそうだ。
それでちょうど良い交易隊を見つけたので、途中まで一緒に行って貰えれば、安く安全が買えるというわけで同行を願ったのだという。金額も折り合いがついたし、食事と水は個別で用意する、普段の行動は交易隊の隊長の指示に従い、非常時には交易隊で雇った冒険者パーティのリーダーの指示に従う、という条件も合意が出来た。
こうして、その行商人は交易隊の中の1人としてシュタイン大公国の国境の町の2つ手前の町まで同行することになったのだった。
「ええと、なんて名前だっけかな。けっこう長い時間話したんだが、なんだか印象の薄い男で顔立ちすらもはっきりしねえ。あ、そうそうマックだったな」
隊長は商人だけあって、けっこう人の顔と名前を覚えるのは得意であったのだが、なんだかあの行商人だけは奇妙に印象が薄くて覚えにくいし、覚えてもすぐに忘れそうだと思った。
まあ、この旅が終われば、二度と会うことも無いだろうから、別に構わないのだが……。
こうして"暗部"の"渡り"であるウルリヒこと、行商人のマックは、交易隊の一員としてシュタイン大公国の首都キーフルを目指すことになった。
マックは、目立たない穏やかな男で自分で馬を御して荷馬車を操っている。今回は行商の旅ではないので、食料・水が多めらしく、雑貨品などは途中で路銀を稼ぐのに必要な程度しか積んでいないし、途中で新たに仕入れすることもしない。
こうして全然世話が掛からないし、交易隊のメンバーに話し掛けられれば、愛想良く返答するので、別に問題も起こさない。
それで、数日もすれば、この男のことは意識の片隅に押しやってほとんど気にすることも無くなっていた。
目的地に着いたときに、「お陰様で安全な道中でした。後は生まれ故郷まで一息で行くだけです」と別れを告げに来て、ああ、そういえばこの男はお客だったのだな、と改めて思い出したほどであった。
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