第131話 トパーズの苦悩
壁を壊せないとなると、フロリアを待って何十年でもここにいなければならない。聖獣たるトパーズにとって時間は大した問題ではない。
だから、やがて戻ってくるという見通しが有るのなら、数十年程度、待っていても構わない。しかし、その見通しがなく、フロリアは人の子である。
あの娘の寿命は百年もない。
いや、そんな話ではなく、いま現在、どこかで魔法陣の魔法に苦しめられて、息絶えようとしているのかも知れない。
魔法陣についていくらかでも知っているイルダを呼びに行くにも、まずは壁を壊すのにいつまで掛かるのか分からない。その後、アルティフェクス(だったか)まで行ってイルダを連れてここに戻ってきて……。
だめだ。
多分、それは時間がかかりすぎだ。今すぐ、この場で対応しなければフロリアを失うことになる。
トパーズは、いつ自分がこの世界に発生したのかもよく覚えていない。その生のほとんどを一匹だけで過ごしてきたが、それでも自分は獣の王であり、多くの眷属が自分に付き従っているのは判っていた。
だが、いくら眷属が多くとも、彼は孤独であった。孤独であったが、そのことをあまり意識することすら無かった。
果てしなく長い寿命の間に、気が向くままに、この世界の様々な場所で暮らし、時に気まぐれで数十年ぐらい、人間の住む町の近くに潜んでみたり、何度か話をする人間が出来たりもした。
そうしたなかで、徐々に人間についての基本的な知識も得て、人間の町の中に入ってみたことがある。黒豹の姿で入ると、さすがに皆騒ぐだろうから目立たないようになれないか、と試してみたら、あっさり影に溶け込むように人の目に見えなくなったり、体を変化させて思うがままの姿になることも可能になった。
だが、人の住む町と言うのはあまり面白いものではなかった。
それで、今度は人がまばらにしか住んでいない村の近くに潜んで、近くの農家の一軒家に暮らす家族を観察したりもした。
この時には100年近くも観察し、その農家の家族が生まれ、育ち、子を成し、年老い、やがて死んでいくが、その時にはもう子の世代が一人前になっていて、孫世代を育てている……というサイクルというものが有るらしいと分かった。
このサイクルを観察するため、その一軒家の農地を荒らそうとする野生動物を追い払ってやったりもしていたのだが、100年に近くなった頃、外に出ていた子どもが流行り病を持ち帰ってしまい、一家全滅したのだった。
それで、トパーズはまた森の中に引きこもり、はるばる北の方まで旅をして、冬場になると一面、雪で真っ白になる辺りまでやってきた。
通常であれば、漆黒の体ではとても狩りが不利になるのだろうが、トパーズの飛び抜けた能力では、あまり関係無かった。それに、別に常に狩りをしなければ餓死するような体でも無いのだし。
アシュレイと知り合ったのは、ほんの偶然。数百年振りにちょっと気晴らしに森の端の方まで行って、走り回っていた時、森の中を身を隠すようにしながら歩いている人物を見つけたのがきっかけであった。
それが人間のメスらしい、というのはトパーズにもすぐにわかった。聖獣であるトパーズには雌雄の区別など無かったが、眷属の獣達はその区別があり、トパーズは知識として知っていたのだった。
この人間のメスは狩るにはヒョロッとしていて、あまり面白そうではない。餌は元々食べなくとも死なないし、時々気まぐれになにかを食べるときでも、ある程度は狩り甲斐のある強敵でなければ食べる気にならない。
なので、この人間のメスの横をさっさと通り過ぎて、森から出て、遠くに見える山脈の方に行こうと思っていた。
そのメスに気づかれないように身を隠すつもりは無かった。獣の王である自分が、そんな面倒なことをする理由がなかった。メスが襲ってきたら返り討ちにするだけである。
「あ、待って」
しかし、そのメスはトパーズを襲うことも逃げることも、何も出来ずに立ち竦むこともせずに、声をかけたのであった。
人間の体格というものは良く分からなかったが、どうやらそのメスは不健康に痩せていて、体の奥底の方に何かどす黒いものが溜まっていて、それが体を蝕んでいるように見えた。
この程度の生き物を歯牙に描けるトパーズでは無かったはずが、その声色に何か不思議なものを感じて、トパーズは思わず立ち止まったのだった。
「何だ、人間? 私に喧嘩で売ろうというつもりか?」
「違いますよ。ここはどの辺りなのか教えてもらおうかと思って。私はアリステア神聖帝国を出て、ヴェスターランド王国に行きたいんです」
「……それはどこだ?」
――こうして、アシュレイとトパーズの出会いは少々トンチンカンな会話から始まったのだった。
最初は互いに緊張感を孕んだ雰囲気であったが、不思議とトパーズはその人間のメスに安心感を覚えて、気がつくと地面に寝そべって、そのメスに頭を撫でられていた。
数時間後、トパーズはそのメスと一緒に、そのなんとかランド王国とやらに行くことにしていた。
人間の寿命がどれぐらいのものか、はすでに知っていた。その寿命の間ぐらいなら、この傍にいると心地よいメスと一緒にいてもよかろう、そう考えたのだった。
このメス(もう女性と呼んだほうが良さそうである)は、少し考えてから、自分の名前をアシュレイと名乗った。
トパーズは何となくだが、その名前を彼女が言い慣れていないような気がした。だが、別に構うことなど無い。名前などどうでも良いのだ。
「そうか、アシュレイ。私は別に名前は無い」
この精悍な黒豹の答えにアシュレイはまたちょっとの時間、考えてから、
「それじゃあ、トパーズと呼んで良いかしら? その黄色い瞳、とても印象的だから」
「構わんよ。アシュレイの呼びたいように呼べば良い」
それからトパーズはアシュレイと従魔契約を結んだ。従魔契約についても、町に出た時に召喚術師とかいう連中が使っていたので知っているが、これをアシュレイと結ぶと離れていても、心がつながっている感じがして心地よかった。
――そして、アシュレイが最期を迎えるまで20数年。
最初の頃は、彼女が町で暮らし、冒険者とか言うものになって仲間も作っていたので、その仲間ともある程度は親しくなった。
その後、アシュレイが森の中で一人暮らしを始めると、それに付いてやっていた。
慣れてはいるが、別に目新しいこともない森暮らしであったが、不思議とアシュレイと2人だと飽きなかった。
そして、後半になると、仔が増えた。人間にしては中々の魔法を使うアシュレイが何かを予感して、久々に森の外まで行った。すると馬車が魔狼に襲われていて、それを蹴散らすと馬車の下に幼い人間が隠れていた。
その後は、その人間――フロリアも一緒に暮らす様になった。
これまでアシュレイ以外の人間とは接触があっても、親しみとか安らぎとか感じたことが無かったのだが、このフロリアにはそれを感じた。
そして、自分がこの小さな仔を守らなければならない、という不思議な感情が湧き上がって来たのだった。
それで、アシュレイの死後も、フロリアと離れることなく、ここまで来てしまったのだ。なぜだか、フロリアとは従魔契約が結べなかった。だから念話も出来ないし、あまりに離れ過ぎるとどのあたりにいるのかも感知できなくなる。
だが、それで困ることがあるなんて思っても見なかった。こんな洞窟の奥で離れ離れになるなど、まったく思いもよらない事態になってしまった。
せいぜい出会ってから10年も経っていないような相手なのに、もはやフロリアの居ない生活など考えられなかった。アシュレイを失った時にも、かなりの痛みを感じたものであるが、あの時にはまだフロリアが居た。
今回は完全にアシュレイと出会う前に戻ってしまうという意味なのである。
「だめだ。もはや考えている場合じゃない。何をしたら良いのかよく判らぬが、何かせねばならないのは確かだ。だとすれば、とりあえずはこの魔法陣を壊して見るしか無い」
トパーズは、右前肢の爪をむき出しにすると、風魔法で魔法陣を床の素材ごと切り裂くべく、高く掲げ、猫パンチの要領で振ろうとした。
その瞬間。
魔法陣がフロリアを連れ去ったときと同じ光りを放ち、そしてその光りの中からフロリアが溶け出るように出現したのだった。
「トパーズ!!」
フロリアは目の前の黒豹に気がつくと、ジャンプして、その首筋にしがみついた。
「良かったああ!! トパーズって、けっこう気が短いから、魔法陣壊しちゃうかと思って、ハラハラしたんだからね! 壊してたら、もう帰ってこれなくなったんだよ!!」
「わ、私がそんなことをする訳ないだろう」
トパーズは首を締められながら、そう答えたのだった。
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