シェナ・パラッパ=キティバットの清拭歌
少し経って。
『……よくもまあ、水中でこんなバケモノと戦おうだなんて
思ったものよね。しかも中古の小型船で。前のチームでの
感覚、忘れられていないんじゃないの?』
「けっ、忘れたことさえ忘れていたね。勝てたんだから良い
だろう。完勝だよ。ビューンでズガーンでドカーンだ」
ボクの初めての口づけを嵐のようにさらっていった金髪の女の人は、金属製の無骨な椅子の上に戻って、計器の脇から伸びた管の声と気だるそうに話していた。
『その完勝しているところの映像が、まだ届いてこないん
ですけど? くぷぷぷ……これじゃ、ビューンどころか
ヘローンじゃない』
「うるせェな。送信が遅れるのは仕方ないだろ。空調とか、
カンナとケケの船外作業用に魔力をだいぶ割いているんだ。
この船はあれっきり、燃費の悪い鉄クズ魚に戻っちまった」
大釜のタブレットも買い換えだ。と、背もたれの向こうで大げさに手を振った。
窓際の彼女をぼんやり眺めるボクの隣では、
「ふっき、ふっき、あっためろー。ふっき、ふっき、
あったまろー」
褐色肌の小柄な女の子が、布に包まれたボクの体をさすっている。
名前は、
「シェナだよー。シェナ・パラッパ。ニノマエ、気分は
大丈夫?」
「うん。ありがとう。だいぶ良くなった……」
シェナの話すものを含めてたくさんの知らない言語を
聞き取れていたから、そんな気もしていたけれど、ボクの
話すことも問題なくシェナに通じている。
「ごめんね、顔を上げられなくて。ちゃんとお礼、
言えなくて」
シェナの方に目を向けられない。
彼女が身につけているのは、白と薄い桃色の縞々模様が入った、小さなショーツだけだった。パンツ一丁だ。
目のやり場にすごく困ってしまう。けれど、彼女が
あまりにも堂々としているから、大げさに目をそらす方が
かえって失礼な気もする。
金髪の女の人も半裸で、それを気にしている様子は
なかったので、ここではそれが普通なのかもしれない。
「いいの、無理しちゃ駄目。さっきまでホトケサンだった
んだからね、ニノマエは」
「ありがとう。……ホトケサン?」
「えっとね、古代エルフォ語とかいう言葉で、死体って
意味なんだって」
「へえぇ」
シェナは小さな手で休みなくボクの体をさすってくれる
ので、せめてちゃんと目を合わせてお礼を言いたい。
でも、そうすると余計な物まで視界の下端に入ってきそうに
なって、結局、無理矢理うつむいてモゴモゴ言うしか
できない。「顔を上げてしまうと眩暈と吐き気に襲われる
から」と、言い訳をしながら。
金髪の人は、シェナがたぶん即興で歌っている「ふきふきのうた」の向こうで会話を続けている。
『意地を張っていないで、ファルーンギルドショップで
買えば良いのに』
「きつい冗談」
『あんたの冗談よりマシでしょ』
「アタシはいつでも本気だぜ」
『たちが悪すぎるっての。……まあ、うちじゃ手が出せない
か、物理的にも金銭的にも。で、入港手続きは本当に
そのままで良い?』
「おう。タブレット以外に、何か買っておく物は?」
『とくに無い。あんまり無駄づかいしないでよ。アプニアの
臨時収入があるからって』
「ああ、それは無くなった」
『は?』
アプニア。その意味が死体だってことはもう分かっている
けれど、念のため、自分の白すぎる胸を見下ろしながら
隣のシェナに尋ねる。
「アプニアって、死体……ホトケサンのことなんだよね?」
「うん、そうだよ。シェナもよく知らないけど、こっちの
ホトケサンのことはそう呼ぶんだって」
こっちということは、あっちもある、ということなんだろうか。
「そうなんだ。……ごめんね、まだ頭が混乱していて、
いろんなこと、当たり前のことも、全然わからなくて」
「ごめんなことは、何もないよ。ニノマエは、記憶そーしつ
なんだよね?」
「う、うん……」
思い出せたのは名前のようなものの半分くらいのもの。
(まさか自分が記憶喪失になるなんて)
なってみると意外とすんなり受け入れられるもので、それは、
記憶が虫食い状態というより、虫食い穴くらいにしか記憶が
残っていないからなのかもしれない。
「どのくらいの記憶そーしつなんだろう。言葉はすらすら
話せてるけど」
「うーん……名前もようやく半分だけ思い出せたくらい、
かなぁ」
その名前も本当かどうかは分からない。思い出そうとして
頭の中に浮かんだ文字をどうにか読んでみただけ。そう
ぎこちなく伝えた。
「そっかぁ。あっ、もしかして、頭を叩いたりしたら
治らないかな」
「また吐いちゃうと思う……」
「そっかぁ」
シェナの手が頭にのぼってくる。
(えっ、あれ、この流れで叩かれるの?)
身構えていたら、首のうしろに溜まっていた布を頭に被せ
られて、優しく髪を拭かれる。うらめしかった重たい
髪がみるみるほどけて、冷たい空気が頭皮を伝う。
気持ち良くて、うっとりと目を閉じてしまう。
懐かしい気持ち。こんな風に、誰かに髪を拭いてもらったことがある気がする。
「はやく記憶が戻ってきたら良いね、ニノマエ」
「うん」
「もしも戻らなかったら、シェナのペットになれば
良いからね」
「うん。……えっ?」
さらっと、とんでもないことを言われたような……? 人
なつっこい幼い声で言われたものだから、何も考えずに
返事をしてしまったけれど。
「ええっと、あの、ペットって聞こえたような……」
ボクがシェナに聞きただそうとしたところへ、蛇腹椅子の
向こうから金髪の人が顔を出した。
「ニノマエ。なあ、ニノマエ」
彼女が手を置いている管の奥で、誰かの声が騒いでいる。
けれど、あまり耳に入ってこない。
「こっちに来れるか?」
どうしても、ツンとした口元に目がいってしまう。彼女の
中では、キ……あれは言葉通りの「応急手当」として処理
されているんだろうか。
だったら、気にしなくて良いに違いない。すんなりそう
できるか分からないけれど。
「は、はい。……んぐっ!?」
立ち上がろうとしたら、体のあちこちで関節が軋んだ。
手足が言うことを聞いてくれない。
「ゆっくりだよ」
シェナがうしろからボクの脇に腕を通してくる。少し
前かがみに支えられて、脚に力を込めやすくなる。
ほとんど吊り上げられるような形になったものの、
どうにか立ち上がることが出来た。
金髪の人はボクが倒れるようなことがないことを青い瞳で
確認して、管を軽く叩く。
「話せるか?」
「はい」
シェナが体を密着させながら横にまわりこんできた。その
肩に支えられながら、体の前で重なる布の端を摘みなおし、よろよろと椅子の方へ向かう。
脚が上がらない。重たいとかじゃなくて、力が入らない。つま先が床を引きずる。
たった数歩先まで歩くだけなのに、かなりの時間が
かかりそうだ。
金属の管はずっと元気に叫んでいた。
『アプニアが生き返るとか、冗談もたいがいにしなさいよ。
赤字よ赤字。赤字って分かる? 数字が赤いのよ。何の
赤か分かる? 私の血の涙よ! どうすんのよ、このまま
じゃ本当に部費がやばいのよ!? 部費って分かる?
命綱よ! 何の命綱か……』
管の口はラッパ状に開いて、細く丸みのある高彫りの
模様がいくつも入っていて、金属の花細工を思わせる。
そこからキンキンと飛び出してくる割れた声は、近くで
聞くと妙に生々しい。
「……」
金髪の人と無言で見つめ合う。視線だけで、管の口、
たぶん送話口に向かって話せとうながしてきた。
おそるおそる管に手を添える。なめらかな光沢のわりに
少しガサついた金属の表面が、ブルブル震えている。管の
向こうにいる人の怒りが手のひらに伝わってくる。
「……ええと」
何を話せば良いんだろう。
視線で助けを求めると、
「何でも良いから、まあ、とりあえず話してやって」
小声で軽く答えられた。
どうしよう。ものすごい勢いで怒鳴り声を吐き出してくる
送話口に話しかけたところで、向かい風に薄っぺらな
草きれを一枚投げつけるようなものじゃないだろうか。
小脇でシェナが身じろぎした。
このまま突っ立っていても、せっかく支えてくれているこの子に申し訳ない。送話口に顔を近づけて、とりあえず
話しかけてみる。
「もしもし」
『はいっ!!?』
「ひっ……」
怒鳴り声がこっちを向いた。どうやら声は届いた
みたいだ。
ボクの情けない悲鳴の方は、どうか届いていませんように。
気を取り直して話しかける。
「あのう、もしもし」
『えっ……誰、あなた。ケケ? 戻ってきたの?』
「えっ……」
予想外の名前だ。頭の中が乱れて足踏みしてしまう。……
たしか、外で作業をしているらしい人がそう呼ばれて
いたっけ。
「いえ。に、にのまえです」
『ニノマエ? はあ? いったい何を言っているの。何、
何なの、何よ。ニレ、あなたまた何か変ないたずらを
してんの!?』
戸惑いがちだった声が、勢いを取り戻していく。
ニレって誰だろう。何となく分かる気はするけれど。
と、金髪の人がボクの手ごと管を握った。頬っぺた同士がくっつくくらいこちらにぐっと寄って、送話口に向かって
口を開く。
「アタシは何もしてねェよ。黙って聞いときな」
手の位置はそのままに、ニレさんの顔が離れた。
たぶん彼女はそういうつもりじゃないんだろうけれど、
手の甲を包み込む大きな手袋の感触に、少し勇気づけられる。
黙る様子のない送話口に、もう一度話しかける。
「もしもし」
『だから何よ!』
べつに送話口の向きが変わったわけでもないのに、声が
こちらに噛み付いてくるのが分かるのは、どうしてだろう。
「にのまえです。ええと、あの……ホトケサンです」
いけない。アプニアって答えるべきだったかも。
『ホトケサン? 何それ!』
「アプニアのことだよー」
シェナが伸び上がって助け舟を出してくれた。
『ああ、シェナ、あんたも近くにいるのね。ねえ、
アプニアが生き返ったって本当? 嘘よね?』
「本当だよ。シェナが膝の上でごろごろしていたら、
瞬きして、魚をげろげろって吐いて、生き返った」
臨場感たっぷりにシェナが答えた。
『そんな……。って、アプニアの膝の上で何をやってんの。
ほぼ人の死体よ!?』
「あははは。ニレと同じこと言っているー」
「アタシは言ってねー」
背もたれに預けた頭をゴロンとあさっての方に向けて、
ニレさんは不満そうに否定した。
(言っていたと思う……)
送話口の向こうの声は、少し落ち着きを取り戻していた。
『……え、本当なの。本当に生き返ったの? みんなで私を
だましているとかじゃなくて?』
「はい。アプニアです。さっきまで、たぶん、死んで
いました。水の底で、その……」
少しだけ言いよどんでしまう。誰かの名前を声に出して
呼ぶのが気恥ずかしい。
「ここの、ニレさんとシェナ……さんに、拾ってもらい
ました」
■キティバット族
トレーデン大陸の荒野に暮らす部族のひとつ。
人族、獣人族、魔獣族の混血種が多い。
歌と踊りと平和を愛し、大らかで人懐こいが、
中には他種族に対し異様に敵対的なものもいる。
彼らはいくつになっても若々しい姿を保っている。
その秘訣は彼らの《恋の踊り》にあるという噂が、
近隣諸国の女性たちの間で囁かれている。
昔、ある国の軍隊がキティバット族の少年少女を
さらって見世物にしようとしたが、兵士たちは
一夜にして何万日分も年をとってしまった。