瞬眠(ツグテアマタヒメの夢工房)
「それジャでアはイはクじゼめさせていただきます」
(……え?)
椅子の人の声を、別の声が上書きした。
と、次には視界の中心に黒い点が現れた。
(な、なにこれ?)
黒い点の周りがぐにゃりと歪む。しだいに、黒い点に
向かって、部屋の景色が、排水溝の栓が抜けたように吸い込
まれていく。どんどん加速していく。
ボクの胸ぐらが見えない力に引っ張られた。お尻が床から
浮き上がる。
(転ぶ!)
と思ったら、宙でうつ伏せになって固まった。辺りが
真っ暗になっている。何も見えない。
「……あなたの名前は?」
「分かりません」
「性別は?」
「分かりません」
「年齢は?」
「分かりません」
下の方から声が聞こえる。
(男の人と女の人の声……うわっ?)
ストンッ
今度は下に引っ張られ、ぱっと視界がひらけて、ボクは
椅子に腰掛けていた。
仮眠明けのように意識が澄んでいる。悪く言うなら、
頭が空っぽ。
(……何か夢を見ていたような)
向かいには重厚な木製机。その奥に、
「ふむ、3人目で当たりとはありがたい。強制瞬眠の
副作用でなければ……」
黒い外套に身を包んだ女の子。背もたれが猫の耳みたいに
なった椅子に座って、黒い手袋の指先を口に添え、ブツブツ
呟いている。
(あ、手袋じゃない)
外套から伸びた布が手のように見えているだけだ。
女の子の白い手は紫色の羽根ペンを握って、机の上の
書類に何かを書き込んでいる。
彼女の身長の何倍もある黒髪のツインテールが逆立って、
天井を舐めるようにゆらゆらうねっている。
(海藻みたい。ここって水の中……?)
じゃ、無い。呼吸は普通にできるし、体も服も濡れて
いない。
部屋には窓が無い。
(ううん、壁が無いんだ)
いや、そもそもここは部屋じゃなくて、夜の砂漠のオアシスだ。
(違う、違う。壁も窓もあるし、森の中の部屋だ?)
何が何だか分からない部屋。木の息づかいが聞こえそうな
くらいメルヘンな部屋と、オアシスっぽい風景が重なり
合って蜃気楼みたいに揺れている。
ボクの服装もおかしなことになっている。上が学ラン、
下がスカート。
(なに、このちぐはぐな格好)
彼氏の学ランを借りたか、彼女のスカートを強奪した
ような。
学ランの胸のところに、長方形の名札プレートが
付いている。書かれているのは番号がひとつだけ。
『3』。
「あなたの大紋章か小紋章は分かりますか?」
また女の子からの質問。男の人の声がだぶって聞こえる。
紋章……?
「……3?」
「あ、いえ、それではありません。ふむ、よろしい。
では、ガジェトロニクスクラスタは?」
トロ?
「食べたいです」
「たぶんお腹を壊しますよ。LNコードは?」
「分かりません」
「ほほう」
女の子が細い眉を小さく上げる。
「それでは、何でも良いので魔法は使えますか?」
「使えませんけど……」
魔法って。真顔で何て冗談を言うんだろう。
「なるほど、なるほど」
まるで試験の面接か、健康診断の問診を受けている
気分だ。面接だったら……たぶん、惨敗だねぇ。
女の子の視線が書類に戻った。
彼女の外套の黒い腕が何本も部屋中に伸びて、本を本棚に
戻したり、螺旋状に溝が走る三角錐の前でメモをとったり、
天井から吊り下がった楕円の水槽にきらきら光る粉を
入れたりしている。
(忙しそう。何をしているのかは全然分からないけど)
声をかけるのは悪い気がする。
でも、黙っているわけにもいかない。
「あの、すみません」
「何でしょう」
「ここはどこなの……どこなんですか?」
そう言って、はっと大事なことを思い出す。
ボクは今、大木の腕に襲われている最中だ。
(……じゃあ、今こうやって椅子に座っている時間は
何なんだろう?)
女の子のペンが止まる。
「申し訳ありません。旧約によりそれは答えられないことに
なっています」
こちらを向いて言ったその表情は、ほとんど変わらない。
肌がおどろおどろしいほど青白くて、分度器を逆さまに
したような目の下に、ぶっといクマがくっきりと現れて
いる。徹夜何日目なんだろう。
「ですがご安心ください。あなたがこの先どのような
運命を選ぶことになろうと、この場所での出来事を
思い出すことは無いでしょう」
このパントリエはそういう場所ですから。そんなことを
さらっと言って、書類にペンを走らせる。
ぜんぜん意味が分からないし、安心できない。
「えーっと……」
「まあ、夢の中とでも思っていただいて結構です」
「へえぇ」
なんだ。夢なんだ。夢を見ているんだ。どおりで普通に
話したり動けたりするわけだ。
だったら早く目を覚まさそう。もうあの部屋ごと
ペシャンコになっているかもしれないけれ……
ボンッ!
「!?」
小さな爆発が起きた。
レンガ造りのキッチンで、三角フラスコが青い煙を
もくもく吐き出している。その隣で、フライパンの柄を
つけたポットのような物が、煮えたぎった音をぐつぐつ
立てている。
騒がしくてせわしない。
(邪魔になっているような気がする。いたたまれない……)
大掃除なんかで皆が役割をどんどん見つけていく中、
取り残されていくような気分。両手の指を合わせて、
もじもじしてしまう。
女の子が顔を上げた。
「よかったですね」
「え?」
何が? ボクがきょとんとしていると、女の子が静かに
ペンを置く。
「トレーデン大陸にはインテロバング座があります。
森妖精の完月週の宴をとり入れた、バレルウォール式
舞台で有名な劇場です」
「そ、そうですか」
「お金と移動手段の都合がつくようでしたら、1度は
夜の公演をご覧になることをおすすめしますよ」
私は吐き気しか感じませんでしたが、と女の子は付け
加えて、外套の腕からティーカップを受け取った。完成した
らしい書類を別の外套の腕に摘ませて、無表情にチェック
する。
(トレーデン?)
そんな名前の大陸、聞いたことがない。ユーラシアとか
パンゲアとか、アメイジアとかならあるけれど。
……というか、女の子の外套から当たり前のように
布製の腕がにょきにょき生えてくるのは、どういう仕組み
なんだろう。頭の中に「?」がぽんぽん浮かんでくる。
いや、そんなことよりも。
「あの、ボク、そろそろあの部屋に戻らないと……」
椅子から立ち上がって出口を探す。けれど、扉らしいもの
が見当たらない。
これじゃあ出られない。
(あっ、そうか)
夢なら目を覚ませば良いんだ。夢から覚める方法といえば、
うん、頬っぺたつまみだ。
(……でも)
戻ったからって何ができるんだろう。水中のあの部屋では
声を出せないし、目以外どこも動かせない。ただお荷物が
一つ増えるだけなのでは。
「もうお帰りになられますか」
「え?」
「では、その前にこれを」
外套の腕が、1本するする伸びてくる。何かくれるのかと
思ったら、そのままボクの胸の中にずぶりと潜り込んできた。
え……?
「えぇっ!?」
「たいしたことではありません。ささやかな歓迎です」
「いえいえ、いやいや。歓迎って、これ、死んじゃうん
じゃ……えぇーっ!?」
夢だと分かっているけれど、衝撃的すぎる。胸の中心に
刺さった腕を、なすすべなく見守ることしかできない。
「ええっ、え……ええぇー……何これぇ」
痛みは全くない。でも、内臓をグリュングリュンかき混ぜ
られたり、内側から肋骨や背骨をゴリゴリ撫でられたりする
感触が、生々しすぎて気持ち悪いったらない。味噌をほじら
れる蟹の気持ちはこんな感じなのかもしれない。
部屋中にフラスコの青い煙が充満して、焼いた川魚と
熟れたキウイを混ぜたような匂いがする。
たしか、夢の中では五感がほぼ役立たずになるはずだけれど。
……これ、もしや夢じゃないのでは?
「無理もありません。私もたまに分からなくなりますよ。
自分がいま夢を見ているのか、夢の合間に起きているのか」
「そういう詩的な話をしているわけじゃなくて……」
ズポンッ
「ひゃうんっ?」
黒い布腕が引っこ抜かれた。
「うあぁ……あれ?」
胸の中がすっきりしている。つかえが取れたみたいだ。
撫でてみると、小さな傷ひとつ残っていないし、服もどこも
破れていない。
女の子が何事もなかったように言う。
「この世界では、よくあるのですよ。軌道から外れた
彗星のように、外の世界から物や人がやってくることが」
人なら決まって地上に落ちるので、ボクのようなケースは
珍しい……らしい。
「えっと、話がよく分からないんですけど」
ひとつも分からないんですけれど。
「それでよろしい。今は、もしくは、永遠に」
「……?」
外套から生えた黒い腕の数が、爆発的に増える。ボクの
前でギュルギュルと絡まりあい、そして繭の形になった。
ちょうど人を1人、『気をつけ』で詰め込めそうな
大きさだ。
「ただ、何もせずにここを出て行けば、あなたはすぐに
死んでしまうでしょう」
「はい?」
何ですって?
「この部屋に来る前、思うように体を動かせなかったのでは
ありませんか?」
「……はい」
やはりそうですか、と女の子と男の人のだぶった声。
女の子の姿はぐるぐるの黒繭の向こうにすっかり隠れて
しまっている。
椅子の軋む音がした。
「本当は目を覚ますことさえなかったはずなのですよ。
あれはそういう状態であったのですから」
「あれ?」
「アプニアです」
また《アプニア》だ。
「アプニアって、死体のことなんだよね……ですよね?」
「たしかに死体にたいへん近いのですが。アプニアとは、
極めて人に近く作られた、言ってしまえば人形です。
材料は布や綿ではなく、主に人工の肉や骨に、皮膚ですが。
あなたはどういうわけか、その中で目を覚ましたのです」
それって。
「ボクがアプニアという人形になったってこと……
ですか?」
それか、人形に心が芽生えたとか?
どちらにしても、そんなおとぎ話みたいなこと、信じるのも
実感するのも難しいけれど。
「なったと言えばそうなのですが」
女の子が繭の横にやってきた。歩いてじゃなくて、床から
少し浮かんで、ふよふよと。
さすが夢の中。人が浮かぶのなんて朝飯前だ。
「アプニアという人形に入った、という方が分かりやすい
かもしれません。
何かのきっかけで体を抜け出したあなたの魂……ここでの
魂は思い出や心がぎゅっと詰まった物質のことを言います
……が、流れ流れてこの世界のアプニアの中に入って
しまったのです。そして……」
いったん、カップの中の飲み物を口に含む女の子。
「失礼。そして、そこで奇妙なことが起きたのですが……」
「どんなこと、ですか?」
「たとえば正常なアプニアの中に魂が入ると、その魂の
持ち主本来のものと、同じ姿に変化します。そして、魂の
思いのままに動かすことができる……つまりその人
そのものとなるのです」
「それは奇妙ですね」
ここにおいては普通です、と女の子。そうですか……。
「奇妙なのは、あなたの魂が入り込んだアプニアは、
完全に壊れていたということです」
「壊れたアプニアに魂が入ると、どうなるんですか?」
魂が入るってことが、そもそも分からないけれど。
「何も起きません。姿が変わることも、動くことも
ありません。それ以前に、壊れたアプニアに魂が入ること
自体、できないはずなのです」
なのにどういうわけか、できてしまった。さらに壊れた
アプニアがボクの形になって、不完全とはいえ動き出して
しまった。
とりあえず、起きるはずのないことが起きてしまったん
だろう。壊れた人形に魂が入って人形の形が変わるってこと
じたい、ボクからしたら起きるはずのないことだけれど。
考えたらお腹が減ってくるのでやめよう。
「奇妙であり、興味深く、哀れでもあります。もしもあなたが
この世界の人として、この世界の輪廻軌道に乗れていた
なら、でなくともせめて正常なアプニアに入れていたら
と思うと……。なので、あなたの魂に少しいたずらを
させていただきました。歓迎とはそのことです」
「いたずらって。改造でもされたの……ですか、ボクは」
まさか、胸の中に変な卵でも埋め込まれたのでは。黒い
外套から腕を何本も生やしたこの女の子の姿は、立ち
上がった蜘蛛みたいだし。ウニっぽくも見えるけど。
(うぅ、そう思うと胸の内側が妙にむず痒くなってきた)
……魂っていたずら感覚でいじれるものなの?
「少しきっかけを与えただけです。壊れたアプニアでも
完全に起動させられるように、魂の適合力を一時的に
高めただけ。……まあ、分かりやすければ改造と考えて
いただいて構いません。そして、もうひとつ……」
黒い繭が、はらはらと解けていく。
「あなたが目覚めた場所の都合上、あなたにはもうひとつの
肉体が必要となります」
たくさんの黒い布の腕が女の子の外套へ帰っていく。
そして繭のあった場所には黒髪の裸の人が立っていた。
ちょうど、ボクが立ち上がれば同じ背丈くらいの……
「ボク!」
裸のボクだった。裸のボクだった!
「わあ、だめ、裸!」
「特製のアプニアといったところでしょうか。やれやれ、
夢は人から生まれるものなのに、そのほとんど逆のことを
することになりましたが」
女の子は、裸のボクの横で無表情に話す。
「地上で活動するためのあなたの肉体です。本来は飛ノ灰
分隊の誰かで試す予定でしたが、丁度良いところに
あなたが来てくれました。これが聖定でないことを
祈ります」
「わあー、裸っ。裸ぁー!!」
服を! 早く、ボクに服を着せなくちゃ!
(そうだ、上着だ、学ランだ!)
急いで脱いで、裸のボクに着せる。ボタンもしっかりとめる。
(丈が長くて助かったぁ。これでぜんぶ隠せるね。
……って、あれ?)
目の前のボクの体、男と女、どっちだったっけ。体の特徴
は、ちらっと、しっかり見ていたはずなのに、思い出せない。
ボクの、男女を見分ける機能だけが無理やり停止された
みたいだ。
そしてボク本人はセーラー服姿になっていた。夏服だ。
学ランの下に、セーラー服を着ていたなんて。寝ぼけて
着替えてもこんなことにはならないはず。
「それでは、どうぞお帰りください」
「え?」
足元から、風がふわりと立ち上がる。
「えっ!?」
床が消えた。
代わりに現れる、真っ暗な大穴。
「えぇーっ!?」
深いなんてものじゃない。底が見えない。
フワッ……
あ、落ちる。
(真っ暗闇の穴の中を、いつ来るかも分からない
地面との衝突に怯えながら落ちていく……)
想像するなりぞっとする。目の前のボクにしがみついて、
かたく目を閉じる。
不思議な浮遊感が終わった。お腹の底に、重力が鉤爪のように引っかかる。
(や、やだ、こんな目の覚めかた、いやだ!)
そこへ、ひとすじの風が足にしゅるりと巻きついてきた。
続いて、冷たい風、温かい風、湿った風、乾いた風、
いろんな風が体をのぼってくる。
あっという間に、激しく尾を引く風音に包まれてしまった。
「わぁあぁあぁあぁ……」
髪がめちゃくちゃに乱れて、上下左右がぐるぐると変わって
いく。まるで嵐の手に握られてしまったみたいだ。落ちて
いるのか浮かんでいるのか分からない。
「夢遊の空へようこそ、魔法を忘れた世界からの
パラソムニア」
激流になった風に寄り添って、だぶった声が聞こえた。
「お代はしっかりといただきましたよ。こちらも慈善事業
じゃ、ありませんので」
無表情な声なのに、意地悪に笑っているのが見える気が
する。
「これからは、得体の知れない物に餌を恵むような真似は
控えることですな。そして、得体の知れない質問に
馬鹿正直に答えるような真似もおよしなさい。
相手が十字路の悪魔でないとも限らないのですから」
体が四方八方へ引き伸ばされていく。
一緒に意識もぐんにゃりと薄くなっていく。
もう1人のボクのことも感じられなくなって、ついには
完全に風の音に溶けてしまった。
(さてはこいつ、ラスボスだな)