二度寝したら鉄の眼底
「あーあー、ちくしょう、まずいかなぁこれは」
声が聞こえた。
……体が動かない。違う。目以外、動かない。
(どのくらい眠っていたんだろう。ここ、どこ?)
薄暗い部屋……かな?
ボクは今、壁にもたれて座っているらしい。
背中には硬い感触、たぶん壁。どうやら金属製で、おまけ
に床も同じで、お尻と背中がちょっと痛い。
(うーん、おかしな部屋)
狭くて、その上ごちゃごちゃしている。
アンティーク……というよりただボロっちいだけの木の箱
や、壁と一体化した収納扉のようなものが見える。他にも、
何に使うか分からない、雑貨とも言えないような小物がたく
さん。
不思議な匂いもする。初めてお邪魔した友だちの家なんて
ものじゃない。
正面の壁はほぼ一面まるごと、大きな半球状の窓になって
いる。その手前と横壁に、たくさんの、針が回るタイプの計
器のようなもの。やっぱりごちゃごちゃと並んでいる。
(そして計器に囲まれて、大きな……)
背もたれつきの無骨な椅子がひとつ。床から生えたそれ
は、窓の方を向いている。脚はアコーディオンみたいな極太
の蛇腹で、回すことも移動させることもできそうにない。
あんなものがあるなんて、ここは生活するための部屋って
感じじゃ無い。
まるで不器用な戦争の時代しか知らない人の、蒸した鉄茶
色の空想から抜け出してきた操縦室だ。器用な戦争なんても
の、あるのか知らないけれど……。
「速度がどんどん落ちてるんだけど!
大釜がやられたか!?」
椅子に座っている誰かが叫んだ。計器をいじる分厚い手袋
以外は、背もたれに隠れて見えない。
からっと晴れた空のような声の、たぶん女の人だ。聞き覚
えがある。
(あっ。さっきの、背が高い方の人かな)
『釜の蓋の、たぶれっと? が、いよいよ駄目だってー』
どこからか、幼い声。傷だらけの金属の管を通っているみ
たいに、キンキン割れて聞こえる。
でも、声の主は見あたらない。
「予備はどうなってる!」
『あの、ごめんなさい。全部割れました!
新品だったのに……』
また別の声。これも割れていて、今にも泣き出しそう。こ
の声の主も、ここにはいないみたい。
「まじか。ちくしょう、失敗品を掴ませやがったな、
魔購のおばちゃん」
窓の外が、この部屋よりほんの少し明るい。白みがかった
青緑色をしている。
水の中……その深いところに、この部屋はあるみたいだ。
(見ているだけで胸の中が重たい。苦しい)
水の底でずっと眠っているのも悪くないと思っていたはず
なのに、ボクはもう、その気持ちを思い出せなかった。
窓明かりは、部屋を不自由なく明るくしてはくれない。た
だ静かに「陸の生き物がここで生きているべきでは無いんだ
よ」って、語りかけてくるようだ。
(でも知らなかった。水の底ってそこそこ明るいんだね)
たまに、大きな岩の柱が窓の外を横切る。捨てられて立つ
墓標のようで寒々しい。
この部屋は移動している。少なくとも、足で走るよりは速く。
そして正面の窓は、どういう仕組みなのか、この部屋が進
んでいる以外の方向も映していた。
(……えっ?)
遠くに、葉っぱの落ちきった木のような物が見える。
(何、あれ……)
なんて大きさなんだろう。この部屋からかなり離れたとこ
ろにあるのに、見上げなくちゃいけないほどだ(首が動かな
いので無理だけれど)。
それは、濁っているとも澄んでいるとも言えない水の向こ
うで、黒くにじんで佇んでいた。
(溺れている何かが、水面を求めてたくさんの腕を伸ばし
て、そのまま凍りついてしまったみたい)
この世を恨む芸術家が作った彫刻のような、不気味な静けさ。
よく見ると、枝のような部分がかすかに揺れている。
太すぎる幹に、大きな丸い目玉がひとつ付いている。
ぶよぶよと濁った瞳が、じっとこちらを見つめている。
「ケケさんよォ、どうにかならんかね」
『無理です。耐水コートの効率も、がた落ちしています。
今の調子だと魔力供給量を20倍に上げないと駄目です。
あと、ケケって呼ぶの止めてください。
激しく不快です』
また新しい声。なんだか不機嫌な子猫みたい。
部屋を飛び交う声には、色々な種類の言語が混ざっている。
(外国の言葉なのかな……)
聞いたことがあるのなんて英語くらいだけれど、
どれもそれとは違う。なのに、その会話の内容が何となく
理解できてしまう。
もしかして、ボクに秘められた翻訳の才能が開花したんだ
ろうか。……今さら?
「友情とか絆とかの力で20倍いける? いけ!」
『無理ですってば! 逃げ切る前に全員干物になります。
だいたい、出会って10日程度の絆で何ができるって
いうんですか!』
「ちくしょうめ! って、やばいやばいやばい。
やめろよ、あのおばけ目玉ぁ!」
椅子の人の動きが忙しくなった。
窓の外では目玉つきの大木が、枝を一本ゆらりと大きく
振っている。こちらを狙っている。
(枝に見える部分、あれってきっと、ぜんぶ腕なんだ……)
大木の腕の動きはゆったりとしている。と言っても、
ボクの全身(どのくらいか分からないけれど)を縦に20個
繋いでも足りないような大きな物のゆっくりだ。
この部屋にとって、いったいどのくらいの速さになるん
だろう。
「来るぞ! 回避は無理そう。反物質シールド頑張ってぇ!」
椅子の人が叫んだ。
『見えています、やっています! 反物質シールドじゃ
ありません、右側線物理障壁あと数回……
ごめんなさい、一回は耐えられます。できれば避けて
ください!』
「やってみてるけども、ぜったい無理だからな!
舵の手ごたえがもう空っぽスカスカだ。ヤロウども、
最悪の衝撃に備えておけ!」
その声を合図に、他の声が一斉に止んだ。ぴんと
張りつめた無音が、部屋に膨らんでいく。
(こういう沈黙って苦手。お腹が痛くなってくる……)
窓の中心に大木を捉えたまま、部屋は進む。
大木の目玉もこちらをずっと見つめてくる。
もう息が詰まりそう。
(あれ、息……?)
水から出ても、ボクは呼吸をしていない。窓の景色を
見て息苦しいとか思っていたくせに。じゃあ、やっぱり、
死んでいるってことなのか。
フッ、と、部屋の窓が瞬きをした。
(違う。大きな物が上を横切ったんだ)
窓の上辺に、大きすぎる黒い塊が見えた。
大木の腕だ。こちらに覆いかぶさるように落ちてくる。
ぶつかる。危ない。
叫べない。動けない。
そんな暇なんてない。今のボクは何もできない。
ぶつかる。
その直前、
ガシャンッ
薄い氷が何十枚も砕け散るような音が鳴って、
見えない何かが、巨大な塊を受け止めていた。
窓から数メートルも無い場所で、白い光が膜を這うように
一瞬でひろがる。
聞いたばかりの『ナントカ物理障壁』が頭に浮かぶ。その
意味をしっかり考える暇は無かった。
光の爆弾が弾けた。照らすどころか、部屋じゅうの色を
すべて、眩しい白に吹き飛ばす。
目をぎゅっと閉じる。
ズン、と、脳天が沈み込むような重たい衝撃。
部屋が縦横に揺れる。
体の中の色んな物がひっくり返る。お腹の中が別の生き物
みたいにうねっている。吐きそう。
『ひゃあっ!?』
『ふんに゛ゃあ!!』
『きゃあッ。反物質……じゃない、側線物理障壁、
耐久限界!』
いろんな声が叫んでいる。
まぶたが緩んで、部屋の激しい明滅が見えた。椅子の根元が
揺れている。
(あの蛇腹、衝撃をやわらげているのかな)
あんまり効果は無さそうだけれど。
「んがっ!」
椅子の人がかじり付くように呻いて、次には窓に映る
大木に向かって吠える。
「良いなあ、胃を捻るようなこの痛み! 何百倍にして
お返ししてやりたいところだぜ、目玉野郎め!」
『あなた、またスキン切ってるの!?』
声がまた増えた。肉声に近くて、けれど一番ガサついて
聞き取りづらい。声の主はもちろん見当たらない。
椅子の人が振り払うように叫ぶ。
「邪魔なんだよ、あれ。食べ物も痛みも生が一番だろ!」
『生麦生ハム生魚ー!』
『お刺身苦手です。どうするんですか、次が来たら
ペチャンコですよ!』
『えっ、生麦? お刺身? ああもう、同時通信できる
ようにしたの失敗だったかなあ!』
衝撃と明滅が落ち着く。部屋が元の暗さに戻った。
椅子の蛇腹が、衝撃の余韻で軋みを上げている。その音が
キィキィと悲痛で、効果が無いなんて思ったのが申し訳なく
なる。
青緑色の弱々しい窓明かりが、部屋の中にある色んな物の
入り組んだ輪郭を浮かび上がらせている。円や四角の形を
した計器の画面の発光が、小さなステンドグラスみたいだ。
(逆光の写真みたいで、ちょっと良い感じかも)
そんな場合じゃないのに、見とれてしまう。
『もう良いでしょ。こっちから接続切る! LNコード
ちょうだい!』
ガサついた声が何か言った。
LNコード……? 知らない言葉ばっかり出てくる。
『賛成。中途覚醒して帰りましょう。これ以上は命の
無駄です』
『えー! やだやだ、持って帰りたい。ホトケサン
絶対ほしいー!』
めまぐるしい会話。
頭が混乱しそう。ずっと前からしているのかも。
「シェナに賛成だ。アプニア積んでリタイアなんか
できるか! こうなったらイチかバチかだ。玉砕覚悟で
あの目玉をぶっ叩くぞ。面舵いっぱい! シールド解除
して水帆全開!」
椅子の人がてきぱきと号令をかけながら、分厚い手袋で
計器をいじり回す。叩きつけるように雑で乱暴、それでいて
正確。複雑な操作を素早くこなしている。……ように見える。
(オルガンとかだったら、その辺りは音の繋がり方で
すぐに分かるのに)
ガコォンッ
重く硬い音。椅子の人が手を動かし続けながら、床を
思い切り踏み鳴らした音だ。
椅子の蛇腹の傍に、大きな長靴が見える。
(分厚いヒール。鉄で出来ているのかな)
金属質な大小の管がびっしり這っている低い天井から、
何かが勢いよく落ちてきた。
三角型の持ち手が付いた、二本のつり革だ。
椅子の両肩に届かないあたりで、バンジージャンプ
みたいにビヨンと跳ねる。
「よっし」
椅子の人が、ばらばらに暴れるつり革をそれぞれ簡単に
捕まえて、ぐっと引き下ろすようにして立ち上がる。
背もたれの向こうから白い背中が現れた。暗い部屋でも
はっきりと分かる金色の長い髪の毛がふわりときらめく。
どうやらやっぱり女の人だ。もしかしたら、髪が長くて
肩幅の狭い、曲線的な男の人かもしれない。
「…………」
男の人かもしれない女の人が、天井を仰ぐ。
(大きく息を吸っているんだ)
彼女かもしれない彼が、勢いよく身を乗り出す。
「LRGベアードウィップ! ウンディーネ用意!」
『何ですかそれ。巨大魔物戦用の水属性鞭のことですか。
えっ、ウソでしょ、戦うの!?』
本気ですか、馬鹿なんですか。と素っ頓狂に叫ぶ声を、
金髪の女の人が笑い飛ばす。
「馬鹿で結構。砲手のシェナちゃんよ、我が隊の
モットーを、誇り高きロバ耳のケケお嬢様に
教えてやれ!」
『モットー? ってなにー?』
「そうだ、ポテト・アンド・サニーサイドだ!」
『意味が分かりません。お願いですから馬鹿語以外で
話してください!』
「揚げねえ芋はただの芋ってことさぁ!」
『意味が分かりません! ケケって呼ぶのやめてください、
呪いますよ!』
『目玉退治だー』
『ちょっと、ねえ、あんたたち、本当に死ぬ気!?』
目玉退治だ、と言った幼い声がヘンテコな歌を
歌いだした。水の底で聞いた歌声だ。それを背景に、
椅子から立ち上がった裸の背中の人とガサついた声が
わめき合う。
(なんでだろう)
命のかかった状況みたいなのに。かなり危ない状況みたい
なのに。この人たちはどうして楽しそうなんだろう。命を投
げ捨てようとする姿が、どうして命にあふれて見えるんだろ
う。
どうしてボクは、よく分からない水の底の、よく分からな
い部屋の壁に、死んだようにもたれかかることしかできない
んだろう。