星渡るキューポラ
「ニレ、ニレ。ベルト、もう外していい?」
船が上昇から前進に移ると、シェナが焦れったそうに言った。
「また背ビレか?」
「うん」
「デンドラインに乗ったらな。それまでおとなしくしてな」
「了解でござる」
「うむ。ちょくちょく謎の言語が飛び出してくるな……」
……デンドライン?
「モコモコの空の道だよ。それに乗れば、基地まで迷わずに
進めるの」
ボクがまだ疑問を口にしないうちに、カンナさんが教えて
くれた。美人で察しが良いなんて、何だかずるい。
……モコモコ?
「モコモコっていったい……」
「ねえねえ、トナぁ」
シェナの声がボクを呼ぶ。
「トナも行こー」
「行くって、どこへ?」
「上だよー」
この部屋に上があるの? と、尋ねようとしたら、外の
景色が変わった。
夜明け空と、その向こうに現れた桃色の水平線。
船がみるみる近づくと、それは雲の海原だった。
「これよりデンドラインに乗る。揺れるぞー、
口を閉じて歯ぁ食いしばってヒッヒッフーだ」
「変な情報まぜるのやめてください。こっちはまだ慣れて
ないんですよ」
「はいよー。頑張れケケちゃんヒッヒッフーだ!」
「大事な情報を削らないでください。そして私は
ラーベラあぁ゛ーーーーーあぁ゛ーーーー
ああぁ゛ーーーーーーーーーーーーーー!!」
ケケ……ラーベラちゃんのいきんだ怒鳴り声とともに、
船が高度を下げて、桃色の雲の上に降りる。
勢いそのまま雲の中へ沈み込んで、その反動で浮上。
トランポリンみたいに飛び跳ねてしまうかと思った
そのとき、操縦席のニレさんが立ち上がった。全身を
使って舵輪を回したりレバーを押し引きすると、船は雲の
波にぴったり吸い付いて、何事も無かったようにスルスルと
進んでいく。
「ベルト、外していいぞー」
背もたれの向こうに沈んだニレさんが言い終わらないうち
に、ガチャガチャと金具の外れる音。
シェナが長椅子からピョンと飛び降りて、ボクの前に
やって来る。
「行こ、行こ、トナ」
断られることなんてひとつも考えていない笑顔。
「うん、そうしたいけど。ベルトをまた着けなおせるか
不安かな……」
「大丈夫だよ、トナちゃん。向こうに着くときはいらないから」
と、ベルトをゆっくり外しながら、カンナさん。
ラーベラちゃんはまだ外す気が無いみたいで、表紙が
硬い大判の本を不機嫌そうに読んでいる。
「行こ、行こ」
急かしてくるシェナ。
「うん、それじゃあ行ってみようかな」
苦戦しながらベルトを外したら、すぐにその手を褐色の
手に握られて、ボクは引っ張られるように立ち上がる。
「もうしっかり歩ける、トナ?」
「……うんっ、大丈夫みたい」
足はしっかりと床を踏んで、力を入れてもどこかで抜ける
ことなく、ちゃんとボクの体を支えてくれる。
きっとハンバーガー(仮)を食べたおかげだ。
「素足じゃ危険です。私の靴を使っても良いですよ」
顔を本に向けたまま、ラーベラちゃんは足だけで器用に
靴を脱いで、ぽてんと床に落とした。
(へえー、潜水服と靴って分かれてるんだ)
ニレさんが履いているような、底やつま先が金属になって
いる靴とは違って、ラーベラちゃんのものは柔らかい素材で
出来ている。
「ありがとう、ケケちゃ……」
「ッ!!」
「らっ、ラーベラ、ラーベラちゃん! ありがとう」
「……ふふん」
そっけなくて、ちょっと近寄りがたい雰囲気がある
けれど、親切な人みたいだ。
(でも)
靴を貸してくれるのはありがたいけれど、ボクにはちょっと小さい。
「トナちゃん、私のも貸してあげる。サイズの近い方を
履いてね」
カンナさんが靴を脱いで、きっちり揃えたヒールをボクの
方に向けて床に置いた。カンナさんとボクは、背丈だけじゃ
なくて靴のサイズもどうやら同じくらいだ。
「あ、ありがとう。それじゃあ……」
ありがたく、カンナさんの靴を借りる。……本に隠れて
いるはずのラーベラちゃんの視線が痛い。
「あ、あの、ごめんなさい、ラーベラちゃん。気持ちは、
すごくありがたいから……」
「べつに怒っていません、謝る必要はありません。さっさと
大きな足で靴を履いて行けばいいじゃないですか」
「ほら、ケケちゃんも靴を履こうね」
ラーベラちゃんに靴を履きなおさせるカンナさん。
「ラーベラです。やめてください、自分で履けます」
「うんうん、そうだね。でも、すねてたって良いこと
ないよ、ケケちゃん」
「ラーベラぁ゛ーー!」
ケケちゃんは脚を思いきり振って靴を脱ぎ飛ばした。
ゴインッ、ベチョ
「ふんがッ!?」
壁に当たって跳ね返った靴が、ケケちゃんの顔にビタリと
当たった。
(どうしてカンナさんは頑なに、ケケちゃんのことをケケって
呼ぶんだろう。あ、いけない、ラーベラちゃんだ)
何か理由があるのかもしれないし、ここはボクの価値観
が通じない世界なのかもしれないけれど、名前を間違われる
のはとても嫌なことのはず。
あと少しの付き合いといっても、ケケちゃんのことを
ちゃんとラーベラと呼ぼうと心に決めて、靴のファスナを
上げる。
「トナ、履けた?」
「うん」
「じゃあ、しゅっぱーつ」
気を抜けばそのままストンと落ちてしまいそうなワンピース
の襟穴を押さえながら、シェナに連れられて部屋の外へ。
「こっち、こっち」
扉の向こうは、赤茶色の金属の廊下になっていた。窓が無い。
すれ違うのも大変そうなそこを真っ直ぐ進むと、壁付き梯子があった。
「この上だよ」
飛びついて、数段飛ばしでのぼって行くシェナ。体は
小さいのに、ボクより何倍も力強い。
遅れないようについていく。踏み桟が太いのもある
けれど、握力はまだ少し頼りない。
「ちゃんと、のぼれそう?」
「うん、大丈夫。でも速くは無理みたい」
「じゃあ、ゆっくりいこー」
梯子は、天井を這う金属管たちの隙間みたいな穴へ続いている。
カンッ、カンッ、カンッ
カン……カン……
二人分の音を響かせて、ほとんど真っ暗な中を慎重に
上っていく。
「すとーっぷ。ちょっとお待ちください」
シェナが言って、壁の、赤色に光るボタンを押し込む。ボタンの色が緑に変わって、天井がまるく開いた。
「うんしょ、うんしょ。さあ、トナ、掴まって」
「ありがとう……うんしょ」
先に上がったシェナの手を借りて、梯子の終点によじ登る。
さっきまでいた部屋よりも、もっと小さな空間に出た。
「壁の下の方は出っ張って椅子になってるよ、お気をつけ
ください」
「はぁい」
壁には、腰くらいの高さに、薄紫色の小さな光がぽつぽつ
灯っている。照明と呼べそうなものはそれだけで、かなり
暗い。ドーム状の、部屋……と呼ぶのもためらわれる。
二人で座るだけで窮屈だ。
床を撫でてみる。
(あれ、入ってきた穴が無い。閉じたのかな。
やっぱりここも、金属でできてる。……ん?)
手のひらが、ゴワゴワした布に触れた。
(毛布かな? ちくちくするくらい毛羽立ってる)
……あんまり長くは居られないような場所かも。
「念のためにこれ着けて」
シェナからごついゴーグルを渡された。
着けてみると、かなり重い。きつい革ベルトからは独特な
匂いもする。
「できた?」
「うん、大丈夫」
「りょーかい。……もしもし、こちら背ビレのシェナと
トナだよ。開けてー」
壁際に生えた金属管の口に向かってシェナが言うと、
『あいよ。浮き背ビレ上昇! 足元に気を付けてじっと
していろぉ』
ニレさんの割れた声が返ってきて、
バヒュッ
頭上で、たくさんの空気が一気に動くような音。
さらにビービーと警報が鳴って、それが止むと、
「わっ、わっ……」
部屋全体がゆっくり上がっていく。
床の底からジャラジャラと、鎖の擦れるような音が
聞こえる。
「動かなくなるまで、立ち上がっちゃだめだからね」
「う、うん」
四つん這いになってシェナの言うとおりにしていると、
辺りが明るくなっていく。
見上げれば、暗く重たかった天井に、四角い窓が輪を
描いて並んでいる。
壁と天井の間に隙間ができて、そこからも光が
差し込んできた。
風が吹いて、部屋にこもった空気を冷たく掻きまぜる。
隙間はどんどん大きくなっていく。
「止めてー」
シェナが金属管に声を送ると、すぐに上昇が止まった。
「もう動いて大丈夫だよ、トナ」
「う、うん」
おそるおそる立ち上がってみる。
強い光が目に飛び込んできた。分厚いレンズの中で咄嗟に
まぶたを閉じて、目の奥の痛みが消えるのを待ってから
再び開けてみると、
「わぁ……」
窓越しじゃない、見渡す限りの雲の海原が広がっている。
ドーム状の窮屈な部屋は、屋根付きの小さな見張り台に
なっていた。
ニレさんの声がする。
『どうだ、シェナ隊員。もう少し高度を上げるかね?』
「いらないであります。トナは見張り台初心者さんなので、
これ以上はきっとびっくりしてしまうのです」
『おめぇも似たようなもんだろ。風邪をひかないようにー』
「はーい」
そんな会話を聞き流しながら、手すりから少しだけ身を
乗り出す。
狭い甲板のずっと下、流れていく雲の波の中で、たくさんの
小さな光が飛沫のように弾けている。
船の進む方を向けば、冷たい風に顔を洗われて、髪が
後ろに梳かされていく。
見通しの良い空の高くまで、象牙色の雲の筋が
流れるような模様を描いている。
先の方に大小の雲の峰と、さらに先には、何倍も巨大な
積乱雲。
太陽がどこにあるのか分からないけれど、桃色の雲の海の
表面は、ところどころ赤や緑の光で大規模に、まだらに彩られている。
白い鳥の群れが、遠くを飛んでいる。
鮮やかで、静かで、もしかしたらここを天国と呼ぶ人も
いるのかもしれない。
目を閉じて息を吸い込む。生き返って初めての外の
空気だ。
(ああ、透き通って、いい気持ち……)
ゆっくりため息をついたら、ぞくぞくと震えがのぼってくる。
「ヘベシッ! ずびずび……」
汚いクシャミが出た。ここは気持ち良いけれど、かなり
寒い。襟や袖がガバガバだから風が入り放題だ。どんどん
体が冷えていく。
(縞々のパンツを履いておいて良かった……)
鼻の頭もすっかり冷えている。
「トナ、トナ」
シェナがひっついてきた。
「毛布、一緒に使お」
「うん。ありがと」
壁のでっぱりに腰掛けて、大きな毛布に二人いっぺんに
包まる。
「あ、しまった」
シェナが声を上げた。
「飲み物を持ってくるの忘れた」
この前も忘れたんだぁ。と、のん気な笑顔。
「今度ここに来る時は、あったかいもの一緒に飲もうね」
「うん。そうだね……」
これから行くらしい基地で、シェナたちとボクは別れる
ことになるんだけれど。褐色の人懐っこい顔が本当に楽しみ
そうに笑うから、思わず答えてしまった。
「むふふ、言ったね」
「えっ?」
「今のはトナがうちに来るための、有力な言質となります」
「あはは……」
意外と油断できない子だ……。
「ねえねえ、トナ。ほんとに、シェナたちのとこに来ようよ」
「ありがとう」
みんな初対面のボクに親切にしてくれるけれど、シェナは
一際だ。きっと、出会う人みんなを好きになるような、
温かい子なんだろう。
うれしいけれど、ボクには、そんな好意を平気で受け止め
られるほどの自信がない。せいぜい珍しい死体ってだけで、
右も左も分からない土地で器用に生きられる自信もない。
こんなに良くしてもらえると、かなり気後れしてしまう。
日に日にがっかりされて「トナはとんだ期待外れさん
だなぁ」とか退屈そうに言われた日には、落差で死ねる……。
毛布の中でシェナが抱きついてきた。
「んふふー、思った通り。膝枕も気持ちよかったけど、
抱きつき心地もいいなぁ。トナの全身は枕なんだねぇ」
「えぇー?」
「いい夢見られそー……」
二の腕に頬ずりしてくる。抱きしめる力がすごく強い。
(でも枕としてなら、何とかやっていけるかも?)
拾われる前は海藻になろうとか考えていたし。
「シェナは、ここに来るのが好きなの?」
とりあえず話題を遠ざけようと、尋ねてみた。
「……」
「シェナ?」
「……スピー。ムニャムニャ」
「えぇー……」
シェナはあっという間に眠ってしまっていた。手は
しっかり、ボクの服を掴んだままだ。初対面の相手にこんな
無防備な姿を晒すなんて、人懐こいにも程がある。
空の明るさに比べると、ここはまだ薄暗い。だだっ広い
景色の中、冷たい朝の影になって、こうしてくっつき合って
自分以外の体温を感じていると、気持ちがすごく落ち着く。
(こっちも眠ってしまいそう)
とろとろした眠気に、まぶたが重くなっていく……。
『まさか寝てねぇよな二人とも?』
「ひゃいっ!?」
タイミングを見計らったように、金属管からニレさんの声。
ビクッとして背筋が伸びる。
「ね……寝てねぇですよ?」
『なら良し。シェナはー? 起きてるかー?』
「ムニャムニャ」
もうぐっすりだ。
「ええと……寝てます」
『やっぱりか。器用なことしやがるなぁ。
しかし見張り台でゲストより先に寝る奴があるだろうか?
ないだろう。ないよな?』
「あははは……」
やっぱりまずいんだ。
「あ、あの、でも」
『うん? どうした』
「寝顔は、とても可愛いです」
ちょっとよだれが垂れている気がするけれど。
『……』
「……」
『おぅ……』
「はい……」
何が「はい」なのボク。
『基地が近くなったら呼ぶから、悪いけどそのまま
起きといてくれ』
「はい」
『そこの居眠りヤロウを起こすときは、鼻の頭をくすぐるか
胸を360度きっちりねじってやれよ』
この世界の《角度》も、ボクの知っているものと
同じみたい。じゃあ、1時間も60分とかなんだろうか。
こんな風に知ることになるなんて……。
「はい。鼻の穴をコチョコチョ、分かりました」
「鼻の頭な」
それから念のためにゴーグルをつけとけ、とニレさん。
「ときどき風が燃えること、あるからさ」




