ちり紙検査
「これから衛生検査を行います。まず、ポケットの中のハンカチとちり紙を机の上に置いてください。保健係は検査をお願いします。ちょっと先生は教務室に用があるからその間お願いね」佐藤先生は朝礼が終わるとそう言いました。
このクラスの保健係のリーダーの千枝子ちゃんは「はい」としぶしぶ立ち上がりました。
千枝子ちゃんの通っている穴実市立穴実第二小学校では新学期が始まってから毎週水曜日に衛生検査を行うことになっていました。
衛生検査の内容は「つめを切ってきた」とか「朝ごはんを食べてきた」とか「昨日学校から帰ってきて家でうがいをした」とか、養護の先生が毎月ガリ版を切って作る「穴実第二小保健だより」にのっている「今月の目標」によってその月ごとに変わりますが、ハンカチとちり紙をもってきたかと、朝、登校前に家でうんちしてきたかのチェックは毎回必ず重点的に行われていました。
ちり紙を毎回チェックしていたのは「朝、登校前に家で大便をすませてくること」とともに「登校のときはハンカチとちり紙を家から持ってくること」と「穴実第二小のきまり」の一つに入っていたためです。特にちり紙は本当に持ってこないと困ることになります。穴実第二小は古い木造の校舎で、お便所も古い汲み取りの和式だったので、今では当たり前の備え付けのロール状のトイレットペーパーは先生方だけが使う教務室の前の職員便所以外には置いてありませんでした。それでも女子はおしっこをしたあと必ずちり紙を使うので、低学年でもなけれ家からちり紙を学校にきちんと持ってくる習慣が身についていて何ともなかったのですが、問題なのは、そういう習慣がない男子です。
ちり紙の本来の使い方からすれば、答案用紙で鼻をかんでそこらへんに捨てておく子とか服の袖でかむ不潔な子がいたりして、それだけでもちり紙を持ってこないのは困りものでしたが、一番困るのは学校でうんちしたくなった時です。
当然のことですが、うんちを済ませたあとおしりをふくことができないので、忘れた男子は学校のオンナベンジョ(男子は大便所のことをこう呼んでいました)ではうんちできません。
また持ってきていても、穴実第二小のきまりで必ず登校前に家でうんちは済ませてくることになっていたので、うんちするのはなによりも恥ずかしいことでした。しかもお便所自体も暗くて古くて汚かったこともあったので(穴実第二小の校区では当時まだ下水道がなくてほとんどの家が汲み取り式の和式でしたが)もし学校でうんちしたくなっても家までガマンするのは男子にとって当たり前でした。
でも、いくら男子でも毎度家までガマンできるとは限りません。授業中うんちしたくなってもちり紙を持ってくるのを忘れたのでお便所に行けないで座席に座ったままおもらしとか、休み時間までガマンできてお便所に行くことができても、大便所の戸の前でちり紙を忘れたことに気付いてどうしていいか迷っているうちに、その場でおもらしとかいうような「うんこもらし事件」が男子によく起こりました。
また、おもらししなくても、ちり紙の代わりにこっそり靴下やテレビまんがの絵が入ったハンカチでおしりをふいたのを便槽の中に捨てて、汲み取りに来たバキュームカーのホースを詰まらせたとか、おしりを手でぬぐって大便所の壁にこすりつけたとか、そのままパンツをはいて汚してしまったとか、ちり紙を忘れて学校でうんちする男子がいろいろな事件が起こしたので先生方も何回か職員会議で対策を検討しました。
最初は「ちり紙を忘れてうんちしたくなったら先生にもらいに来るように」と先生たちが呼びかけてみたのですが、実際に忘れた子が「先生、紙を下さい」「うんちか?」「はい・・・」というのを聞くと、決まって周りの子が「やぁい、ベンジョ紙もらってこれからオンナベンジョに行くんだろう!」と一斉に冷やかすので、やがて誰ももらわなくなりました。それどころかちり紙をただ持ってきているだけで「お前これからウンコだろう」とからかうのが学校中の男子で流行しました。そんなことがあっために、それからかえってちり紙を持ってくる子は減り、うんちをもらす子や紙の代わりにハンカチや靴下でおしりをふいて便槽に捨てる子が増えてしまいました。
それは先生方のあいだでも問題になって児童便所も校舎全体が水洗化されている隣の穴実小のようにすべてトイレットペーパーを備え付けるという提案が出また、一度それに決まりかけたのですが、予算の関係と「本来ならば健康のためにも用便は朝の登校前に家で済ませるべきだし、児童に家からちり紙をきちんと持ってこさせることも教育」との教頭先生の一言でこれまで通り紙を置かないことになり、代わりに週一度の衛生検査でちり紙を持ってきているかどうか厳しくチェックすることが決まってしまいました。
保健係の千枝子ちゃんは毎週水曜日になるとこの衛生検査のことで朝からユーウツでした。登校中、今日衛生検査があるなと考えただけでお腹の弱い千枝子ちゃんは急にお腹が痛くなり、学校に着くとすぐにお便所に駆け込んだほどです。
といっても、もちろん千枝子ちゃんがその日ハンカチとちり紙を忘れてきたわけではありません。彼女と同じ5班にこの検査のときに一度もちり紙だけ机の上に置いたことのない、けんいち君という男の子がいたからです。
衛生検査の結果は、各回、班ごとに教室のうしろに貼らた大きな表に記されることになっていました。班の全員がすべての検査項目について合格すれば班のところに○が書き込まれて「○班」(まるはん)になるのですが、班の中で一人でも一項目でも抜けがあると共同責任で×が書き込まれる「×班」(ばつはん)になってしまいました。
しかも、この表はただ○×だけで終わりでなくて、○が2つ以上連続すれば3回目以降には○の代わりにごほうびとして銀のシールが貼られ「銀の班」に、銀のシールが2つ以上連続すれば、銀のシールを卒業して金のシールが表に貼られる「金の班」になることになっていました。一学期ももう終わりに近いこともあって、女子は白いちり紙どころか香水入りのちり紙まできちんと折りたたんで持ってくる子がいる一方で男子は灰色のちり紙を丸めてきただけしまいという違いはあるものの、多くの班は「○班」を卒業して「銀の班」になっていきました。それどころか「金の班」さえももう珍しくないのに、千枝子ちゃんの5班はけんいち君のせいで、4月からずっと「×班」のままで、時々、佐藤先生が5班のことを「×班の5班さん」というイヤミな言い方で呼びました。
といっても「×班」たからといって、それ以上の罰則があったわけではありませんが、保健係のリーダーという先生に代わってクラス全体の検査をやらなければならない立場の自分がいる班に、金や銀のシールどころか、まだ一つも○がないというのが千枝子ちゃんはとても恥ずかしかったのです。
でも、千枝子ちゃんはけんいち君が苦手でした。実は、けんいち君の家が魚屋だったのもその理由の一つでした。千枝子ちゃんは幼稚園の年中組のころ魚が原因の激しい食中毒になり二ヶ月間入院したのです。それ以来お腹が弱くなり、何かにつけてお腹をこわすようになりました。そのせいか同じ年頃の女の子とくらべても背が低く、クラスで一番のチビでした。そんなことがあって、魚に関するものは一切苦手でした。
でも、それ以上に千枝子ちゃんが彼が苦手だったのはチェックに行くと必ず意地悪なことや嫌味を言うのです。けんいち君は活発で運動が得意で、遊びでは男子の中心にいつもいるような子でした。でも、女子から見たけんいち君は乱暴者でよく女子をからかったり意地悪する困った子だったのです。
だから、今回こそ、けんいち君のところにちり紙があってほしい、と祈るような気持ちで、千枝子ちゃんはけんいち君の席に行きました。でも、机の上にはハンカチとちり紙は置いてなく、けんいち君は腕を組んでふんぞり返って椅子に座り、そばに来た千枝子ちゃんを無視していました。千枝子ちゃんはそんなけんいち君をイヤだなと思いながら、これも保険係の仕事だと思い切って口を開きました。
「けんいち君!また、ハンカチとちり紙・・・どうしてもってこなかったの?」
けんいち君はやっと千枝子ちゃんを振り向くと
「ゴリブーのせいだよ。ゴリブーがブスだから持ってこなかったんだよ、やーい、ゴリブーのぶ~す、ぶ~す!」
と千枝子ちゃんをはやし立てました。
「ゴリブー」というのは「ゴリラのブス」の略で、以前からけんいち君が千枝子ちゃんに勝手につけていたあだ名です。「ブス」の方は好み人それぞれでたまにそう見る人もいるかもしれないということで自分で納得できないこともないですが、なぜそれに「ゴリラ」がつくのは、あまりにも納得できないので言われるたびに千枝子ちゃんは手洗い場の鏡をついのぞき込んでしまうのですが、いつものおさげの丸い顔に大きい目に丸い鼻が映るだけで、どこが「ゴリラ」なのかわかりませんでした。
けんいち君は、千枝子ちゃん以外にも「おまえはイソワカメだ」とか「おまえはカオゲーだ」という調子で意味不明だけど語感がひどいあだ名を女子に勝手につけてからかういたずらをしていたので、女子には嫌われていたのです。しかも、けんいち君は言い始めるとしばらく一人で盛り上がって「ゴリブー」「ゴリブー」と叫び続けているのがいつものことでした。
しかも「ゴリブー」コールが始まると男子は「あー始まった」という興味本位でににたにたしながら、女子は軽蔑の視線で、一斉に千枝子ちゃんとけんいち君の方を振り返ります。
千枝子ちゃんは、いくら元がけんいち君でもそういうクラスの子たちの視線がいたたまれないので、休み時間ならば「けんいち君! わたしゴリブーじゃないもん!」と、売り言葉に買い言葉で、けんいち君に言い返している千枝子ちゃんでしたが、今の千枝子ちゃんはクラスの保健係の仕事をしているので、そういう言葉をぐっと飲み込みました。
「けんいち君、あなた学校でちり紙が必要にならないの? 鼻をかむとか。」
「なんでベンジョ紙いるの? おれ鼻水なんかめったに出ないし」
「けんいち君はお便所でちり紙使わないの?」
「そうか、ゴリブーはオンナだからオンナベンジョでションベンするとき便所紙必要なんだな。でも、おれオトコだから使わないよ。おれ、いつも立ってするよ。それにオンナはオンナベンジョでションベンするときもいつもケツ出してしゃがんでするんだろう、あー恥ずかしい。」
千枝子ちゃんはけんいち君の言いわけにだんだん腹が立ってきたので、少し恥ずかしかったけど思い切って言いました。
「うんちよ! いくら男の子でも学校のお便所でしゃがんでうんちするでしょう。まさか、ちり紙でふかないで家に帰っているじゃないでしょうね?」
「ゴリブーは学校の便所で学校うんこしてるんだ! 汚ねー。恥ずかしー。ゴリブーは学校うんこしたから今からゴリウンコだな。やあいゴリウンコ!ゴリウンコ!」
千枝子ちゃんはけんいち君が自分に勝手に付けられた「ゴリウンコ」というあだ名の余りのサイテーさに言い返すことができませんでした。
しかも、つい、この朝、登校中にお腹が痛くなって学校のお便所でこっそりうんちしてきたばかりなので、このけんいち君がつけたあだ名に顔が真っ青になりました。
「まさか、バレていないよね・・・女の子だし・・・」
千枝子ちゃんもクラスの男子が他の子に学校のお便所でのうんちがバレるとどういう運命がその子に待っているのかについては知っていました。そしてそれはとても恐ろしいことだったのです。