11話 リナ……やめてくれ……今お前と会ったら、俺は……俺は……!!
夜が更けてから暫くして、俺と姫乃は第二ワールド最初の町「リディア」へとやって来ていた。
リディアは、中世ヨーロッパ風の、特に言及すべきところのない普通の町だ。
宵闇の中にガス灯の淡い橙色の灯りが優しく輝き、その周囲には朧気な光を放つ妖しげな蛾が数匹集まっている。
道路の脇には、壁にもたれて星を見上げる者や、何人かでヒソヒソと話すパーティの一団、魔法使いの帽子を顔の上に乗せて眠っている者など、皆それぞれ疲れ果てた様子で転がっている。
「こっちはこっちで色々あったらしいな」
「じゃな」
俺はギルドの扉を開け、酒の匂いが充満した小さなギルドハウスに足を踏み入れた。
併設された酒場での乱闘を尻目に、俺は受け付けのNPCにここで作れる武器防具類のレシピを要求した。
手渡された水晶球に手を翳し、目の前に表示された薄水色のシステムUIを操作していく。
俺と姫乃は武器防具類から現状の手持ちで生成出来るアイテム一覧を絞り込み、ひとまずは下から二番目程度の低級装備で全身の防備を固めることにした。
俺が選んだ装備は「チェーンメイル」「風避けのマント」「狩人のグローブ」「革の靴」のよっつ。
姫乃の装備は「舞踏会のドレス」と「黒のヒール」。
トライデントを得たお陰で武器の心配のない俺はまんべんなく装備を調えたのだが、姫乃は「舞踏会のドレス」に全てを注ぎ込む一点集中型の投資をしたらしい。タンクのメイン装備である盾すら装備していない。
「タンクはやめる……というわけでも無さそうだな。武器がないところを見るとどうやら……」
「回避盾じゃ!」
姫乃はドレス姿で無い胸を張る。
回避タンク――。
敵の攻撃を「受ける」のではなく「避ける」ことに特化したタンク型のジョブだ。
「舞踏会のドレス」にはエネミーに対する視線誘導効果があり、黒のヒールには軽度の魅了効果が備わっている。
武器に掛けるぶんの金額を防具に回すことで、特殊効果付きの比較的高額なアイテムを購入したというわけだ。
「うちのパーティには弓手も魔法手もおらんから、剣士のお主とのバディ連携になる。パーティの人数が少ないメリットは何と言っても機動性の高さじゃ。そうなると、わっちの立ち回りとしては、魅了効果で前線を掻き乱すのが最善というわけじゃな」
確かに守るべき後衛が居ないのであれば足の遅い防御盾の必要性は薄れる。
せいぜい「緊急離脱」用の安地にするくらいだが、それもスキルの回数制限ありきで状況を選びすぎる。
姫乃が敵の気を惹き、俺が意識の外から奇襲する。
「緊急離脱」を持つ俺の機動性の高さとも上手く噛み合うし、悪く無い選択だ。
それに……
「ありがとう姫乃。パーティの構成まで考えてくれて」
「にししー! まあ、わっちもこう見えてそれなりにNZOでは上位層のプレイヤーじゃからな!」
オブラートに包んだけれど、俺は姫乃の「自分本位の選択をしなかったこと」を凄いと思った。
それと同時に、自分自信の弱さが嫌になった。
俺はもしもの時のために一人でも戦える装備を購入した。
仲間が裏切っても大丈夫なように、俺が一人で生き残った時でも戦えるように。
それに対して姫乃の装備は回避盾に特化している。
武器が無いということは、攻撃手がいなくなった瞬間にすべての勝ち筋を失うということ。
裏を返せば、何としてでも、「命懸けで攻撃手を守る」という強い意志の表れだ。
もし俺が姫乃を裏切ったり、戦闘中に死んだりしたら、彼女は敵を倒すだけの攻撃力を無くし、このワールドを生き抜くことが困難になる。
姫乃は俺のことを心から信頼してくれている。
俺はそんな姫乃の純真な姿勢を見て、人間不信が拭いきれない自分の情けなさを実感する。
俺は、未だにリナのことが水に流せないでいる。
なあリナ、なんで……どうして俺を裏切ったんだ?
俺はお前のことを本気で愛していたのに、お前はなんで他の男と……
あぁ、嫌だ。
辛い。
本当に辛いんだ。
忘れたくても忘れられないんだ。
窓の外の宵闇を見ていると、どうしても気持ちが胸の内側に閉じ込められて、過去の記憶が暴れ出す。
脳が収縮するような、眉間に嫌な不快感がじわじわ広がって、すこしずつ、ゆっくりと、鬱になっていく。
そうして俺は真っ暗な虚無の海のなかでちいさな船を漕ぐ。
行き先はなくて、風も拭かない真っ暗な海。そこには星も月もなく、それらを隠しているはずの厚い雲さえない。
これが俺の心象風景だ。
何もないのに、行き先も分からないのに、船を漕がなくちゃならない。
なぜ漕ぐのかも分からない。だから、漕がなくてもいいかとオールを離す。だけどそのオールを捨てる勇気も無くて、漕がないのに持っているだけなんだ。
嫁を寝取られるって、こういう気持ちになるってことだ。
何の希望もなくて、どうしようもなくて、ただ涙が溢れてくる。
そして、その涙さえ涸れ果てて、そのことがなぜか無性に悲しく感じられて、俯いているだけになる。
「………ちゃん」
「優ちゃん!!」
ハッとして俺は意識を外へと向けた。
俺の袖を引っ張り、黒いドレス姿の狐耳が不安そうに顔を覗いてくる。
「リナ嬢のこと……思い出しておったのか?」
「……ああ」
頷く俺に姫乃は俯き、それから俺を引っ張って酒場の一番奥の席に座った。
「座るのじゃ」
俺は姫乃に促されるままに席に腰を下ろす。
すぐ横の窓から暗い路地を見つめて俺はさらに鬱になる。
姫乃は両頬を両手で包み、こちらへと顔を向けさせる。
「なんだよ」
俺の顔を包む温かい手が、凄く煩わしく俺は顔を顰める。
煩わしいのに、払いのける気力すら湧かない。
ふとした時にリナの顔が、声が、思い出が蘇ってきて俺のことを苛むから。
姫乃の手は温かい。
バーチャルのくせに、所詮は電気信号の生み出す虚構のくせに、脳が受け取った幻影のくせに
温かくて、嫌になる。
姫乃はそんな俺に穏やかな口調で語りかける。
「わっちにはリナ嬢とお主の間に一体何があったのか分からん。じゃけどな……」
姫乃は俺の頬を撫で、優しく微笑んだ。
「わっちはどんなことがあっても、ずっとお主の味方じゃから」
だけど、それを与えてくれる彼女の気持ちは本物だ。
俺は俯き、姫乃の手を両頬から剥がした。
俺には勿体ないくらい、姫乃は優しくて温かい。
「ありがとう……。少し気が楽になったよ……」
その言葉に姫乃は微笑み、俺はその光景に思わず目を見開いた。
顔が引き攣り、怒りと哀しみと苦しみの波が俺の胸の中を大挙して暴れだす三秒前。
「り、な……あ、ぁ、あ、あ、あ、………………」
姫乃の向こう、よく見た顔が、楽しそうに男たちに囲まれながらビールジョッキ片手によろしくやっている。
いや、違う。
見間違いだ。
「そう。そうだ。俺は……俺は……」
血走った眼球をギョロリギョロリと剝き出しにし、俺はテーブルに身を乗り出し女の顔を確認する。
リナだった。
柔らかく滑らかな白い肌、透き通った瞳に綺麗で触り心地のいい髪。
俺の中の思い出が噴出する。
放課後、夕焼け、誰もいない教室。
リナと一緒に帰った帰り道。
一緒にゲームをして過ごした穏やかな休日。
クレーンゲームで取ったクマのぬいぐるみ。
バレンタインデーと、クリスマスツリー。
一緒に見た初雪、初詣で鳴らした神社の鈴。
その全てが真っ赤に燃えている。
「んんギギギギィ…………」
俺の中にある全てが、地獄だ。
「んんんんんん~~~………………」
抑えろ俺。
「ッッッ……キィイイイイイイイイイイイイイイイ…………」
蹲り、両腕で自分の身体を抱き、必死に抑え込む。
この苦しみを外に出したら、俺はきっと悪魔を越える存在になる。
「ぃ~~~~」
白目を剥き口端から泡を吹きながら、俺はなんとか冷静さを取り戻した。
荒い呼吸を整え、俺は姫乃のほうに向き直る。
彼女は何か言っていたようだが、今の俺はそれどころじゃないから聞こえない。
「姫乃、ここを出よう……」
そう言った瞬間、姫乃越しに、振り返った"彼女"と目が合った。
合ってしまった。
「ァ……………………」
おわった
「あ、優くん!! 無事だったんだね!! 会いたかった~!!!」
俺はその瞬間、何も鴨が崩壊したように涙を流した。
この感情が何なのか自分でも分からないけど、たぶん、全部だとおもう。