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鵬、天を駈る  作者: 吉野
6章、『○○○○○』
145/248

140話 文武の対立、その最悪の反面教師



この話は、


いずれは書く予定だったモノのひとつです。



シチュエーション的に、


被る可能性のある話ですから。







長雨の季節も過ぎ、(みの)りの季節。


今年も収穫の季節がやって来た。




田植えの時と同様に、李部による普請を用いて


大量の人材を投入して一気に刈り取った。



お陰で好感度がほどほどに稼げている。





北伊勢の開発は今年の秋から順次に始まる。



田植えと収穫については来年度までは


普請を用いてタダで行う事を約束している。



再来年度からは、


それぞれの村が独自に李部に依頼して行う様に。



―――――と通達している。




当然、有料となるが。


不満の無いように村々には事前に話している。



着任より続く税の一割減に加えて、


今年の秋からは北伊勢全土にて本格的に


開発が始まる事となる。



来年の秋には大幅な増産を約束するから、


それくらいは我慢しろ、と。



万が一にも増産が叶わなかったら、


その時は無料でやってやると。





そこまで強気で押し込んでやったら、


向こうも首を縦に振ってくれた。





後に魅せるは結果のみ。


"仕上げを御覧(ごろう)じろ"だ。






これこそが文官が(タマ)を懸ける戦場。



血湧き肉踊るとはいかないが、


我等の敵は"日の本"という『世界』だ。



全く(もっ)て油断ならぬ。


一時さえも迂闊(ウカツ)に気を抜けぬ。





心の臓が潰れ胆が寒くなる様な死闘だよ。


―――()甲斐(がい)は有るがね。








……………そうそう。


文官の戦いといえば。



今年、1551年は


歴史上どのような事が起こっているか?






――――――時は8月末、周防(すおう)は山口にて


主殺しの軍事クーデターが起こる。




いわゆる、"大寧寺の変"である。






こいつの経緯は少しめんどくさい。



これ頃には、大内家には


(すえ) 隆房(たかふさ)を中心とする武断派と、


相良(さがら) 武任(たけとう)を中心とする文治派との


激しい抗争が行われている。




――――厳密には、8年前(1543年)に


尼子家との戦に大敗してしまい。


その事で大内家の棟梁、義隆が


武断派を遠ざけた為に起こった抗争である。




陶は大内家の家中において


相良と深刻なまでの権力闘争を行って、


結果として主君に(ひど)く遠ざけられる。





これが決定的となり、彼は主君の排除を。


正しくは頭のすげ替えを画策してしまうのである。





この西方(さいほう)の大事件は、


文官と武官が互いの立場のみを重んじて


致命的に対立をしてしまった為である。







つまり弾正忠家でも舵取りを誤れば、


この様な最悪の事態となり得る。



……………と、言うこと。





私達にとって究極の反面教師であろう。







何故、この様な事を語るか?



何故ならば、()()()()からだ。


大内家に対して。





今年の三月末。


殿の許しを得た上で、殿()()()()()()


二通の文を送っている。




一通は当事者である大内(おおうち) 義隆(よしたか)


もう一通は、当時ここに居た公卿。


(さき)の関白、"二条 尹房(ただふさ)"である。





文の内容はほぼ同じモノ。



『武門と対立した後白河帝の末路』である。




………………即ち、武断派の造反に気を付けろと。







――――――この二人の対応は対極に在った。



……………大内義隆はこれを、


ほぼ"無視"というリアクションをする。



事実上、何もしなかった。





……………一方、二条尹房は。




こちらは即、動いた。


大内家の家臣、冷泉(れいぜい) 隆豊(たかとよ)吉見(よしみ) 正頼(まさより)


彼等と連絡を密に取り行動を始める。





そして事は起こった。






――――(でん)によると、5月12日。




二条尹房は朝早くから大内義隆に面会し。



帝に献金をするために彼の嫡男である


義尊(よしたか)を連れて上京することを提言。



許しを得るや、即座に義尊を連れて周防を出た。






一方、陶隆房も様子を見て即座に動く。




実質的に、企みは露見したと判断したのだろう。



このままでは謀反は成らぬと判断して、


こちらも動く。



主たる義隆を攻めると共に、


二条尹房らに対して追手の兵を送ったのだ。






二人の命運は大きく分かたれた。





対応をしなかった、怠った義隆は


追い詰められて大寧寺にて自刃。




一方の尹房は、(あらかじ)め伏せておいた


冷泉・吉見の兵により追手を撃破。



そのまま彼らと共に畿内に向けて逃走した。





対応の差が、双方の明暗を分けたのだ。


もう明確に、クッキリと。





この結末が陶隆房にも災いする。



彼はこのクーデターの達成後、


九州の大友家に存在した


大内家の一族を擁立する予定であった。




ところが嫡男が生き延びてしまったため、


それが不可能と成ってしまう。



逃走先で、大内義尊が棟梁の継承を宣言。


別の者を擁立しても、


正当性が立たなくなってしまったのだ。




結果として陶のクーデターは、


ただの下克上に成り下がってしまった。




大内領内は、親(すえ)勢力と反陶勢力に


真っ二つになっている。





正直、余り(よろ)しくは無い。


()()()()()()()()からだ。



―――まあ、もうここからだと打つ手は無いがね。


ひどく残念無念なことだ。






…………………大内義隆を動かし、


彼を救えなかったのは残念な事だ。



毛利元就を台頭させるより、


大内が健在している方がマシだから。





しかし、もう一方。



二条尹房と大内義尊が生存したことは、


一応の成功とみるべきか。




少なくとも、大内の亡命政権を立てる事が可能だ。


陶と毛利の足を引っ張れる。



大義名分としてはもう、最上位だ。







もうひとつ、彼等に介入した理由がある。



今の大陸を統べる"明"との交易にて必要な、


"勘合の割符"である。




アレは実質的に大内家が独占的な権限を持つ。


だからと言って、


別にこちらが権益を奪おうというのではない。




大内家が持ち続けているだけでも、


それで良かったのだ。




大陸との交易目的は、


大陸からの舶来品の獲得だけではない。


交易により"明銭"を輸入するという目的もある。




つまり銭を国内に行き渡らせる意味も在る。



現在、国内では大乱の影響により


銭の製造・鋳造(ちゅうぞう)が停止している。



国内で銭が増えないために、日本国内は


デフレの傾向がかなり強い。




誰でも良い。


大陸との正規貿易は、銭の流通のために


絶対不可欠であるのだ。







…………………あったのだ。






勘合割符は、


何とか脱出・逃走組が持ち出せた様だ。




本来なら消失していたモノ。


文にて、強く確保を訴えておいて正解か。






………………しかし、なあ?



弾正忠家で握り使用すれば、


間違いなく畿内の勢力に叩かれる。



よって、ウチでは使えない。







…………勘合割符、


ホントにどうしてくれよう。



―――――ひとまずは秘匿しておくか。









秀貞の坊にとって、


最悪の歴史サンプルはこの"大寧寺の変"です。



弾正忠家において、同様の事が起こること。


これだけは絶対に避けなければなりません。



特に文官にも力が与えられつつある現状では。





そのために、この軍事クーデターを"成功例"


という前例にしないためにも。



結構に介入しています。



根本的な防止には成りませんでしたが。




"あちらの世界"の大寧寺の変は、


5/12の開始となりました。


時間スケジュールが繰り上がっています。






マメ知識





『大内義隆』




大内家の当主。


当時の大内家は名声も実力もある西方の雄であった。



その超大勢力を、超名門を一代で滅ぼしたため。


彼の評価は最低クラス。


今川義元を大きく上回るバカ殿あつかいである。



この御仁には、超名門で有ったがゆえに


若くからひどい女性不信・女性嫌いであり


そのために衆道にのめり込んで妻を放置した。


その為に元公家である妻が彼を早期に見捨てて


それが大内滅亡を後押ししたという逸話がある。




つまり衆道にハマって家を滅ぼしたという、


最悪の評価を受けたワケだ。



少なくとも、大家たる大内を滅ぼした


最終的かつ直接的なトリガーを引いたヒトである。





※衆道とは"BL"とか"ヤヲイ"とか、


"おホモ達"とか言えば分かるかな?


コイツの場合は女性に興味がない分、


余計にひどくのめり込んだらしい。





なお、一説には。


陶隆房はコイツと深い衆道の関係にあって。


見捨てられたせいで"愛が憎しみに変わった"という


大変にアレな説もある。







『陶 隆房』




後に言われる"(すえ) 晴賢(はるかた)"である。


彼が晴賢を名乗ったのはクーデターの後から。



後に毛利元就に厳島で敗れるまでの間である。


わずか4年から5年の間。




なお、大寧寺の変が起こったのは


"旧暦の"8/28から9/1まで。



現在の暦では9/28から9/30となる。






『後白河帝』




後白河上皇のこと。


正直なトコロ、


律令政権こと平安時代というモノを


決定的にズタズタにしたのがこの御仁。


平安時代にトドメをさした人物です。



自分の権力闘争の為に


過剰に武家を重用し、かつ翻弄(ほんろう)したヒト。



平清盛の台頭も、鎌倉幕府の成立も。


全部このヒトがメチャクチャにしたせい。



また後世に語られる有名な大怨霊、


"崇徳上皇"の逸話を生み出した張本人でもある。





つまり日本における自業自得の究極。




ちなみに、武家ならともかく。


公家に対してこのヒトを"前例"として示すと、


恐ろしく凶悪な"冷や水"を浴びせる行為となる。



鎌倉幕府という、悪夢の時代を招いたヒトだから。





だからこそ、二条さんはソッコーで動いた。


相当ビビったに違いない。







『相良武任』



陶さんと権益闘争をした文官代表。



かなり有能な文官だったらしいのだが。


ただし彼の場合、"文官"の前に


"悪質な"だとか"佞臣の"だとか言う文言が付く。



コイツの暗躍・抗争は


短期間ながらも非常にしぶとくしつこくかつ悪質。


解説しようとすると、非常に長くなります。


よって説明しません。


出来ません。



大内家を滅ぼした人間の一人であることは


明白ではある。





『二条尹房』




当時、大内領内にいた為に巻き込まれた公卿さま。


その他、多数の公卿が巻き添えとなり殺される。



大内義隆の都カブレの元凶達と見られたか?






『冷泉隆豊』



大内家の家臣。


この人はむしろ、


文官・武官の抗争を全力で調停しようとしたヒト。


しかし上手くはいかなかった。



最後まで大内義隆に従い、


義隆の介錯(かいしゃく)をした後に敵陣に突撃。


そのまま討ち死にした。






『吉見正頼』




アンチ陶勢力のひとり。


クーデターの前から強く対立していた。


同じ大内の家臣ではあるが


応仁の乱の頃からの仇敵であったらしい。



クーデターの当時は


"島根県鹿足郡"あたりの領主であり、


遠すぎて主君と合流できなかった。


(当時、ひどい暴風雨で合流出来なかったらしい)



合流できていれば歴史が変わっていたかも。






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