第12話 初七日、荒川山大祭祀
坊主1000人の謎、後編。
「次いで、こちらは目に見える実利です。」
話を続ける。
「…………………………本来は100人、多くても200人の規模
を予定していたのですが、」
1000人って多すぎだろう。
ちょっと限度というものがある。
まぁ、その分『こうかは ばつぐんだ』
と、なるのだが。
「祭壇を築いて壮大な祭祀を行い、
三河中の国衆たちを招きます。
そうですね。この際ですからこの後に彼等のために
寺も建てて、盛大に弔ってみせましょう。
昨今において、都の貴人でもこのような
大規模な葬儀はありません。
この初七日の供養そのものが織田家の圧倒的な財力を
三河の者達に見せつけることになります。」
ましてやここは三河の片田舎、僧侶1000人の
大祭典なぞ目を剥くような話だろう。
その驚きはいかほどか。
「おい、寺の話は聞いてないぞ?」
「ついでです、ついで。効果がより高まります。」
思い付きで追加した寺の建立に殿が文句を
言われる。
だがまぁ、この際だ。
もう徹底的にやってしまった方がいいだろう。
「この初七日の法要で三河を一気に
織田方に付けます。」
「後は、最後になりますが………………」
思い出した様に口に出す。
これはまだ、殿にも言ってない。
「うん?」
終わりだと思っていた殿が首をかしげる。
何か有ったかと思いを巡らしているようだ。
「こたびの法要、これは今川治部大輔への
嫌がらせとなります。
軍師であり師匠でもある雪斎が織田に勝手に弔われ、
菩提寺まで建てられる。
……いかに思うことやら。」
しばらくの間、殿の爆笑は止まらなかった。
天分18年 10月21日
この日、三河 幡豆郡荒川山にて
織田信秀を喪主とする『荒川山大祭祀』が行われた。
尾張の近隣寺院より1000人もの僧侶を呼び、
山の麓に祭祀のための
豪華な祭壇を築き、
また太原雪斎ら死者を弔う菩提寺として『荒川寺』を建てるなど、織田弾忠家は
三河の国人達に圧倒的な財力を見せつけた。
これ以後、三河の情勢は
完全に織田家に傾いたのである。
愛知県 西尾市にある八ツ面山は戦国時代には
荒川山と呼ばれていました。
1549年……この山に本陣を築いた今川軍は織田軍の
火計とその後の攻撃により、壊滅的な被害を
受けます。
織田信秀は死者のために1000人もの僧侶を呼んで
初七日の法要を行い、またその地に新たに
『荒川寺』を建て彼等を弔いました。
戦死者達の命日である10月14日、現在でも
『荒川山大祭祀』は厳かに行われています。
敵であった彼等の霊を弔った信秀は三河の
人々に名君として、今も慕われているのです。
第1章
『 荒 川 山 大 祭 祀 』
なに?
最後の展開がどこかで見たことがある?
気のせいです。胸の内に留めてください。
自分たちのご先祖さまをここまで大規模に
しかも毎年弔われたらそりゃ態度も軟化するよね?
マメ知識
『祭祀』
神様や祖先の霊を祀るお祭り。
大嘗祭などの神道系の祭祀と、
祖霊を祀る仏道系の祭祀がある。
『荒川寺』
この寺はフィクションです。
実在しません。
『菩提寺』
お偉いさんが葬られたお寺の事。




