飢え渇くもの
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
これ! こー坊! 地面に落ちてるものを食べちゃいかん!
まったく、しょうがないねえ。いくら近くでハトさんがつっついているからってねえ、あんたまで真似をして食べんでええわ。
いくら美味そうに見えたにしてもな、ハトのもんはハトのもん。お前のもんはお前のもんで、しっかり用意がされているんじゃ。ちゃんとお金出して、自分がその手におさめたもんを食えばいい。他のものを盗るなど、やってはいかんことじゃ。
――ふーむ、まだお前くらいじゃ、ばーばのいうことは分からんか?
じゃあ、ひとつ話をしてやろう。むかしむかしの話をな。
あるところに貧しい一家が暮らしておった。
お父とお母、そして娘がひとり。それぞれが仕事をして暮らしとったが、腹いっぱい食べられる時は、一年で限られた日しかなかった。
ここのところ、戦続きというのも痛い。お殿様からたびたび、戦のための食べ物を用意するよう言われてな。その通りの量をおさめてしまうと、しばらくは食うや食わずか、という日々が続いてしまう。
――足りないと思う分は、自分で用意してこよう。
お父はいつもそういっていた。お金を出してものを買うことができるのは、それこそだいぶ具合の良い時に限られる。
山で木の実を集めたり、川で魚を釣ろうとしたりすることもあったらしい。それでも食べ盛りに差し掛かった娘には足りず、彼女は少しずつ遠くへ足を伸ばしていったそうな。
やがて彼女は、家からそれなりに離れたところにある、だだっ広い砂浜へたどり着く。
お父の話によると、かつてはここまで海の水が来ていたらしい。少なくとも、彼女が生まれる数年前までは。
それが急に、潮がここまで届かなくなって久しいのだという。取り残された魚や海藻類は、もれなく村人たちの腹の中へ収まった。そうしていまは、ところどころゴツゴツとした岩が顔を出す、砂の浜へと変わってしまったとか。
彼女はしばらく、高いところから浜を見下ろしていたんじゃ。
よおく見ると、白い砂の上でもぞもぞと動く影がところどころで目に映る。
それらは黒いカニじゃった。浜全体で見ればゴマのひとつぶに過ぎない大きさじゃが、奴らは横向きに走りながら、ときおり足を止める。すると左右のハサミで目の前の砂を掘り起こし、中から貝を引っ張り出してくるんじゃ。
彼女に貝の種類は分からない。じゃがカニたちは、自らのハサミをごちんごちんと貝の表面に叩きつけ、その場で中身をすすっておったという。
川にいるカニではなかなか見られない、荒っぽい気性。それが必死さのように思えて、彼女はカニを見習うことにしたんじゃ。つまり、浜へ降りて貝を掘り出すということをな。
子供とはいえ、彼女の手はカニの数倍はある。あとは転がっているとがった石を、カニのハサミ代わりに使えば浜を掘るのは難しくない。
ややあって、彼女は両手いっぱいに貝を掘り出して家へ持ち帰ったんじゃ。砂抜きをしたりなどで時間はかかったが、久々にありつけた海の幸に彼女がすっかり気をよくしてしまう。
ここ数日、貝ばかり拾ってくる娘を見て、お父はどこで集めているのか尋ねてくる。娘がこれこれこうだと伝えたところ、「少し確かめたいことがある」と、次の日、娘と一緒に浜へと向かったのじゃ。
すでに慣れていた娘は、たどり着くやすぐに浜へ下りていったが、お父は動かない。あの日、彼女がしていたように高い位置からこちらを見下ろすだけ。
娘は構わず仕事へ移ったが、その手に軽く握れるほど貝が集まる頃。お父が下りてきて腕を強引に掴んだ。
「早く、ここから帰るぞ」
有無を言わせぬ強さに文句を言いかける娘。だが改めて顔をあげた時、自分が立っている場所へ向かって、いっせいに浜のあちこちからにじりよってくる影があったんじゃ。
あの黒いカニたちじゃった。どこにこれだけの数が潜んでいたのか、彼女の見渡す景色の先、およそ十尺(約3メートル)程度をすっかり埋め尽くしながら、迫ってきていたんじゃ。
命からがら家へ逃げ帰ったものの、いまだ娘が持っている貝を見て、父親はいう。
そいつらを、早いところ家から離れたところに埋めたほうがよいと。
「あのカニども、よほどその貝を気に入っていたのだろう。ああして数を集めることも、いとわないほどにな。
お前は奴らにとっての盗人に思えたんだよ。最初はこそ泥と思い、目こぼししていたのだろう。それが毎日のように、とんでもない量を盗っていくから、完全に科人扱いだ。
ああいう奴らの思いをあなどっちゃなんねえ。ここまで、貝を取り戻しにやってくるかもしれん」
父親のすすめで家から離れた場所に、貝たちを埋めにいく娘。さすがに浜へ戻る勇気はなかったそうじゃが、その晩に思わぬ異変が起きる。
夜中に、お父とお母、娘の三人は同時に目を覚ました。さざ波の音が耳に飛び込んできたからじゃ。
身を起こしてからも、音はずっと止まない。それどころかどんどん大きくなり、すぐさま父親が家を離れるよう、二人に指示を出した。
飛び出した三人が見たのは、すでに家の壁に接するほどまで寄せてきた、海の水じゃった。
潮が満ちてくる時のように、いったん引いた潮が再び迫ってくると、先ほどより長く広く、水の手が広がっていく。
近くの斜面に避難した三人は、この水が浜の方角からずっと続いているのを見た。この場所に至るまで、すべての地面は薄いながらも水の幕に覆われ、生える木は根っこを隠されてしまう。
どこまでも伸びるかと思った満ち潮じゃったが、彼らの家の土台をすっぽりおさめたところで足を止めてしまう。お母は首を傾げたが、お父と娘は思い当たる節がある。
あの貝を埋めた場所。あそこは家と直線上のところにあった。確実ではないが、この水は貝を埋めた場所以上に、深くは入り込まないのではないか、とな。
東の空が白み始めるころ、潮は急激に引いていった。
ぬめりにぬめった泥の上を歩いて確かめたところ、やはり貝を埋めた場所は徹底的にゆるくなっていた。貝そのものも、ひとつも残っていない。
それがカニたちの思いが成したわざだったのか。はたまた遠くへ去って思い出に飢えた海が、自分のかつての忘れ物を取りにやってきたのか。いまとなっても分からない、むかしむかしの話じゃよ。