自分にとって都合の悪い事は、その存在自体忘れてしまうものなのです。
条件とは、そもそもその話とは・・・。僕は刻露さんに具体的な内容は何であるのか問いただしました。そして彼は背木を切ったようにスラスラと僕に説明してくれました。そしてその内容に対して僕は愕然としました。何故ならそれは自分が歩んできた人生を自ら否定することになるからなのです。
「夏目様が納得いかないのは、とても良く分かります。しかしこれは夏目様にとって、将来的に良い結果をもたらすと信じてい折ります。是非とも感情的に成らずに、慎重な判断をすることをお勧め致します。」
その刻露清秀さんの丁寧な物言いは、自分に対しての遠回しの圧力と捉えてしまいます。しかし一方で彼の言うことも理解できなくはありません。少なくとも僕に対する嫌がらせを考えているようには見えないからなのです。何故なら本当に彼が述べている通りになるという自信の裏付けを感じるのです。その背景には何か大きな力が控えている、と思えるのは気のせいでしょうか。
===== ガチャ =====
「では夏目様、お気をつけて。」
「失礼します。」
その要件のみで、僕たちはアカデミーに帰って来たのでした。
さほど時間は経過していない様子です。今はまだ午前中。1日はまだ長いのです。ですが自分としては良く考えなければ行けない1日。決して惰性で過ごすことは許されないのです。
「ふう。」
部屋帰った僕は、ベッドに横になりました。
(やっぱり分からない・・・。)
そう。理解ができないのです。何故この僕がこの様なタイミングで、突拍子のない話を持ってこられたのか。それを良く考えろ、と言われても想像のつく内容ではないのです。
しかし自分の腹の中は決まっていました。かと言って事態が理解できている訳ではありません。その事により如何なる結果がもたらされるのか、今の自分には想像がつかないのでした。心配しても仕方がありません。僕は眠りに就き、明日からの練習に備えるのでした。
「はっ!」
気合いのショットが放たれます。ボールがガットの圧力でひしゃげるのが、見えている様に思えます。いや実際に見えているのでしょうか。
===== ザザッ =====
靴底がコートを擦る脚さばきも、真に軽快なのでした。
吹っ切れるとは、まさにこの通りなのでしょうか。もう僕は決めているのです。このまま僕は精進し、必ずプロテニス選手になるのです。
誰にも邪魔されない、誰にも遠慮しない・・・。それが今の自分の気持ちなのでした。しかし・・・。
ふとコートの外からの視線を感じました。僕は少しだけ見やりました。
やはりいました。あの人だったのです。
(刻露清秀・・・。)
その男は無言で立っていました。実はこのボクには分かっていたのです。先日の提案に対しての答えを催促しに来たのです。そしてその返事はきっとこのボクからいうべきである、と思っているのでしょう。だがそうはいきません。僕は特に何のリアクションも起こすつもりはありません。
その僕の態度は刻露清秀を苛立たせるには、十分な材料であったことでしょう。
やがて彼は去っていったのでした。もうこれ以上いる必要はない、と判断したのでしょう。そしてそれは刻露清秀が、僕の考えを大まかに推測しているという事なのはないでしょうか。
===== 数日後 =====
今日は休日です。僕はいつもどおりに起床して、朝食を取りランニングに出ました。
いつもの景色なのに、今日は新鮮に映りました。生き生きとしています。鳥も木々も動いています。そして僕は動いています。
今日は1人で過ごすことにしました。全く言葉の入らないようにしたいのです。
「よし。」
早朝ランニングも終え着替えを済ませた僕は、部屋で机に向かっていました。そして読書をしているのです。実は僕は日本から文庫本を持ち込んでいたのです。それらの内容は主に古典文学です。
今日は芥川龍之介著の羅生門をよんでいるのです。これは一般的に言われる名著であり、自分は何度もこれを読んでいるのです。そしてこの羅生門の内容を抽象的に解釈すると、人間の倫理を問うと同時にその闇が肯定されるのであるか、という内容です。果たして人は極限状態において、社会的に不道徳を働く事が許されるのでしょうか。
僕は許されると思います。
そもそも人間という存在自体、エゴの塊なのではないでしょうか。己れが存在するためには何でもするし、何でも認めてしまいます。他の生き物を殺し、自然環境を破壊していく。都合の悪いこと、醜いことからは目を背ける・・・。
そうなんです。自分にとって都合の悪い事は、その存在自体忘れてしまうものなのです。人間は・・・。勿論、この僕も・・・・。
===== トントン =====
ドアをノックする音が聞こえました。それが誰なのかは分かっています。そしてその要件がなんなのであるか・・・。
しかしこのボクは全く動じていませんでした。何故ならこの日に備えて、武器を用意していたからなのです。
「失礼いたします。夏目様。」
「お待ちしておりました。刻露様。」
僕は皮肉たっぷりに、彼を迎えたのでした。




