その名はムーン
「テンションは何ポンドにしますか?」
彼女は、とても大切なことを聞いてきました。
「あ、ああ52ポンドで・・・。」
僕は、いつもガットを張っているテンションで答えました。
ちなみにガット張りにおけるテンションとは、ストリングを機械でそれだけの力を掛けて張るのかと言うことです。
一般的に、その単位はポンドを用いて表されます。
簡単に言うと、強くはストリングを張ると打球は飛びにくくなります。
しかし、その反面コントロールはしやすくなるのです。
逆に、弱くストリングを張ると打球は飛びやすくなります。
その代わりに、コントロールはしにくくなります。
まとめて言いますと、どのような強さでも一長一短があるのでした。
「ん?
何をブツブツ言ってるんですか?」
「のわああ!!」
僕はビックリして、再び尻餅をつきました。
気がつくと、女の子の顔がボクの至近距離に迫っていたのです。
「チャチャッと張り上げますから、そこでごらんになっていてくださいね。」
彼女は、僕の態度を、なんとも気にしていない様子でした。
========== ササッ ササッサ ==============
女の子は、みるみるうちに3本のラケットにストリングを張り上げました。
本当に手際がよい、一体彼女はどうゆう人なのでしょうか。
「彼女は、このアカデミーのストリンガーなのさ。」
「えっ。」
ボクの疑問を察知しての事か分かりませんが、サニーが言葉を挟んできました。
(サニー・・・・知っていたんだったら、初めからそう言ってくれればいいのに・・・。)
サニーはちょっとだけ、後ずさりをしていました。
なぜなら僕は恐らく彼に、視線で不満をぶつけていたからでした。
「わたしは、このアカデミーの生徒さんのストリングをたくさん張っているんですよ。」
彼女は、まだ尻餅をついているボクを見下ろして、両拳を腰に当てて、とても得意そうでした。
それにしても、こんな女性がこれほどのガット張りの腕前があるとは、驚きの一言でした。
インディゴのチョッキとスカートを着て、今ままで見たこともないスピードを披露しました。
(あっ・・・。)
そう考えていたのですが、ボクはあることに気がついたのでした。
彼女の、とても柔らかそうなカラ・・・、いや腕なのですが、しかし手は・・・・。
女の子の手は、仕事をしている手だったのでした・・・。
あちこち痛んでいて綺麗な訳ではないけれども、彼女の手はよく働いていた手です・・・。
彼女の手は、職人の手です。
綺麗な手じゃないけれど・・・・。
でもボクはむしろこのことで、彼女に対して好感を持ったのでした。
「彼は、ナツメだよ。」
サニーが彼女に、ボクの名前を紹介してくれました。
「わたしは、ムーンよ!
これからも宜しくね!」
彼女は、やはり元気よく名前を言いました。
「ストリングを張ってくれて有り難うございました。
料金は・・・?」
「ううん!
初回はサービスです!」
「え・・・・、本当にいいんですか?」
「そ・の・か・わ・り!」
彼女は、口元に人差し指を当てて言いました。
「また、わたしに頼んでくださいね!」
「は、はい。」
僕とサニーは、彼女に別れを告げ部屋に戻りました。
「ふう・・・・・。」
僕は、ベットに横たわり一息ついていました。
=============== トントン ==============
軽くドアがノックされました。
「今日は一緒に、夕食に行こうよ。」
今夜は、サニーが誘ってきました。
(そうか・・・・。
先ほどのこともあるからな・・・。)
ボクとサニーは、アカデミーのレストランに向かいました。
「いらっしゃいませ!」
今夜も元気な接客でした。
僕たちは、お互い好きなメニューを注文しました。
「お待ちどう様!」
「ど、どうも。」
今日のクールダウンを兼ねての夕食は、ゆっくりととりました。
会計の折りに、ウェイトレスさんは急にボクの耳元で囁いてきました。
「たまに気まぐれで、無料でお張りしますから・・・。」
(え?)
「明日もいらっしゃって下さいね!」
彼女は軽くウインクしました。
(通い続けてくれたら、いいことがあるって・・・・)
思わず、僕は唾を飲み込みました。
(このことだったんだ・・・。)
昼間のウェイトレスさんの言葉の意味が分かって、ボクは嬉しいような、ガッカリしたような複雑な気分でした。
ある時は、アカデミーのレストランでウェイトレス・・・・
ある時は、アカデミー専属のストリンガー・・・・・
してその実体は・・・・
とても元気な女の子、その名はムーン




