オオヒカリトカゲ
クラクションがどこかで鳴っていた。ぼんやりと、窓からむしむしと暑そうな車外を眺める。ぼくはこの夏休みというものが嫌いだ。それはどうしてかというと、学校の長期休みの度にこうしてお母さんと一緒に隣県にあるお祖母ちゃんの家に行かなければならなくなるからだ。それも休みが終わるまでずっと。何度嫌と言ったって、お母さんはぼくの言葉なんて聞きやしないんだ。ぼくはお祖母ちゃんの家が嫌いだった。嫌いで嫌いでどうしようもなかったんだ。
今回の夏休みも、やっぱりぼくの抗議は無意味に終わったし、それはいつものことだった。ぼくを乗せたお母さんの車は、ぼくの気持ちとは無関係にぐんぐん進んでいく。片道二時間もかかる二人での旅路は窮屈なシートベルトのせいもあって全然楽しくない。
それに四車線の大きな道路は昼間なのに車で一杯だった。車は渋滞につかまって、お母さんの吸う煙草の臭いとオレンジの芳香剤でぼくはぐるぐると眩暈がしそうだった。車の中でがんがん鳴るお母さんの好きな音楽も、うるさいマフラーの音も僕は嫌いだ。
「ほら、ガム食べなさい」
お母さんに渡されたガムを口に放り込む。甘ったるいミントが頭痛をひどくする。まるで僕の胃の中で煙草とオレンジとガムがぐちゃぐちゃになったみたいに気分が悪かった。
「窓、開けていい?」
「少しね」
国道の脇に聳え立つ雑居ビルや歩道橋は太陽に焼かれて眩しかった。広告塔の脇を通り、地中にぽっかりと掘られたトンネルをぼくらは滑り落ちるように潜った。明滅する信号灯。誰もいない神社。踏切や賑わうカフェや人ごみの影。
陽光に照らされているそれらをぼくを乗せた車は次々追い越していく。家がどんどん遠ざかっていくのが手に取るようにわかって胸が苦しくなった。
ぼくはとうとう気持ちが悪くなって、眼を固く瞑り耳を澄ました。そうすれば、全てから解放されるような気持ちにいつもなれた。ぼくの体はぴかぴかする闇に包まれて、お母さんの仕事やお祖父ちゃんの事や学校の事、つまり嫌なもの全てから逃げられるんだ。僕はがんがん音楽が垂れ流されているラジカセに跨って、果てしない暗闇を漂流する。
ラジカセに備え付けられたマフラーの吐き出す排気ガスを推進力にして、ぼくは真っ暗な海をゆっくりと漂うんだ。ぼくが目を瞑っている限りこの暗闇は延々と広がっていって、そこには僕の好きなものが沢山泳いでいるのだ。ぼくが小さい頃どこかに行ってしまったお父さんや、エメラルドに光り輝くオオヒカリトカゲや、ふわふわと浮いているクラゲたちが、泳いでいる。だから僕は、大丈夫なのだ。
「起きなさい」
お母さんの声がして、頬を叩かれた。ずっと閉じていた眼を開けると、二階建ての木造の一軒家が目に入った。車はお祖母ちゃんの家の駐車場に停まっていたのだ。ぼくは飛び起きて道中寝てしまっていた事をお母さんに謝った。お母さんはすぐに許してくれた。
車から荷物やお土産を降ろして、ぼくはチャイムを鳴らした。重い荷物だってぼくは力持ちだから持つことが出来た。少し待つと、はあい、というお祖母ちゃんの優しい声がインターホンから聞こえてきて、なんだかぼくは嬉しくなった。
「よく来たね」お祖母ちゃんはそう言ってぼくたちを迎えてくれた。
でも家に入ってすぐにそんな温かな気持ちは消えた。居間に荷物を降ろしていると、天井を睨みながらテレビを見ていたお祖父ちゃんが、ぼくとお母さんの姿を見るなり怒ってしまったからだ。また俺の金を盗りにきやがったんだな。出ていけ。お祖父ちゃんは椅子から立ち上がって杖を振り回して怒鳴った。
お祖父ちゃんは怒ると、テーブルや自分やお祖母ちゃんを杖で強く殴るんだ。
僕は荷物を放り出して一目散に駆け出した。痣だらけのお祖母ちゃんの元にじゃない。二階のぼくの部屋にだ、ぎしぎしと軋む階段を駆け上って自分の部屋に飛び込むとぼくは扉を閉めて、心の中で何度も何度も大好きなお祖母ちゃんに謝った。
「俺は知ってるんだ。俺は知ってるんだぞ!」
階下から大きな声が聞こえる。お祖父ちゃんは、気が狂ってしまったんだ。足が悪くなって、杖をつくようになってからどんどんとお祖父ちゃんはおかしくなった。それは足が原因かもしれないし、悪名高い中央病院で出された薬のせいかもしれない。
お祖父ちゃんは家の電気を消すとかんかんに怒ったり、お仏壇に毎日お供え物をするお祖母ちゃんに酷いことをするようになった。急に笑い出して散歩に出掛けたり、物置に一人で籠って二日間出てこない時もあった。お祖父ちゃんの症状は悪化するばかりだ。
ぼくは少しずつ気持ち悪くなっていくこの家が、そして近所から変な目で見られているこの家がいつしか嫌いになった。下から大きな物音やお母さんの短い悲鳴がここまで響いてくる。そしてそれは夏休みが終わるまで、ずっと続くんだ。ぼくはベッドの下からラミネート加工が施された爬虫類の図鑑を引っ張り出してきて、勉強机の上に広げた。
デスクライトを灯して、図鑑の中に広がる世界にぼくはのめりこんだ。そうするともうぼくは家の外の木にとまる蝉の鳴き声や、五時になると聞こえてくる夕焼け小焼けのチャイムも耳に入らなくなる。図鑑の中にはたくさんの生き物が生きていて、僕はその中でもオオヒカリトカゲが大のお気に入りだった。
オオヒカリトカゲの体は宝石みたいな翡翠のうろこに包まれていて、綺麗な模様の卵を産む。それになんとこのオオヒカリトカゲは瞳までがエメラルドなんだ。ぼくは一度でいいからこの眼でオオヒカリトカゲを見てみたかった。そしてうろこを撫でて体温を確かめて、頬擦りするんだ。
「もうご飯よ。降りてらっしゃい」
ぼくはふと、顔を上げた。ベッドの脇に置かれた目覚まし時計は七時を指していた。どうやら僕は数時間もオオヒカリトカゲの写真を眺めていたらしい。図鑑をベッドの下に押し込んでぼくはぎしぎしする階段をゆっくりと降りた。うるさいくらいに蝉が鳴いていた。
居間に行くともう夕飯の支度が出来ていた。皆席についてもう食べ始めていたのでぼくもそうした。いただきますをしてから夕飯に箸をつける。ぼろぼろとご飯を零すお祖父ちゃんを見ないようにして、ぼくは黙々と食べた。お母さんがテーブルに散らばったご飯を拾おうとすると、お祖父ちゃんは眼を剥いてテレビを見ろと叫んだ。僕は決して顔を上げなかった。
「テレビを見ろ、テレビを見ろ!」
お祖父ちゃんはテーブルを何度も何度も叩いて、椅子から転げ落ちた。そして「あばだばだ!」と叫びながら這ってトイレに向かった。でもお祖父ちゃんはトイレに辿り着く前に我慢の限界が来たらしく、廊下に座り込んで用を足してしまった。黙ってテーブルの上の片付けをするお母さんを見てぼくは拳を握り込んだ。
「ごちそうさま」
ぼくは立ち上がって、股を濡らして廊下に蹲るお祖父ちゃんの前を通り、階段に足をかけた。お祖父ちゃんの股の間には臭い立つ水溜りができ、そこには黄ばんだプラスチックの部分入れ歯が転がっていた。ぎしぎしと音を立てる階段の音に反応して、お祖父ちゃんは独り何かもごもごと呟いている。
もしその言葉を正確に聞き取っていたなら、ぼくはきっとそれ以上一段も階段を上れなくなっていたに違いなかった。
自分の部屋に入るとぼくは扉を閉めてからベッドに寝転び、タオルケットに包まった。電気はつけなかった。つけてしまえば、ぼくがひたすらに目を背け続けているこの世で一番見たくないものが光によって暴き出されてしまうような気がしたのだ。
ぼくは怖くなって、図鑑を取り出して抱き締めた。この辛い現実から逃げ出す方法を考えたが、何も思い浮かばなかった。つまり逃げられないのだ。お祖父ちゃんのことからも、学校のことからも。どうしてこの世はこんなにも生き辛いのだろう。どうして朝はやってくるんだろう。ぼくはこの夜が永遠に続けばいいのにと願った。
図鑑を広げると、あるページだけが輝いて見える。オオヒカリトカゲだ。この暗闇であっても、オオヒカリトカゲは図鑑の中に生きていて、ぼくを導いてくれる。ぼくは図鑑を抱き締めて深夜を待った。ベッドの中で流れる時間は緩く穏やかで、ぼくは階下の苦しみを一時忘れることが出来た。
暫くして、お祖母ちゃんが扉越しにもう寝たのかいと尋ねに来たがぼくは答えなかった。ぼくの心はこの時既に決まっていたのだ。
ぼくは天井を睨みつけるのを止めて、ベッドから起き上がった。そして勉強机の脇にあるリュックサックの元まで這って行き、それを拾い上げ、ベッドに放った。それから目覚まし時計と図鑑と遠眼鏡とを持ってくると全てリュックサックに詰め込んだ。ぼくはこの静かな夏の夜の中へと旅に出るのだ。ぼくの居場所はこんな家にではなく、夏の夜にある気がしたのだ。そしてそれは間違っていないように思えた。
扉を開けて軋む階段を下りた。不思議と階段はぎしぎしと軋まなかった。一面びしょびしょに濡れた廊下を抜けて、玄関でお気に入りのスニーカーをはくと、ぼくは笑い出していた。家の外へと飛び出してから気付いたが、ぼくはなぜかスニーカーではなく長靴をはいていた。
でもしかし何故なんだろう外は満点の星空だった。あれはオリオン座だ。ぼくは天を指差す。そしてその横にあるのはきっとオリオン座だ。ぼくはだけれどその光を受けてかぼくのリュックはエメラルドに光り輝いている。のでした。それは歩道に沿って立ち並ぶどんな街灯の光にも負けず、夜の街のネオンにも引けを取らない導きの光だ。ぼくは導かれているのだ! おおおおおおひかひかりとかげに!
夜の街は昼の街とはまるで様相を変え、別世界のようだった。まるで。昼間あんなに沢山の車が通っていた道路も、まるでがらんとしているし、見渡す限りまるで人っ子一人いない。ぼくは道路の真中を一人白線を辿って歩いた。両脇に立ち並ぶ様々な光の塔には蛾が集り、天に架かる透過した橋は月光に照らし出されている。この世界を手にしたようにぼくは胸が高鳴った。
いいや、手にしたのだぼくは、この夜を。オリオン座を! きらきらとエメラルド色にこの街は輝いている。そしてこの街は美しく彩られた卵をどこかで産んでいるに違いない。のでした。涼気立つ夏の夜の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、ぼくは歩き出した。
よんでくださったかたがいましたらありがとうございました。