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特殊事案発生

 ボクを「変な人」呼ばわりした女性は、思い切り背を反らせて伸びをして、乱れたショートの髪を無造作に撫でつけた。

 なんだか、猫が起き上がって身繕いしている姿を連想させる仕草だった。

 掛布団代わりにしていた、軍用シェルパーカの下は、ゆったりとした長袖のTシャツ。それをカーゴパンツにたくしこむ事無く、裾を外に出している。ボクは、何でもズボンにたくしこまないと気が済まないタチなので、こうした着方はできないし、しない。

 何時の間に動いたのか、斎藤がカップとソーサーをもって女性の脇に立っていた。斎藤は図体が大きいくせに、動くときに音を立てない。

 彼女は、斎藤の方も見ずにカップだけを受け取り、その中身をすする。香りからして、珈琲のようだった。

「うえ、まずい」

 掌でカップを包むように持ちながら、そう毒づいて立ち上がる。

 女性にしては長身だった。ほぼボクと同じくらいの背の高さだ。彼女が履いているゴツいジャングル・ブーツの分を差し引いても、百七十センチは優に越えているだろう。

 ボクの目を惹いたのは、彼女の右手だった。薄汚れた手袋をしていたのである。選挙の立候補者が街頭演説で着用しているような白い手袋を、洗濯しないまま使い続けている様な、そんな小汚い手袋を右手だけにしていたのだ。

「ここ、底冷えするのよね」

 そんなことを言いながら、軍用シェルパーカをカップを持ったまま器用に羽織る。そして、カップを左手に持ち替え、ボクから隠す様にポケットに右手を突っ込んだのだった。

 しまった、長く右手を見すぎたか。相手を警戒させるとは、ボクらしくなかった。

 何か、黒い影が走る。

 斎藤が、息を呑んで後ずさる。

 彼女の体を駆けのぼり、当然の様に肩に身を落ち着けたのは、真っ黒な猫だった。

 彼女の頬に頭を擦り付け、甘えた仕草をした後、翡翠色の眼をボクにむけて、一言「ニャア」と鳴く。

「何か、文句あるのか?」

 とでも、言いたげな様子だった。

「斎藤は伝鬼ちゃんが、苦手だね。そこの間抜けを連れて、帰りな。さもないと、けしかけるよ」

 そういえば、最初に彼女はボクを一瞥したきり、ボクに目すら向けていない。空気扱いだ。まぁ、空気扱いは慣れているけどね。

「ご冗談を! と……とにかく、新しい『盾』は本家の決定です。従って頂かないとなりません」

 あの小さな黒い猫のどこが怖いのかわからないが、斎藤は滑稽なほどの怯えっぷりだ。

「楯岡さんは、どうしたの?」

 形のいい唇をとがらせて、彼女が言う。

「昨年、一族の最後の一人が死にました。もう、楯岡家には何の力もありません」

 斎藤が、淡々と答えた。

「じゃあ、新堂さんは?」

 もう一口珈琲を含み、顔をしかめながら、彼女が質問を重ねる。

「一人だけ生き残っておりますが、まだ小学生です。それに、無事に成人するとは限りません。聞かれる前に言っておきますが、望月家も、喰代家も、鳶沢家も、あの『災禍』で死に絶えました。新しく姫様をお守りする『盾』が必要なのです」

 姫様と呼ばれた、肩に黒猫を乗せた女性は、一瞬泣きそうな顔になり、それが幻だったかと思わせる速さでその表情を隠した。

「私にはこの『斎藤伝鬼坊』がいるじゃない。それで十分よ」

 肩の猫に頬を寄せる。黒猫は翡翠色の眼を閉じて、甘えた仕草をした後、

斎藤に向かって一声鳴いた。まるで「そうだ」とでも言っているかのように。

「姫様は、当麻家の最後のおひとり。猫ごときに、任せるわけにはいかないという、本家の決定です」

 肩にいる斎藤伝鬼坊とかいう大層な名前の黒猫が、まるで斎藤の言葉を理解したかのように、威嚇声をあげる。

「うわっ! かんべんしてくれぇ! 私の言葉じゃないんだよ、そう言えと言われてるんだよ」

 巨漢が小さな猫に言い訳するのも、アレな感じはするけど、見世物としては面白い。

 女性と黒猫が、一緒になって斎藤を睨みつける。斎藤は、蒼白になって額にびっしりと油汗をうかべていた。ボクは、猫にすら無視された状態で、そのやりとりを見ている。


「なんだこりゃ?」


 これが、ボクの感想だ。

 突然、彼女のスマホのベルが鳴る。

 猫の音声を合成した、『猫を踏んで死んでしまった』という内容の有名な曲だった。有名な曲だけどその曲名をボクは知らない。なんでも、この曲は作曲者も発祥国も不明なんだってね。

「カガリちゃんから電話。事案発生らしいよ」

 そういえば、このパーテーションで区切られただけの部屋モドキには、デスクが三つある。一つがボク、一つが姫様、もう一つが『カガリ』と言う人のものなのだろう。

「仕方ない。いくよ間抜け。ついてきな」

 ボクには、新しく山本と言う名前をもらったのだけど、その名で呼ぶ気はないようだった。

 『間抜け』ね……

 まぁ、今のボクの立場は間抜けだから、的確ではあるね。

「私も同行したします」

 斎藤が、ペラペラのドアを開ける。ボクの監視を兼ねての事なのだろう。


 『事案発生』の現場は、西武新宿線新宿駅に近い雑居ビルだった。口から泡をふいた男が、包丁を持って雑居ビル内の店舗に客と従業員を人質に立て籠もったのだった。

 軍用パーカの裾をマントのようにはためかせ、姫様は徒歩で現場に向かっていた。肩には黒猫、その後ろに巨漢の斎藤を従えた姿は、周囲から浮くのではないかと思われたが、そうでもない。

 雑多にして多様な人々が行き交う新宿歌舞伎町周辺という空間のせいだろうか。

「カガリが鑑定してるけど、ほぼ確定らしいよ。現場の警官を下がらせる役目は任せたからね。あとは、本家に連絡。警察への根回しが必要になるから、よろしく伝えて。マスコミの情報統制も開始して。勇み足をしたバカは、構わないからひねりつぶして。あと……」

 歩きながら、姫様と呼ばれている女性はテキパキと指示を出す。他人に指示を飛ばし慣れている者の口調だった。

 

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