臨場と確保
アシヤンこと足利という将軍家みたいな名前の男が、駐車場に入ってきた。
この駐車場を横切るのが彼の家への近道で、スーパーで売れ残りの弁当を買ったあと、判で押したかのように、こいつはこのルートを辿る。
このうすら禿は、自分の通り道や行動パターンを変えないタイプらしい。
奈央が無言で、アシヤンに近づく。
一瞬だけ、アシヤンは驚いた顔をしたが、すぐにその顔は醜く歪んだ。
この男は普段、唇がぬらぬらと赤いだけで、その他は平凡な顔をしている。だが、この歪んだ顔こそこの男の本性だった。
「これは、これは、当麻の姫様。噂に違わず、実にお美しい」
そういって、恭しくお辞儀をする。
風間あたりがやれば、それなりにこのキザったらしい態度はサマになるのだろうけど、こいつがやっても、若禿の頭頂部が目立つだけだ。
「山本、殺しちゃダメだからね。生け捕りにするよ」
ダメ押しに、もう一度釘をさされた。そして、奈央はアシヤンの道化を無視した。お前なんか眼中にないと、態度で示したわけだ。
カチンときたか、アシヤンのぬらぬらと赤い唇がへの字に曲がる。
それにしても、なんであのうすら禿の唇は赤いのかね?
常に舌で湿らせているのだろうか? それとも、カラーリップでも塗っているのか?
まぁ、どっちにしてもキモチワルイのは確かだ。髭剃り跡が青々としているので、余計に目立つのもキモチワルイ。
アシヤンが、弁当が入っている買い物袋を投げ捨てる。
小さく畳んで持ち運び出来るエコバックというやつらしい。普通の人間なら、躊躇ってしまうような猟奇殺人を犯しておきながら、地球に優しくしているなんて、なんだか変な感じだ。
アシヤンは、軽く拳を上げて顔の前に構える。『ピークアブースタイル』という、ボクサーの構えだ。足は踵を上げた、いわゆる『猫足』になっている。これらを総合すると、多分こいつは、ムエタイかキックボクシングを齧っていることが予想された。
トントンと軽くステップを踏んで、リズムを取っている。
奈央は半身になり、右足を前にしてやや踵を浮かせ、後ろに引いた左足を踏みしめている。こいつは『べた足』といって、素早い動きを阻害する悪い例と言われているが、古流剣術だとこういう構えをとる流派もあるらしい。
ボクは、あまり詳しくないけどね。
奈央は『当麻流腰ノ周』という、彼女の家に伝わる組打ち術を使う。
奈央の左手は腰のあたりに。右手は、手の甲をアシヤンに向けて顔の前に。これが、当麻流の構えの一つなのだろう。
凛とした立ち姿。ただ、構えているだけなのに、なんと美しい姿なのか。古流に懐疑的だった、アメリカの格闘術教官に見せてやりたいくらいだ。
キュッと、アシヤンの靴底が地面に擦れて鳴り、前蹴りが飛んできた。
伸ばされたアシヤンの足の長さの分だけ、フワッと奈央が後退する。ベタ足なのに、軽やかな動きだった。
スキップするように、アシヤンが前に詰め、斜めにローキックを叩き込んでくる。
まともに受ければ、足の骨が折れる角度だった。
だが、奈央は蹴りの風圧に流れたかのようにその蹴りを躱した。
アシヤンは止まらず、今度は軸足をスイッチして更に前に出て、右肘を撃ちこんできた。前に掲げた右手で、奈央がその打撃を流した。
感心したのは、動きながらも奈央の体の軸がブレないこと。
まるで、熟練のダンサーの舞でも見ているかのようだった。
コンビネーションを全部躱されて、アシヤンが距離をとるべくステップバックする。
このうすら禿のキモ男も、なかなか動きがいい。シャープだ。
アレの信奉者とか追随者とか言われる連中は、潜在能力のリミッターが外れる傾向にあるらしい。アレの憑代のストックを兼ねているわけだから、憑く前から力の行使に慣れておくという意味もあるのだろうと、言われている。
アシヤンや、現在拘束中のタムラは、身体能力の向上。
タムラは筋力が並外れていた。アシヤンは、どうやら反射神経が強化されている様に見える。
そうした者どもと生身で戦うための技術が連綿と伝えられてきたのが、『当麻流』なのかも知れない。
アシヤンが、また軽くステップを踏み、リズムを作る。
奈央は、かまわずズブリと間合いを詰めた。同時に、牽制の前蹴りを放つ。すんなりと長い奈央の右脚は、想像よりグンと伸びたのだろう。
一瞬だけ、アシヤンの動きが止まった。
カクンと下方に、奈央の蹴りの軌道が変わったのはその時だ。狙ったのは、アシヤンの膝。膝を正面から踏み抜きにかかったのだ。
タムラ確保の時にも奈央が使った蹴りだが、危険な蹴りだ。フルコンタクトの空手などでも禁止されている技である。だが、当麻流ではそうではないらしい。たしか『蓮華砕き』とかいう技名だったか。
咄嗟にアシヤンは奈央の意図を読んで、狙われた右脚の膝を上に持ち上げた。ローキックなど、脚を狙った蹴りを躱す際に、キックボクサーやムエタイの戦士が使う『受け』の基本形だ。足を浮かせることで、受ける衝撃を逃がすのだ。
奈央の膝蹴りは、更に下方に動き、「ズン」と地面を踏みしめる。まるで、中国拳法の『震脚』と呼ばれる動作に似ていた。
膝蹴りはフェイント。奈央の狙いは、突き刺すような右腕の正拳突きだった。
ただの正拳突きではない。ぞるぞると奈央の右腕の紋様がほどけ、黒い炎をまとったかのように見える突きだった。対鬼用の技らしい。
アシヤンは片足を上げた姿勢から、意外なほどの柔軟性を見せた。思い切り上体を後ろに反らせたのである。
そのまま、バク転する。体操選手のタンブリングのように二度三度と回転しながら、奈央と距離を取る。
「あははは! すごいぁ! 当麻流、初めて見ましたよ。『踏鳴』から『虎噛』。噂には聞いていましたが、肝が冷えました。でも、遅い。そんなんじゃ、私は捕まりませんよ」
新宿御苑の罠やタムラの時にも感じたことだが、やはり相手は奈央を研究している。そして、対策を工夫してきているのだ。
奈央が珍しく舌打ちする。相当イラ立ってる証拠だ。
「きゃあ!」
悲鳴が上がった。
子犬を連れた中年の女性が駐車場に入ってきて、二人の闘争を見てしまったのだ。
不運なのは、アシヤンに近い場所から、彼女が駐車場に入ってきたこと。
アシヤンが跳ぶ。奈央も駆けたが間に合わなかった。
人が来ない様に警戒線を貼っていたはずなのに、警察は何をやっているのか?
あ、そうえば、ボクも警察官だったっけ。
アシヤンが、棒立ちの女性の背後に素早く回って、彼女の首に腕を巻く。
細身の女性だった。
アシヤンのような、『信奉者』ならマッチ棒でも折るように脛骨を粉砕できるだろう。
もはや、これまでか。ボクは、ショルダーホルスターのM29のグリップに手を掛けた。
この至近距離なら、女性を盾にしていても、貫通してアシヤンも撃てる。世界一強力な四四マグナムなら可能だ。
少し考えて、ズボンの裾をめくる。そして、アンクル・ホルスターに収まっているS&W M640を抜いた。ボクのバックアップ用の小型リボルバーだ。
使用する弾によって、いくつかバリエーションがあり、ボクが使うのは、RL22という小口径ライフルの弾を使うバージョンだ。
威力はM29のマグナム弾とは比べようもない豆鉄砲だが、リボルバーのくせに八発と装弾数が多い。ボクはジャムる……弾が引っ掛かって作動不良を起こすこと……ことがあるオートマチック拳銃より、弾数は少ないが作動不良が起こりにくく、強力な銃弾を撃てるリボルバーを好む傾向があるらしかった。
ボクの役目は、姫様の盾。九ミリパラべラム弾をバラ撒くより、狙い澄ました必殺の銃弾を叩き込む方が理にかなっている。
だが、今回のケースは、制圧。『潰す』・『壊す』が目的ではない。それゆえ、小口径で殺傷力の低いM640を選択したわけだ。
人質を取られた瞬間から、明らかに奈央の動きが悪くなる。
ある程度のコラテラル・ダメージは仕方ないと、割り切ることができないのだ。
それは美徳である。奈央の優しさだ。だが、大きな弱点でもある。事実、今現在それを逆手に取られていた。
「ここまでです。ボクがやります」
奈央の肩に手をかけながら言う。
彼女は、焼け火鉢にでも触れられたかのように、ビクンと体を震わせた。
「殺してはだめ」
眼を、ニヤニヤ笑うアシヤンから離さずに、言う。
「了解です」
ボクは一歩前に出る。ボクの手には、小さなS&W M640 が握られていた。
それを構える。
「人質も救出するのよ」
ボクの背に向って奈央が囁くように言う。
焦ったような、その奈央の声がボクの耳朶を撃ち、ゾクゾクと痺れが背中を走った。
いいね。実にいい。この声で、彼女の命乞いを聞いてみたいものだ。誇り高い奈央のことだ、決して命乞いなどしないだろうけど、だからこそ聞いてみたい。
「お前が、新しい『盾』か。主様に手傷を負わせたらしいな。タダではすまんぞ」
―― 手傷
ボクの胸中にあった、モヤモヤが蘇る。
深夜の新宿御苑の罠。爆煙を貫いて、ボクの四四マグナムは、奈央を罠に誘い込もうとしていた『児取鬼』の腕に命中した。
カスタマーセンターの従業員の中で、腕を吊った男がいなかったか?
最後まで、ボクたちの乗った車に視線を送っていた男だ。
細身の男だった。酷薄な薄い唇をしていた。新宿御苑の男。フードに隠れて顔は見えなかったけど、その唇の形だけは、爆炎に照らされて見えていた。
アシヤンを見る。
奈央のつま先から、胸にかけて、舐めるように見ている。こいつは、欲望に忠実なだけのうすら禿の馬鹿だ。
群れの頭である『児取鬼』の立場になって考えてみる。そう、捨て駒にするなら、こういう男がいい。
そして、都合よく出現した中年女性。
奈央の事をよく研究している敵。
敵にとって、不確定要素はボクの存在だ。だから、新宿御苑では奈央を仕留め損ねた。今度は、確実を狙う。
人質になっている中年女性を見る。
脅えていた。脅えは『恐怖』。だけど、ボクほど本物の『恐怖』の表情を見て来た者はいない。だから、分かる。この中年女性は、恐怖を演じているだけだという事を。
奈央に続き、ボクにも無視されたうすら禿のアシヤンが苛立つ。
ボクなら、反応を引き出すために、人質を傷つける。アシヤンはそれをしない。こいつが馬鹿だということを差し引いても、違和感がある。
中年女性と目が合った。
ボクの目に中に何を見たのか、彼女は慌てて視線を外した。決定的だった。
「ボクを信じて頂けますか?」
奈央に言う。
「何を?」
不安そうな、奈央の声。この声もいいなぁ。
「ボクは、人間のクズです。死んだ方がいい人間です。でも、貴女といる限り、ボクは光の中にいます。『正義』とか『悪』とか、そんな曖昧なものではなく、ボクの指標は貴女なのです。暗い海に彷徨う船であるボクを繋ぎ止める碇が貴女なのです。だから、ボクのこれからの行動は、貴女のために行う事です。それを、信じてくれますか?」
なんて、長いセリフだ。それに、これはまるで愛の告白みたいじゃないか? 徹頭徹尾、自分にすら興味が無いと、軍事教練の教官にすら気味悪がられた、ボクらしくない言葉だ。
「いいよ。信じる」
奈央の言葉に迷いはなかった。そういった、彼女の『善』の部分は、彼女の弱点ではあるけれども、ボクはそこに惹かれているのかもしれない。
ボクが『惹かれる』ということは、奈央にとってはよくないことだ。ボクはいつか、彼女を殺してしまうかもしれない。
「お前ら、何を……」
奈央とボクとを交互に見ていたアシヤンが何かを言いかける。
ボクの手の中のM640が火を噴いたのは、その瞬間だった。