風魔の焔
オフィスに戻ったボクは、異変にすぐ気が付いた。
奈央の右手から流れ出た、黒い紋様は彼女の右手を中心にこのオフィス全体に広がっていて、白目を剥いて口から泡を吹いている金子なんかは、怪談の『耳無し芳一』みたいになっていた。
さすがに、風間もスカした態度で無関心を装うことは出来なく、ボクのS&W M29と同様『曰く因縁のある』銃、コルトM1911を構えていた。
「感情に任せて、術式を解放するから、こんなことになる。これ以上『暴走』したら、当麻の姫様といえど、撃つしかないぞ」
その言葉を聞いて、ボクもM29をショルダーホルスターから抜いた。
銃口は奈央にではなく、風間に。
「くそ! このサイコ野郎!」
風間は毒づいて、左手をボクに向けた。機械音がして、彼の袖口から飛び出したのは、ワルサーPPKだった。世界一有名な英国のスパイが持っている銃だ。映画で見たことがある。
なるほどね。神奈川県警の特殊事案担当だけあって、ボク同様に予備の拳銃を所持しているわけね。
風間は、コルトM1911を奈央に、ワルサーPPKをボクに向けた形で膠着している。
「かんべんしてくれ、山本! 今の状況が、どんなにヤバい状況か、分かっているのかよ」
ボクは、返事の代わりに、撃鉄を起した。
風間は、こっちを見ていなかったけど、その音は聞こえただろう。苛立って、舌打ちをしている。
「分かっているよ、風間。君は今、奈央に銃を向けている。ボクは君の手首を見ている。そこに、少しでも力が加わる様子が見えた場合、世界一強力な銃がきみを吹き飛ばす状況だよ」
思わず、風間がこっちを見た。「正気か?」という顔だった。そして、ボクの顔に何を見たのか知らないけれど、わずかに『恐怖』の感情が揺らめいているのが見えた。
いいね。実にいい。この気に入らないスカした野郎が、僅かにとはいえ、恐怖を見せるとは……ね。
こうしている間にも、奈央の右手から流れ出ている様に見える、黒い紋様は、いくつも枝分かれして、まるでジャングルの軍隊蟻を思わせる律義さで、壁を這い、床を蠢き、天井を伝う。
「ああ、畜生、まずいぞ……このままじゃ『封魔の術式』じゃ、抑えきれなくなる」
当麻は『退魔』、風魔は『封魔』というわけか。
自分たちの役割を、あたかも旗印のように苗字に埋め込んだのは、言霊の持つ『そうあれかし』と願う心の効果を期待しているのかもしれない。
まぁ、ここまでくると、オカルトのこじつけっぽいけど、自己暗示の一種と考えれば納得がいく。
「風間を撃ってはダメよ、山本。もしも『狭間』が開いてしまったら、塞ぐことが出来るのは、こいつだけだから」
風間の源流である風魔一族の歴史は、後北条こと北条早雲の頃に遡るらしい。当麻一族ほどではないが、それなりの歴史があるのだ。
風間や斎藤が『鬼』と呼び、奈央が『アレ』とか『モノ』とか呼ぶ事案対策には、血によって積み重なった実地の経験が必要ということか。
なんだか、ボクだけが蚊帳の外みたいで、あまりいい気分ではない。こと、特殊事案に関して、奈央は風間に信を置いているということなのだから。
「思ったより、金子の『業』が深くて、引きずられちゃった。こいつ、アレとは関連ないけど、近似値みたい。馬鹿だと思って、油断したわ」
奈央の声が苦痛に歪んでいる。その苦痛が長引く様に、急所を外して奈央にM29を撃ちこみたい。そんな願望がボクの胸に浮かんでくる。
この、世界一強力な銃は、人を攫って人里離れた森に放ち、ハンティングしていた殺人犯が、その人狩りに使用した銃だ。このM29には、死がラードのようにべっとりと染みついている。風間のM1911同様、曰く因縁がある銃。その銃が、まるで生命を持ったように、ボクの手の中で脈打っているかのよう。
「飲まれるな、山本。その銃を、飼い慣らせ」
苦痛の最中であるにも関わらず、奈央がボクを見てそんな言葉を言った。
ああ、なんて事だ。内なる願望を見られてしまった。奈央はまるで妖怪のサトリの様に、ボクの心の中を読んでしまう。
それが、気に入らない。
それが、嬉しい。
それが、憎い。
それが、愛おしい。
銃は、銃。単なる鋼鉄の道具に過ぎない。
だけど、一種異様なこの空間にあって、ボクが所持しているM29の本来の姿が見えたような気がした。
飢えている。もっと撃って、殺せと叫んでいる。無防備な風間と奈央を前に、舌なめずりしている。
ボクは相手を撃つことに、何の痛みを感じない。自分に銃口を向けてトリガーが引いても、何の感慨もない。つならない死に方だなぁと思うだけ。
だから、この呪われた銃はボクを所有者として選んだのだ。
人斬りに憑かれた刀を『妖刀』と呼ぶが、この銃は言わば『妖銃』みたいなものなのかもしれない。
ありったけの意志の力を集めて、風間に向けた銃を下ろす。撃鉄は、ゆっくりと戻した。
安堵のため息をついて、風間がボクに向けたワルサーPPKを袖口にひっこめる。
「くそっ、肝が冷えたぜ」
そう言って、風間がポケットから取り出したのは、銀色のオイルライターだった。
「封魔の術式を展開する。当麻の姫さんよ、こいつは、貸しだぜ」
左手だけで器用にオイルライターのキャップを開ける。カキンという、軽快な音がした。
車輪状のフリント・ホイールを親指で回転させる。火花が散り、小さな爆発が起きた。ライターにしては、大きな炎が上がる。
それは、拳大の青白い火の玉になって、フワフワと風間の周囲を漂っていた。
「風間家の源流である風魔一族は、『火攻め』を得意としていた。火を自在に操ることが出来たのさ。風魔の一撃には炎が宿る。これぞ風魔の術式『火焔呪』。魔を封じ、穢れを払うは古来より『火』なりってね」
青白い炎は、吸い込まれる様に風間が構えたM1911、通称『ガバメント』の銃口に消える。
M1911が、微かに燐光を放っているかのように見えるのは錯覚か?
否、奈央の黒い紋様と同様、見えた通りの現象が起こっていると考えた方がよさそうだ。
「よし、『狭間』を封じるぜ。恐怖に喰われるなよ。心を強く持て、サイコ野郎」
両足を踏ん張って、風間がM1911を両手保持で構える。
狙うのは、奈央から流れ出た紋様が重なり合う南側の壁面。奈央と風間が話していた『狭間』とやらだろう。
警察の専門用語でも戸惑ったが、特殊事案の専門用語も教えてもらわなければなるまい。
未だ声も聞いたこともなく、姿を見たこともないカガリちゃんが、用語集を作ってくれるといいのだけど。
それにしても、大げさな構えだと思う。風間はまるで、手持ちで大砲でも撃つようなスタンスだ。
M1911は四五口径。反動は大きいが、推定ではあるけど身長百八十五センチ、体重八十キログラム弱の風間なら、片手撃ち出来るはず。
「タイミングを合わせて。三、二、一でいくよ、風間!」
風間の準備が整ったのを見て、奈央が言う。
チリッとした感情の漣がボクの胸に走る。
これが、嫉妬の感情なのだと気が付いたのは、ずっとずっと後の事だった。
じれったいほど慎重に照準を定め、やっと風間は頷いた。
苦痛に耐えているような顔のまま、奈央がカウントダウンを始める。
「三……二……」
奈央が、金子の頭から手を離す。
「一!」
金子の脂ぎった頭から、奈央が手を離すことによって、何の変化が起きるのかボクにはわからないが、とにかく、幾重にも紋様が重なる南側の壁面の紋様の重なる一点に向けて、風間はM1911を撃った。
その、発砲音は、ボクの知っているM1911ガバメントの発砲音ではなかった。
巨大な太鼓を巨人がぶっ叩いた様な、大音響だった。思わず、口を開いてしまう程。
砲口付近にいる砲兵は砲撃の際、自分の鼓膜を守るため、耳を塞ぎ、口を開ける。
さすがに砲撃の訓練は受けていないけれど、知識として知っていたので、無意識にそうしたのかも知れない。
音もそうだが、反動も四十五口径の拳銃らしからぬ反動だった。
いわゆる『細マッチョ』の風間の両腕が跳ね上がり、体が後方にずり下がっていた。
大砲なみの音響と反動だが、銃口から噴き出す炎……マズル・フラッシュ……も、大砲並みだ。
音に痺れたかのように、奈央の紋様は震え、出鱈目な軌跡を描いて、ほどけてゆく。
これほど、大きな爆発がありながら、壁には傷一つないのが、不思議だった。
黒い紋様が消えてゆく。
精緻な刺繍がほどけてゆく様子は、こんな風に見えるのだろう。
「一匹、すり抜けた!!」
風間が叫ぶ。
小さな黒い靄。それが、チョロチョロと床を走るのを、ボクも見た。
風間が、再びポケットからオイルライターを取り出す。
キャップを指で弾いて開き、フリント・ホイールを擦るが、火花は散っても焔は生まれなかった。
風間から、恐怖と緊張の匂いがする。焦っているのだ。あの、ドブネズミ程度の大きさの黒い靄を恐れている。
「くそっ! 続けて施術なんざ、出来るか!」
風間は疲れ切っているように見えた。心なしか、やせ細ったかのようだ。
以前、奈央から説明を受けた事柄を思い出す。
ボクには、具体的な恐怖のイメージが無いので、特殊事案のアレらが黒い靄に見えるのだと。
風間には、あの黒い靄が何か別のモノに見えているのかもしれない。彼が嫌悪する対象か、恐怖を抱いている対象に。
黒い靄は戸惑うかのように、床の中央でもぞもぞ動き、部屋の隅に転がっているボクが倒した若者を見つけると、一直線に、そこへ向かってゆく。
「間に合わない!」
せっかく解けた黒い紋様を、再び稼働させて砲を編みながら、奈央が叫ぶ。
風間の消耗ぶりを見ると、特殊事案のアレを討つ『術式』とやらは、何度も実施するようなものではないようだ。体に悪そうだし。
黒い靄は、気を失っている若者の口をこじ開け、口腔内に潜り込んだ。
「うえ……」
その様子を見て、風間がえずく。
昏倒していた若者は、ビクンと一度だけ跳ねると、カッと目を見開いた。
ただし、その目に瞳はなく、白目を剥いた状態だった。
そして、物理法則を無視し、踵を支点に、ふわりと立つ。
こんな立ち方、体操選手でも出来やしない。
「わ……」
若者が口を開いて、何かを言おうとした。
白目を剥いたままなので、昔見た『居合使いの盲目の剣士が活躍する時代劇』の映画をボクは思い出していた。
同時に、S&W M29を構える。
構えた時には、もう撃っていた。
四四マグナム弾の轟音が響く。若者は、口を開いただけで、何も言葉を紡ぐことが出来ず、後ろに吹き飛んだ。
胸部の中央を撃ちぬいたので、肺は潰れ、心臓は肉片に変っただろう。人間なら、即死だ。
人間なら……ね。
だけど、こいつらが、しぶといのは学習済だ。
もう一発撃つ。致命傷を負いながら、若者は立とうとしていた。その頭部を撃った。
至近距離から撃ちこまれたマグナム弾は、右の眼窩から入り込んで、脳をスープ状に撹拌し、後頭部に大穴を開けて中身を飛び散らせる。
若者の体から、小さな黒い靄が飛びだしてきた。それを踏みつけた。
実体化している様だ。この状態なら、この世界の物理法則に従うのだったね。
足で押さえつけておいて、M29を床に向けて撃つ。
黒い靄はぐねぐねと動き、まるで命乞いでもしているようだ。
もう一度撃つ。
更にもう一度。
止めにもう一度。
スピードローダーで、撃ち尽くしたM29のシリンダーに再装填する。
多分、二秒を切ったはず。
『再装填をもっと早く』
……は、自らに課したテーマだった。
腕の骨折は、装填中に攻撃を受けたのが原因だったのだからね。
撃鉄を起す。
シリンダーと、シリンダーを回転させる歯車が噛みあう。
四四マグナム弾が、発射位置で止まった。
そして、撃つ。
一発、二発、三発、四発……
ボクの肩に誰かが触れた。
見なくても分る。奈央だ。彼女の汗の匂い。松脂のような体臭。肩にかかる力。苦痛に耐える奈央の顔が、脳裏にフラッシュバックする。
シリンダーには、二発の弾丸が残っている。
奈央を撃ち、その血の中に身を沈めながら、自分の頭を撃ち抜くというのは、どうだろう?
ボクという壊れた人物を構成するに至った原因である壊れたボクの脳が、奈央の血の中を泳ぐとき、世界は何色に見えるのだろうか?
ボクは唇を噛んで、その痛みに縋りながら、ゆっくりと撃鉄を戻した。
「終ったよ、山本。もういい」
奈央の声。ボクの肩を掴む彼女の指に力が入った。
渇望の残滓に震える手で、ボクはM29をホルスターに戻し、肩を揺すって奈央の手を振り解いた。
黒い靄は、ボクの足の下で断末魔の震えを起していて、やがて動かなくなり、消えた。
まるで、幻影のように。
軍隊仕込みの格闘術で、ボクに挑んできた若者は死んだ。
金子は、テーブルの上に突っ伏したまま、口から泡を吐いている。
これは、特殊事案の一環。
奈央が責任を問われることもないし、勿論、報道もされない。




