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恐怖を感じない

 『当麻たいま』だって? たいまって何だ?

 浮かんだ疑問は「たいま」という、耳慣れない単語だった。

 たしか、神奈川県相模原市にそんな地名があったような気がする。

 あとは相撲の始祖と言われる『野見宿禰のみのすくね』と戦った『当麻蹴速たいまのけはや』とか、そんなものしか連想できない。

 そんな事をぼんやりと考えている間、老婆と大男は、ボクの事を見ていたようだ。老婆はますます嫌悪の表情を強くし、大男は好奇心をその荒削りな顔に浮かべていた。

「では、うぬに任せる。わしは忙しい」

 老婆は、見た者が卒倒してしまうほどの憎悪の表情をボクに向けると、白い部屋から出てゆく。今、気が付いたのだけど、彼女は葬式で着るような墨染の留袖を着ていた。顔ばかり見ていたので、服装にまで気が回らなかったらしい。

「お葬式ですか?」

 老婆を見送ってのボクの第一声はそれだった。

 びっくりしたのは、ボクの声は肺病を患っているかのような掠れ声になっていて、ちゃんと発音できなかったことだ。

「君は、喉に損傷を受けていて発声が出来ないんだ。無理にしゃべらなくていいよ」

 大男は、ベッドの近くにまで来て、床に腰を下ろした。

 それで、やっとボクとは顔の位置が同じくらいの高さになったのだった。

 ボクの身長は百七十五センチ、体重は丁度七十キログラムだ。大きくもなく、小さくもない。太っておらず、痩せてもいない。そんな平均的なボクと比べると、圧倒的な肉体の存在感をこの男は持っていた。

「私のことは、そうだね、斎藤と覚えておいてくれたまえ。少し、君の置かれた状況について話そうか……」

 斎藤と名乗った男は、見上げる程の大男で、仏師見習いが習作で彫った仏像の顔の持ち主であるにもかかわらず、案外優しい声の持ち主だった。あの憎悪剥き出しのおばあさんより、よっぽど話やすいかもしれない。

 もっとも、今ボクは話すことができないのだけど。

 同意を示すために頷く。それだけで、擦り傷が出来た首が病衣に擦れて痛い。

「君は、死刑を執行されて、法的にはこの日本には存在していないことになっている。だが、今こうして私と話しているのは、君が特別な体質を持っているからなのだよ」

 死刑執行の数日前、ボクは警察病院で精密検査を受けた。どうせ、もうすぐ死ぬ人間に、ずいぶん無駄なことをするなぁと思っていたのだけれど、そのことを言っているのだろうか?

「神経科学の話で、私もたいしてくわしくないだがね」

 そう、一言断ってから、斎藤はボクも知らないボクの体質について話し始めた。

「脳にはアドレナリンという神経伝達物質があって、それを受け止める交感神経受容体というのがあるんだよ。そのうち、β受容体というやつに君は先天的な欠陥があって、うまくアドレナリンを受け取れないらしんだよ」

 斎藤が語っているのは、彼が科学者から聞いた説明の受け売りだろう。その証拠に、彼の視線は左下を向いている。会話の記憶を探っているとき、人は左脳が働き目線は左下に流れる。

「ええと……β受容体というのは、激しい感情の記憶を司っていて、PTSDなどの治療ではβ受容体をあえて遮断する薬を投与したりするんだったかな? つまり、君は『恐怖』を感じにくい体質なんだよ」

 ここから先は、すこし眉唾ものだが、そのβ受容体を遮断することで『恐怖を感じない究極の兵士』をアメリカが研究しているとか。本当かね?

「これから、君が関わることになる『特殊な事案』には、この『恐怖』が大いに関係していてね。薬品投与でアレすると、倫理的にアレなので、うむ。まぁそういうことだ」

 急に説明が腰砕けになってしまったが、当人を前に「君は実験動物だから」とは言いにくかったのだろう。斎藤は、見かけよりだいぶ人がいい。

「数日は、ここで傷の治療。その後、『特殊な事案』に対抗できるようにトレーニングを積んでもらうことになる。とりあえず、後のことは任せて、ゆっくり休養してくれたまえ」


 ボクは恐怖を感じないらしい。


 そういえば、クローゼットの中に怪物がいると思ったり、ベッドの下に悪い事をした子を食べてしまう鬼がいたり、そんな類のことは考えたことがなかった。

 夏になると、急に出番が多くなる痩せぎすの髭面の男の話も、全く怖いと思った事がない。

 単に絶望的なレベルで想像力が欠如しているだけかと思ったら、何と脳の障害とはね。

 ボクは、異様に『死』という概念に執着があった。それは、なぜだろうと思っていたのだけれど、案外このβ受容体の障害がその答えになるのかも知れない。

 『当麻』、『姫様』、『特殊な事案』、『トレーニング』、こちらから質問が出来なかったので、これらの疑問をぶつけることは出来なかった。

 だがいい。ボクは、本来死んでいたのだ。今は余生のようなもの。人生がリセットされたのだ。

 今後のことは、傷を癒しながら、ゆっくりと考えればいいことだ。

 あ、そういえば、今、ボクはボクが殺害した人たちの記憶を反芻していない。刑務所に入ってから、初めてのことかも……


 健全なことに、ボクは殺しの記憶を反芻しないまま、数日を過ごした。死ぬと思っていたのが、生かされることになった。それが、ボクに何か変化をもたらせたのかも知れない。

 ボクは、二十三人もの人々を殺した。居なくなっても気が付かれ難いような人々ばかりを殺していたのだけど、ボクのような殺人鬼に殺されなければならないような理由など、無い人たちでもあった。

 死刑が執行されたことで、その罪は消えたのだよと、面会に来てくれた斎藤は言ってくれたけれど、それは違うとボクは思う。ボクはいずれ報いを受けなければならないし、ボクに殺された人の魂は、ボクを決して許さないはずだ。

 残念なことにボクが罪悪感に苛まれることはないのだけれど、世界の理としてボクは許されてはならないと思うのだ。

 罪は消えないが、傷は消える。首の擦過傷は消え、ボクは声を取り戻した。退院ということになるのだが、ボクは斎藤によって、黒い麻袋を頭からかぶされた。音からして、多分ワンボックスカ―だと思うのだけど、それに乗せられ、飛行機に乗せられたのだった。

 飛行機は、小型ジェット機というやつで、金持ちが自家用ジェットとして使うガルフなんとかという、有名な飛行機らしい。飛行機に興味がないから、名前を聞かされてもどうしても覚えられない。

 飛行機の中で、ボクは袋を外され、まるでファーストクラスのような内装を見ることが出来たのだった。

 斎藤の他に、同じようなごつい体つきの男が三人いて、無表情で座席に座っていた。

 座席は、四人対面式のボックス席が四つ。

 斎藤は、ボクの隣のボックスに一人で座っていて、ボクはごつい男三人と一緒に座っていた。

 席が余っているのだから、そっちに座ればいいのに。

 ボクは、そう提案しようとしたが、やめた。どうも、何か話をする雰囲気ではないからだ。よく、空気が読めないと言われるボクだが、それでもわかるほどの緊張感が機内には満ちている。

「これから、トレーニング場に向うのだが、その前に寄るところがあるんだよ。君の相棒を決めないといけないからね」

 斎藤はそれだけを言った。親切そうな口調だが、内容は全く謎めいて親切ではない。


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