蘇生と白い部屋
法務大臣の認可が下りて、ボクの死刑判決の日が決まった。
最後の晩餐に、死刑囚のリクエストを聞いてくれるというのは本当だった。だけど、良く考えたら、ボクには好物というものは存在しなくて、ボクにとっての食事は「味を楽しむもの」ではなく、単なる活動エネルギーの補給に過ぎなかったのだった。
だから、刑務官には「普通の夕食でいいです」と答えたのだが、相当珍しいのだそうだ。
また「懺悔したいならボランティアの宗教者を呼ぶ」と言われたのだけど、それも断った。
ボクが悔いるとするなら、なぜ捕まるようなドジを踏んだのか、それだけだったから。
淡々と処刑場に向う。
執行官は複数いて、同時にスイッチを押すそうだ。彼らの押すスイッチのどれか一つが本物のスイッチで、他のスイッチはダミーなのだそうだ。
これは、犯罪者とはいえ人間を一人殺す手助けをしてしまったという心理的圧迫から刑務官を救うための処置なのだという。
ボクから見ると、本当にくだらない仕組みだった。そんなにスイッチを押すのが嫌なら、ボクに押させてくれればいいのにと思ったけど、まぁ押させてはもらえないだろうね。
日本の死刑のシステムは『絞首刑』だ。首に縄が巻かれ、足場が刑務官の押すスイッチにどれかに反応して外れ、死刑囚は足場の下に落下する。
十三段の階段があるというのは俗説だ。見苦しく抵抗する死刑囚が居た場合、階段があると刑務官に余計な労力を強いるので、刑場に段差はない。
ボクは足場の上に立ち、首に縄が巻かれる。刑務官は公務の一環として死刑を執行するわけだが、あまり気持ちのいい仕事ではないだろうなぁと同情する。
あぁ、そうか……ボクは刑務官になればよかったのではなかろうか?
でも、自分の好きな時に『死』を見ることができないのか。それはいやだなぁ。
そんなことを考えていたら、ボクの足場がガタンという音とともに消失した。
首にかかる圧力。
光がボクの目に飛び込んで来る。
眩しかった。ただ、眩しいばかりだった。
そして世界は暗転した。
ボクはタールの海に沈んでいた。
手も足も緩慢にしか動かないのに、水面は遥か頭上に有って、ボクの肺は酸素を求めて震え、手足は粘性の海を必死にもがいている。
これこそが、生命への執着。金持ちも貧乏人も、有能な者も無能な者も、老いたる者も若き者も、男も女も、皆が等しく持っている根源的な『死』への恐怖でもある。
ボクは、それに憑かれた男だった。人間の根源の観察者だった。一見、浅ましいと思えるこの生命への執着こそ、死の恐怖の根源であり、人間の剥き出しの本性だ。ボクはいま、その体現者になっている。
遠くから、声が聞こえた。
ボクは連続殺人鬼というボクの殻を破り、本能の赴くまま死に抗おうとする純粋な人間になっている。声などは、忌むべき雑音に過ぎない。邪魔だ。
もうすぐだ。もうすぐ、ボクはボクが殺した多くの人々と同じく、抗うことを止め、死を受け入れる『神に最も近づく瞬間』が訪れる。
必死になってその手に掴んでいた生命を手放す時、人は皆なぜか安堵の表情を浮かべる。
ボクはそれを多く見て来たのだけど、もちろん体験するのは初めてだ。
声が聞こえる。なんということだ。この瞬間を邪魔されるとは。
声が聞こえる。電圧がどうのこうのとかいう声だった。
声が聞こえる。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。
声が聞こえる。お願いだ。邪魔をしないでくれ。
声が聞こえた。若い女性の声だった。全く感情のこもっていないその声は、
「蘇生しました」
……と、いう声だった。
気が付くと、ボクはベッドの上に横たわっていた。首が痛い。首から耳の後ろにかけて、斜めに擦過傷が出来ている。そうか、ボクは絞首刑を受けたのだった。
指を動かす。ちゃんと動いた。手首を動かす。ちゃんと動く。こうやって、身体の末端から順番にチェックしてゆく。大事故に遭って、意識を失い、覚醒した時に行うチェック方法がこれだ。骨折や、損傷があった時はそれでわかる。痺れや無感覚も要注意だ。
だが、ボクの体は首の擦過傷以外、怪我をしていないらしい。胸部が少し痛む。打撲の様な感じだ。見れば掌状の痣があった。
ボクがいるのはガランとした広い個室で、白一色の壁。窓はない。
一つしかない扉はどう見ても鋼鉄製で、個室というよりは広い独房といった方が近いかもしれない。
どうやらボクは死に損なったらしい。死刑が執行された後のことなど考えもしなかったので、何をしていいのか分からないのが困った。
歩き出すとき、右から足を出すか、左からか、その程度のことで迷う。何かの映画に、主人公が見えない足場を歩くシーンがあったが、感覚的にはそれに近い。確たる拠り所がないのがこんなに不安になるとは、実に意外だった。
今から死ぬと言われて、実は生きているとしたら、人はどうするだろう。ボクはどうしたか?
ベッドに腰掛けて頭を抱えただけだった。
終わるはずだった人生だ。長い間、ボクの心に住み着いていた『死』への執着からも解放されるはずだった。困惑と混乱で思考がフリーズしない方がおかしい。
何時間、ボクは頭を抱えてベッドに腰掛けていたのだろう。頭の中が真っ白で、何も分からない。時計もないので時間の経過すらわからなかった。
視界の端に白以外の色彩を確認して、目を上げる。
大型冷蔵庫に黒いスーツを着せたような大柄な男が一人。
皺くちゃで縮んでしまったかのような老婆が一人。
その、奇妙な取り合わせの二人が、鋼鉄製の扉の前に立っていた。
ボクはこの二人がいつ、この広い独房の様な白い部屋に入ってきたのか、分からなかった。ボクは他人の気配に、人一倍敏感なのに。
「こやつか?」
猛禽の目でボクを見ながら、ボクから視線を外さずに老婆が言う。木と木が擦りあわされたようなかすれ声だった。
「はい」と、言葉短に答えたのは、大柄な男だ。顔はまるで、仏師の見習いが習作で彫った仏像みたいな顔をしていた。
ボクは多分、呆けたような顔をしていただろう。突然の闖入者に、ボクの混乱には拍車がかかっていたのだからね。
「虫唾が走るわ。こやつ、人の皮をかぶった鬼ぞ」
そんな老婆の言葉は、ボクに向けられた評価だろう。まぁ、ボクは連続殺人『鬼』だから、概ねこのおばあちゃんの言葉は間違っていない。
「なればこそ、姫様の『盾』にふさわしいかと」
ボクを目の前にして、ボクの処遇が決められているみたいだった。ようやく、ボクの脳は回転を始めていて、状況を把握し、どうすればボクにとって有利に展開するか、観察をはじめていた。
「鬼を魅了する『当麻』の血か。おぞましや」
判断材料が少なすぎて、何もわからないが、死刑が執行され、死んだことになったボクを何かに使うつもりなのだ。
そんな、超法規的なことが出来るのは、国家権力しかない。そして、それはどうせロクなことではないと相場は決まっているものだ。
書き溜めた分、放出してみました。
胸くそ悪い主人公ですいません。
ヒロインはまだ出てきませんが、以降、ごひいきのほどを。