交換条件
神社で普通にやっていた『柏手』。これには、本来『邪気を払う』という呪術的な意味合いがあった。
文様を刻んだ奈央の手が放つ音は、実際に魔を退ける作用があるのか、魅入られそうになっていたボクを引き戻してくれた。
「これで、貸し借りナシだからね」
ボクは、結界を踏み越えそうになった奈央を止めた。そのことを言っているのだろうか。彼女は、なんでもワリカンにするタイプなのかも知れないね。メンドクサイ……
「彼奴の情報を、教えてもいい。それに見合う、対価が支払われれば」
奈央と同じ顔、同じ声の磔の女が言う。
なんだか、それだけで、チリっとした苛立ちがボクの胸に小さな漣を起こす。フラットな精神が身上のボクにしては、珍しい心の動きだった。
「内容によるわね」
奈央が冷たく言い放つ。
「そう、難しいことではない。私は、退屈で、退屈で、退屈で、仕方ないのだよ。話相手が欲しい」
磔の女―― 美央 ―― の視線が私に流れた。奈央からは想像もできないほど、妖艶な眼だった。
「そこにいる、君の『盾』とサシで話がしたい」
奈央の眉間にしわがよる。もともと美しい顔立ちだけに険が立つと、身震いが走るほど凄味があった。
「ダメ。コイツはまだ知識が浅いの。『結界破り』に使われてはたまらないもの」
磔にされている美央の顔が変わる。懇願の顔つきだった。これもまた、奈央からは想像もできない顔である。ゾクゾクとした電気がボクの背中を走った。
「誓う。企みとか、そういったものを抜きで、この人物個人に興味があるのだ。こやつは、実に珍しい」
闇色の眼。寸分たがわぬ双子の視線がからまる。
片方は憎悪に燃えて。片や欲望に濡れて。
「とにかく、情報を話せ。そこからだ」
黒檀の扉を潜って外に出る。
途端に、ボクの腕にさぁっと鳥肌が立って、悪寒と眩暈を感じていた。これが、いわゆる、『毒気にあてられた』状態なのだろう。
「具合は大丈夫?」
奈央が、黒檀の扉を文様が刻まれた右手で撫でながら言う。
扉の輪郭はぼやけ、壁の一部に戻ってゆく。まったく、この女性と行動していると驚きの連続だ。
「ちょっと、気分が悪くなりましたが、大丈夫ですよ」
奈央が鼻で笑った。
「まぁ、多分大丈夫だと思ったから、ここに連れてきたんだけどね。ビビリの斎藤は、ここから這う這うの体で転がり出て、一週間寝込んでしまったのよ」
斎藤はいつも奈央と会うとビクビクして怯えているが、こうした経験の積み重ねが原因なのだろうね。
「もらった情報は、根岸と共有しないとね。ミーティングといきますか」
すぐ隣にある異界。
無意識に人々が避けて通っている『負のパワースポット』である廃校から出る。
今気が付いたけど、この廃墟には『落書き』がない。本物の忌地には、脳みそがドングリ程度の馬鹿でも近寄らないのかも。
いつの間にか、時刻は夕方になっていた。
あの奇妙な空間にいたのは、ほんの一時間程度だと思っていたのだが、六時間近く経過していることになる。
時間の流れすら歪むか。魔、恐るべし。
我々が向かったのは、永田町にあるシティホテルだった。
議員会館や公務員の官舎がある場所で、新宿とは全く異なる『お堅い』感じの町だ。
そのシティホテルは明らかにビジネス用のホテルで、大理石風の床や飾り気のない内装がそれを物語っていた。
そこで待っていたのは、警視庁捜査一課特殊犯捜査第一係の根岸という刑事だった。若い女性を連れている。
セミロングほどの髪を後ろにひっつめただけの髪型。
パンツスーツ姿。
肌は剥きたての茹で卵のように白い。
年齢はかなり若く見える。二十台前半といったところか。
機嫌はあまりよくないらしい。目つきが鋭いのと、唇に力が入っていることから、それが分かる。
無表情を装っているが、歯をかみしめているのだ。それが、口角や首筋に出る。
指輪はなし。独身者だろう。地味な装いで化粧気もないが、服装を変えてばっちりメイクすれば化けるタイプだ。
だが、比較対象が奈央というのは、可哀想だろう。化粧も何もしなくても、表情を作らなくても、道行く人が思わず見惚れてしまう奈央が異常なのだ。
「珈琲でもどうです? ここの珈琲はまずいですけど」
根岸がハンサムな顔に蕩ける様な笑みを浮かべて、そんな事を言う。いちいち言葉の裏に毒があって、メンドクサイ。
「それじゃ、私はブレンド。山本も同じでいいよね」
ボクの内心の苛立ちに気が付いたか、奈央の左手がボクの肩に触れた。当麻の姫様は、なかなか鋭い勘働きを持っていらっしゃる。
「そちらは?」
珈琲を二つオーダーし、そのついでといった口調で、根岸警部の隣で緊張している若い女性に目線を向ける。
その、若い女性が怯んだのを感じる。奈央の闇色の眼を見たか。
「連絡係を務める堀田巡査部長です。若いが優秀な子ですよ。お見知りおきを、当麻の姫様」
堀田巡査部長がぺこりと頭を下げた。
「さっそくですが、報告です。堀田君」
根岸警部が、彼女を促す。彼女はキャンバス地の質素な肩掛け鞄から、書類を取り出して、ガラステーブルに並べた。
緊張のあまり、手が震えていた。根岸警部に何を吹き込まれたのだろうね。




