結界
黒檀製らしきドアを開けると、内部は天井の高い二十畳ほどのガランとした空間だった。
壁面にも天井にも床面にも、奈央の右腕に刻まれている文様とよく似た図柄が偏執狂的な丹念さでびっしりと書き込まれている。
この空間の中央には、聖アンデレ十字架を思わせるバツ字の十字架が立っており、そこには裸形の女性が磔にされていた。
ボクがこれを死体だと思ったのは、磔にされている女性の胸部を斜め上から下方にかけて一本、腹部を地面に平行に一本、左足の太腿に下方から上方に向けて一本、槍のような、錫杖のような、奇妙に儀式的な武器で貫かれていたから。
その女性を中心に正三角形を描くようにして、座禅を組んだミイラが三体、死してなおこの女性を睨みつけるように坐していた。
ああ……そして見よ、彼女の右腕を。奈央と同じく、蔦がからまったようなタトゥがある。
「そう、これは、かつて私の姉だったモノ。その身に『大災厄』を封じ、三体の即身仏、三本の聖槍とともに、永遠にこのままここで生と死の間をさまよい続ける運命」
奈央が唇をかみしめていた。
拳を握り、首には体に力が入ったことを示す筋が浮き出ていた。
これらは、全て『怒り』のサインだ。彼女は今、烈火のごとく怒っている。
「一年も放置するなんて、ひどすぎる」
磔にされている女性が、顔を上げた。彼女は驚くほど奈央に似ている。そうか、姉妹と言ったが、双子だったか。
「美央の声を使うな!」
歯を食いしばったまま、奈央が言う。
「無理を言うな。この『檻』に私を封じたのは、お前らだろう。ご丁寧に当麻の結界まで張りおって」
くつくつと笑いながら、磔の女性――美央といったか?――が奈央と全く同じ声で言った。一卵性双生児。奈央と美央はそれだ。
「せめて、姉姫様の魂だけでも残しておいてくれれば、退屈しなかったのに。ああ……そうだったね。妹姫様が、彼女の魂を因果の彼方まで吹き飛ばしてしまったのだったね」
思わず一歩踏み出して、奈央が叫ぶ。
「黙れ!」
髪の長さは異なるが、奈央の顔と全く同じ顔をしている磔の女の表情が動いた。意地の悪い、暗い笑みを浮かべたのである。
ボクは、奈央の肩に手を載せた。
奈央が、条件反射のように裏拳を飛ばしてくる。
拳はボクの顔面にぶち当たった。痛い。とても痛い。
「あ、ごめ……」
憤激にかられていた、奈央が一瞬冷静になる。
ボクは、彼女の肩に乗せた手に力を籠め、ゆっくりと後ろに引く。
奈央のつま先は、磔の女を囲む三角形の一辺から、わずか十センチのところにあった。
『結界』と、磔の女は言った。
それは境界線を示し、それを踏み越えるとたいがい問題が発生するものだ。
ボクは、殆どの人が知らない現実にある異界に足を踏み入れて日は浅いが、なんとなくヤバいと感じたのだった。
「それが、君の新しい『盾』かね? なかなか面白い素材だ。以前見た、あの力みかえったアナクロ野郎よりずっといい。彼は剣術使いだったが、今回は拳銃使いか」
奈央と同じ顔の女が、今度はボクに眼線を向けてきた。
見えない触手で、頭の中を探られているかのような、不快感があった。
「深いな。こいつの抱えている闇は深い。まるで底なし沼じゃないか。我々の眷属だと言っても、通用するぞ」
まぁ、ボクは連続殺人『鬼』だからね。似たようなモノという評価は、概ね正しい。
「なるほど、なるほど、執着の欠如がコイツの強みか。新しいアプローチだね。今度はいつまで保つか、私と賭けないか?」
奈央はもう挑発には乗らなかった。たしかに、彼女は直情型だが馬鹿じゃない。
「児取鬼を知っているだろ? 何せ、大江山の酔いどれより古く、ほんの数年前まで自由に闊歩していた用心深いお前だ。目立つ行動する同胞の動向は把握していたはず。なぜ一年も息をひそめていたのに、急に捕食活動を活発に始めたのか、教えてくれないか?」
奈央と全く同じ顔が、軽蔑の笑みを浮かべた。
「同胞? 同胞といったか? われらは、純粋な願いの結晶。あんな、穢れた願望の集合体と一緒にされたくないね」
今度は、奈央が軽蔑の笑みを浮かべる番だった。
「区別なんてない。あんたと、児取鬼は大同小異だよ。まだ、二十二本目の矢に執着する斎藤伝鬼坊の方が、可愛い」
ざわざわと、磔の女『美央』の床にまで届く長い髪が、蛇のようにうねる。なんだか、ギリシャ神話にいたね、こんな感じの。
―― お お お お お ――
一斉に、三体の即身仏が呻く。重低音から始まったその音は、やがて途切れの無い弦楽器の高音へと変ってゆく。
これは、聞いたことがある音だ。ホーミーとかいう、モンゴル騎馬民族に伝わる、発声方法に良く似ていた。
気が付いたら、ボクはS&W M29を抜いていた。
意識しないで、こいつをホルスターから抜いたのは、多分初めてだ。
奈央と寸分たがわぬ美央の顔が、ボクを見て微笑んでいた。
ボクの中の危険な何かが、ゴソリと身動きした。
今度は、気が付いたら撃鉄を起している。
鼻の奥に、硫黄の香りがした。
「私を、撃ちたいんでしょ? いいよ。撃って」
ボクの耳に奈央の声がした。いや、美央の声だったかもしれない。まぁ、どっちでもいいけどね。
本当か? ボクは本当に撃ちたいのか? 人間は撃ったらすぐ死んでしまう。
ボクの持っている銃は、S&W M29。
発射する弾丸は、四四マグナム弾。
世界一強力な銃だって、映画の中で汚い仕事をするハリーって名前の刑事が言っていた。
こんな、死に方は奈央にはふさわしくない。
苦しんで、苦しんで、苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて死んでくれないと、困る。
『パン』
音がした。
ボクは、慎重に撃鉄をもとに戻していた。
戻し終わった時、どっと汗が流れた。葛藤に打ち勝った反動の様なものだったかもしれない。
奈央が合掌していた。
あの音は、奈央が手と手を打ちあわせた音だった。ボクはそれで、一種の催眠状態から現実に引き戻されたようだ。
軽い眩暈があった。葛藤の残滓に震える手で、M29をホルスターに戻す。ボクはボクを自分の意思で動かすのが好きだ。誰かに、コントロールされたり、誘導されたり、示唆されたりするのが、大嫌いなのだ。
「撃ったりしてはだめ。コレと『縁』を結ぶことになるよ」
なるほど。結界を破る方法の一つが、結界外から誰かを接触させる事というわけか。理解した。




