表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/58

うつ伏せで入院

 気が付くと、床が見えていた。

 ボクは、マッサージ店で見かけるような、うつ伏せに寝るためのベッドに横たわっていて、額と顎と頬骨で頭を支える特殊なドーナツ状の枕から床を見ていたのだった。

 全身がだるいのは、麻酔の影響だろうか。

 背中がカッと熱を持っているみたいで、むず痒い。掻こうと思ったら、左手はがっちりと固定されていた。

 軽い混乱状態から、意識が覚醒する。

 新宿御苑で追跡中の特殊事案の犯人と交戦し、負傷したらしい。

 軍事訓練のおかげで、爆発時の対応が出来た。そうでなければ、臨場二回目でボクは殉職となるところだったろう。

 背中が掻けないのも困ったが、それよりも涎が垂れ流しになっているのが実に恥ずかしい。

 SMの世界では、こういった羞恥を煽る責苦があるらしいけど、ボクにはその傾向がないので、ただ単に床に唾液を垂らすことが、生理的に受け付けないだけだ。

 そんなことをぼんやり考えていたら、また涎がたれてきそうだったので、あわててすする。なんだか、バカになった気分だった。

「あ、起きてたんだ」

 声がかかる。

 奈央の声だった。

 病室にいたのか。気が付かなかった。彼女はよく居眠りをするが、実に静かだ。まるで死んでいるかのように。

 多分、ボクがいるこの病室で、ボクがだらしなく涎を垂らしている近くで静かに居眠りしていたのだろう。

 起き上がろうとすると、背中が引き攣る。そして激痛が走った。

 辛うじて、呻き声は上げずに済んだ。

「動かない方がいいよ。三十七針も縫ったんだよ、背中」

 背中が傷だらけだったということだ。

 コンクリートやアスファルトだけでは、こんな傷にはならない。

 おそらく、ネジや釘がばら撒かれていたのだろう。それが、散弾のように飛び散ったわけだ。

「そっちの怪我は?」

 呼吸を整え、普通の声が出せるようになるのを待って、聞く。

「倒れた時についた擦り傷程度」

 あの状況でほぼ無傷か。なかなか悪運の強い姫様だ。不自然なほどだ。

 黒い猫。斎藤伝鬼坊の事が頭に浮かぶ。飛来するガラス片のベクトルが変わったのを思い出した。

 あの黒い生意気な毛玉が、奈央をまた守ったのだろうか。

「伝鬼ちゃんが、飛来する物を打ち落とせるのは、最大二十一個までなんだ。だから、君が盾になってくれなかったら、私は死んでいたかもね」

 なるほど。それを知っていて、あの仕掛けか。敵は奈央のことを研究している。

 だが、ボクという予想外の因子が加わった。たった一発しか当たらなかったけれど、銃弾も浴びた。計算が狂ったんだね。


 その後、『児取鬼ことりおに』は逃げ、ボクは緊急搬送された。

 体から破片を抜き取り、洗浄消毒され、背中に空いた多数の穴を縫われた。

 ボクは昏々と眠りつづけ、なんと十二時間も寝ていたという。時差ボケもあっただろう。帰国後ぶっ続けで勤務して疲れていたというのもあるかもしれない。

 体がズキズキするのは仕方ないとして、頭はすっきりとしていた。

「起き上がりたいんですけど、看護師さんを呼んでいただけますか?」

 手の届くところにナースコールがなかったので、仕方なしに奈央に頼む。

 何せ、ボクには床しか見えないのだからね。いっそ、手に握らせてでもしてもらえないと、ナースコールを見つけられない。

「喉が渇いたし、腹も減りました。それに、この姿勢はうんざりです」

 奈央が、ボクの右手のすぐわきにあったナースコールを押してくれた。間もなく看護師が来るだろう。

「そうだった。水差し、あるよ」

 ごそごそと奈央が動く気配がする。

 ベッドの下を覗き込むようにして、奈央が吸い口がついた水差しを差し出してくる。

「いや、いいです。看護師さんにやってもらいますから」

 床に流れ落ちている涎を見られるのが、なんとなく嫌だったし、顎と頬骨と額を固定された間抜けな顔を見られるのも気にいらなかった。

「遠慮しなくていいんだよ、山本」

 奈央が床に手をついて、這いよってくる。

「だから、いいですって。床、きたないですよ」

 奈央の手が、床の涎に触れた。

 くそ、だから、言ったのに。

 だが、奈央は顔色一つ変えずに、ボクの口に水差しを差し出している。

 ずっと下向きだったボクの唇から、一筋の涎が垂れてしまった。吸い口を差し出す奈央の手に落ちる。

 情けなくて、恥ずかしくて、泣きたい気分だった。

 だが、奈央は嫌な顔一つせず、

「気にしなくていいよ。水をお飲み」

 と、まるで別人のような優しい声で言う。

 この時のボクの心のザワつきは何だったのだろう。ボクは素直に吸い口を咥え、水を飲んだ。

 喉は紙やすりでも当てたかのようにカラカラに乾いていたので、水道水でもまるで甘露だった。

「もういい?」

 なんだか言葉が出なくて、ボクはコクンと頷いた。

 タオル地のハンカチをポケットから出して、ボクの口を奈央が拭ってくれた。ハンカチは、ほんのりと松脂と柑橘類の匂いがした。ギムレットの香りだ。

「何か、すいません」

 打ちひしがれた気分で、なんとか声に出たのは謝罪だった。

「気にするな。バカ」

 ボクはその時、カラッとした奈央の声に救われた気がしていた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ