ギムレット
奈央は気安くゴリの胸に掌を当て、上下にさするようにしながら言った。
「いいじゃない。こいつはこう見えても堅気の警察官だよ」
ゴリは、ヤニさがるどころか、顔色を失って怯えているようだ。
「店長にきいてみないと……」
などと、口ごもっている。
「四四もってる警察官なんざ、聞いたことないですぜ」
汗が一条、こめかみから顎に流れる。
彼の体からは恐怖の匂いがした。この片手で奈央を捻り殺せそうなこの男は、本気で彼女に怯えているのだ。
「それじゃ、貸しひとつ作ったってことにしない? 当麻家に貸しを作るって意味、よくわかるでしょ?」
ゴリはこの一言で折れた。……と、いうことは、彼は当麻の家の事を知っているのだ。ボクは、今までこの店に何の興味もなかったけど、俄然好奇心が頭をもたげてきた。
奈央がこの店にこだわる理由も、ボクは知りたい。
謎多き麗しの姫様の情報収集は、実に楽しい。
薄暗い店の内部は、ボクにはあまり理解できない騒音のような音楽と、光の洪水、タバコの煙と、酒の匂い、若い男女の汗と混じったコロンや香水の匂い、笑い声、欲望、あからさまな異性へのアピール、そういった物が混然としていて、渦巻いている世界だった。
フロアには、大勢の男女が体をくねらせて踊っていたのだけど、各々が自分の世界にひたっているだけで、同じ時間と同じ場所を共有しているという連帯感みたいなものは希薄だ。
『孤独の集合体』
そんな感じに見える。
奈央は器用にそのくねり踊る集団をすり抜けながら、バーカウンターに近付いて行った。
結構必死に後を追う。
何人かとぶつかってしまったが、ぶつかられた当人たちは、ボクの方に目すら向けなかった。
なんだか、彼ら、彼女らが動くオブジェに思えてきたよ。面白い空間だ。
奈央はカウンターによりかかり、フロアに目を向けていた。
彼女に踊る気はなさそうだった。
軍用シェルパーカ、カーゴパンツ、ごついジャングルブーツという、ここではかなり浮いた格好だが、完全にリラックスしている。
かく言うボクだって、紺色のスーツの上下だから、完全に浮いているわけだけどね。
奈央の隣に立って、同じようにカウンターに寄りかかり、フロアを見る。彼女が見ている風景がどんなものか、見てみたかったのだ。
「ここは、誰も他人を気にしない。こんなにうるさくて、人がいっぱいいるのに、その他大勢の中に埋没できるでしょ? だから、好きなの」
奈央がボクの耳に唇を近づけて、言う。そうでもしないと、声は隣にいる人物にすら届かない。
彼女の吐息が耳朶を打ち、背中がゾクゾクする。ボクは、もともと性に関しては淡泊なのだけど、この異様な風景に刺激を受けてるのだろうか。
こともあろうに、正体不明の姫様に欲情するとは。
「ようこそ、いらっしゃいました」
この騒音の中、指向性マイクでも使ったかのように、声が私に通る。
振り向けば、カウンターの内側に、白いワイシャツ、蝶ネクタイ、黒いスラックスに黒のベストという格好のバーテンダーが立っていた。
役者かと思えるほど、整った顔をしていたが、目を閉じている。位置を確認するために、そっと指をカウンターの内側に滑らせている。
そう、彼は盲目なのだ。
「久しぶりね、石田君。元気だった?」
丁度、静かな音楽に変わったので、奈央の声が聞きとれた。まだ、耳の中に騒音の残滓が残っているようで、ワーンという耳鳴りがしていた。
「おかげさまで」
そういって、つつましやかに石田と呼ばれたバーテンダーが笑う。
奈央の顔は、まるで乳飲み子を見る慈母のようだった。ボクや人間の方の斎藤に向ける顔とはまるで別物だ。
「いつもので?」
石田が問う。
「いつもので」
奈央が答えた。
「お連れ様は?」
そう言われて、『お連れ様』とはボクのことだと気が付いた。
「同じものを」
カクテルも酒の種類も疎い。まったく興味ないから。
そういえば、ボクは左手を骨折しているのだけど、アルコールは大丈夫なのかという考えが一瞬頭をよぎったが、まぁいいか。
石田は、盲目とは思えないなめらかな手つきで、キンキンに冷えたジンの瓶を冷凍庫から取り出し、計量カップに注いでシェイカーに入れる。続いて、櫛形に切ったライムらしきものを二つ絞ってシェイカーに入れ、リキュールらしきものを少量シェイカーに加えた。最後に、氷の欠片を入れて蓋をする。
シェイカーが振られた。きれいな八の字を描いて、手首が柔らかく振られている。
いつの間にかショートカクテル用の脚高のグラスが二つ用意されていて、そこにシェイカーの中身が注がれた。
「ギムレットです」
グラスの脚の部分を小さく指ではじいてから、右手で奈央の方に、左手でボクの方にグラスをカウンターに滑らせるようにして、差しだしてくる。
「山本、細かい氷が解けちゃう前に、飲み干すんだよ」
そう言って、奈央がグラスの中身を放りこむようにして飲む。
もともと、精緻な美しい人形のような奈央の横顔だ。クラスに口を付けた姿は、昔のフランス映画のワンシーンの様だった。
奈央に言われた通り、グラスを傾ける。
松脂のようなジンの香りが鼻に抜ける。続いて、ライムの清涼感が舌を走る。シャリシャリと細かい氷が溶け、ほんのりとした甘味が舌を慰撫する。これは、リキュールの甘さだろうか。
思わず、舌鼓が鳴った。実に旨い。余韻の甘さまで、切れ味のいい短編小説のように、ストーリーがあるのだ。
「ね? おいしいでしょ? 本物のギムレットよ」