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乾の護り

 有線放送から流れるBGMだけが、スピーカーから鳴っていた。

 ボクは音楽にはくわしくないので曲名はわからないが、なんだか女の子がいっぱい出てくるグループの曲だと思う。

 キンキン声で、同じフレーズのリフレイン。どこが良くて人気があるのか、ボクにはさっぱりだ。

 姫様は、『うさぎっ子倶楽部』と書かれた店舗に、無造作に入ってゆく。

 ここは、店員があられもない姿で性的なサービスを行う類の店のようだ。名目上は、飲食店。といっても、ドリンクが出るくらいのものだ。客も飲食が目的ではない。

 姫様の肩の上で、黒猫がにゃあと鳴く。さすが、動物。かすかな血の匂いを嗅ぎ取ったようだ。ボクも血臭に気が付いたところだった。

 誰かが息を殺して、こっちを窺っている。

 血の匂いが濃厚になってきた。

 糞尿の臭いが混じってくる。

 そして、人間が恐怖を感じた時に発する、酢酸に似た匂い。

 ボクは、背広の前ボタンを外した。


 『うさぎっ子倶楽部』とかいう、脱力してしまいそうな名前の店の内部は、カーテンで二人掛けのソファーと小さな机という空間を仕切ったような作りだった。

 二十畳くらいのフロアに、ソファは八つ。そこに、カウンターと、バックヤードが付いている。

 店内は薄暗い。遮光カーテンが窓にかかっているのだった。

 キンキン声のBGM。カタカタと音を立ててミラーボールが回っていた。

 通路には、黒いスラックスに赤のチェック柄のチョッキを着た男が倒れていた。ざっくりと深く喉が切られていて、そこから大量の血が、安っぽいパンチカーペット張りの床に流れていた。

 姫様は、軍用シェルパーカの裾を跳ねて血溜まりを避け、屈んで倒れている男の切られていない方の首筋に左手を伸ばして、脈を診た。そして、微かに首を振る、男は死んでいたようだ。

 ボクは左右に四つずつ並んだカーテンで仕切られたスペースのうち、左側の一番奥に注目していた。

 息を殺した泣き声がそこからしたからだ。

 ボクは、男の死体に片手拝みを送っている姫様の肩をたたいた。

 もちろん、斎藤伝鬼坊が居ない方の肩だ。指でも喰い千切られたらたまらないからね。

 物問いた気に振り向いた姫様に、ボクは一番奥のカーテンの仕切りを指差すことで注意を喚起した。

 姫様は『分かっている』という風に頷き、黒猫は掬い上げるように、上目づかいにボクを睨んだ。まるで、不良の『メンチキリ』だ。 

 姫様は、ここで初めて右手を軍用シェルパーカから出す。あの、小汚い手袋は外されていた。

 そして、軍用シェルパーカごと、右手を腕まくりしたのだった。


 ボクが、姫様の右腕に見たのは、複雑な文様が絡み合う、タトゥだった。植物の蔦が絡まっているようなそのタトゥは、姫様の右手を埋め尽くすように、びっしりと指先まで刻まれていた。

「何をするのか、知らされてないんでしょ? 実際見せてあげる。心を平静にね。さもないと、『喰われる』わよ」

 姫様は、一番奥のカーテンをめくる。

 そこには、ほぼ裸の女性がいて、その首を後から抱えるようにして立つ男が彼女の背後にいた。

「くるな!」

 その、怒鳴った男は、ぷくぷく口から泡をふいていて、まるで蟹だ。

 目は血走っていて、しかも逆上しており、顔が真っ赤だった。典型的なジャンキーの様相だ。彼は今、極端な被害妄想に囚われているのだろう。

「ごめんね。もう、あなたは助けられないの。そこまで深く入ってしまうと、もう無理」

 姫様がそう言うと、微かに震えていた男の手が止まり、顔色も普通に戻り、口の泡もとまった。

「そうか、ここは『新宿』だったね。居心地が良すぎて、すっかり失念していたよ」

 落ち着いた声で、男が言う。あのジャンキーの様子が演技だったというなら、アカデミー賞ものの演技だ。ボクは本物の麻薬中毒者だとばかり思っていたのだから。

「さすが『都のいぬいの護り』当麻の姫だ。簡単に見抜かれてしまったね」

 男が、もうこれは必要ないとばかり、ほぼ半裸の女性を突き飛ばす。

 その女性は、三歩よろめくように歩くと、ふわりと地面に落ちた。骨も肉も全て抜き取られ、皮だけになっていたのだった。

 男の顔が笑みの形に歪む。ボクが見た中で、これほど楽しくなさそうな笑みは初めてだ。

「ほら、『砲』を編んでみろよ。私の階梯は従四位だぞ。六十秒はかかるんじゃないのか?」

 男が、かぱっと口を開ける。まるで、浄瑠璃の人形じみた動きだった。

 口からは、ゾロゾロと黒い甲虫があふれ出てくる。

 嫌いな人は死ぬほど嫌いなその虫は、あっという間に『うさぎっ子倶楽部』の床を埋め尽くして、ボクや姫様の足を這い上がってくる。

 その時、ボクが感じていたのは、虫に触られたら汚いなぁという事だけだった。

 口から虫が出てきたことは不思議だったけど、なんか、手品でも見ているようで、現実感に乏しい。

 そんなことより、よっぽど男の演技力のほうが、素晴らしかった。お金を出して、あのジャンキーの演技が見られるなら、二千円までなら惜しくない。

「当麻に幻術は効かない。そういう家系なんだよ。知ってるでしょ? これで、十秒無駄にしたよ。貴重な十秒だよ」

 姫様は、タトゥだらけの右手を男に向けていた。奇妙な事に、彼女の右手のタトゥがまるで生き物の様に蠢き、解け、筒のようなものを形成しつつあった。

「当麻の『魔砲』。精神体だろうが、物質体だろうが、因果の果てに吹き飛ばす、出鱈目な術か」

 床に転がった瓶の欠片が宙に浮く。狙いを定め鎌首をもたげた蛇のように、数瞬ゆらゆらと動いたかと思うと、ヒュンと空気を裂いて飛ぶ。

 まっすぐ、姫様の方へ。

 ボクは特殊効果を使った立体映像でも見ているような気分で、奇妙すぎるこの攻防を眺めていた。軍事キャンプでも、こんなことは教えてくれなかった。

 ボクが学んだのは、ボクのショルダー・ホルスターに収まっている巨大な銃の撃ち方と、武装した相手を制圧する方法。その他、様々なサバイバル術だった。

 口から虫を出したり、手も触れずにガラス片を武器にしたり、そんな相手は想定されていないのだ。

 姫様は、動かない。

 ボクには、何が起きているのかわからないが、男が言うところの『砲を編む』間、彼女は無防備になるらしい。

「伝鬼坊!」

 姫様が叫ぶ。

 彼女の肩から、小さな黒い影が走る。

 すると、ガラス片は向きを変え、床や天井に突き刺さったのだった。

「天流『矢斬り』か! 小癪な!」

 罵りながら男が一歩前に出る。

 ボクはここで、一種の観客気分から急に覚醒した。ボクの本来の役目を思い出したのだ。

 姫様を守らないと、ボクは殺処分されるんだっだ。

 こんな、面白い見世物を見ることが出来るなら、もう少し生きていてもいい。ボクはそう思っていた。

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