三途の川の黒猫とメイド
1.
「勝手に動物を拾ってくると、先生に怒られるぞ」
「え~、でも……」
ある時、海近くの孤児院に住むミコトが、黒猫を拾ってきた。それが全ての始まりだった。
孤児院の院長(通称、先生)はあまり動物が好きでなく、拾ってきても、返してきなさい、と怒られるのが目に見えていた。
「この子、一人ぼっちで可哀そうなんだもん……」
少女は眉をハの字に曲げて、ささやかな抗議をする。腕に抱えられた黒猫が、ニャーと鳴いた。どうやら捨て猫のようだ。毛並みはどこか薄汚れてボサボサだし、腹が減っているのか動きが緩慢である。
「それでも、先生に怒られるぞ」
「でも……」
そんなやり取りが何回か繰り返されると、さすがにユウも折れて、秘密に庭の隅で飼うことにした。
それから毎日、ミコトはこっそり牛乳を取ってきては、黒猫に与えた。幾日か経てば、猫は艶やかな毛並みを取り戻して、よく彼女に懐くようになり、少年は庭の隅で黒猫とじゃれて楽しそうに笑う少女の姿を見るたび、拾ってきて正解だった、と思わず微笑むのだった。
だが、その一週間後、事件が起きた。
その日は台風が最接近しており、昼食後だというのに、空は夜のように真っ暗だった。その上激しい風が窓ガラスをガタガタと叩き、天井からは雨水が滴っている。
「怖いね……」
ミコトが呟き、周りにいた幼い子供たちも頷いた瞬間、空がピカリと光り、轟く雷鳴が孤児院全体を揺るがせた。少女はビクリと縮こまる。
「ミコトは怖がりだなぁ」
ユウが笑うと、半ば涙目になりながら、そんなことないもん!と彼女は頬を膨らませる。
「ただ風が吹いて、雷が鳴ってるだけじゃねぇか。よく耳を澄ましてみろよ。ただの自然現象だって」
ほら、風と雷以外は静かなもんだろ、と少年が言おうとする。
ニャー……――
そのとき、猫の鳴く声が聞こえた。
嵐の中、裏口の方から、その声だけがハッキリと聞き取れた。
「……ミャーちゃんが、呼んでる」
ミコトの耳にも届いたらしく、彼女はノロノロと裏口へと歩いて行く。
「おい、ミコト?まさか外に行くんじゃないよな?」
「だって、ミャーちゃんが呼んでるんだよ?台風で寒いって、一人で怖いって」
そう言って彼女が戸を開くと、猛烈な風が吹き込んできて、壁にかかっていたカレンダーがもぎ取れそうな程バタバタ激しくはためいた。外は雨と雲のカーテンが覆い尽くして雷以外の光は見えない。
いや、それ以外にも、一対の光る物が見えた。
ニャー……――
土砂降りの中、猫はこちらを見て、佇んでいた。
「ミャーちゃん、寒いよね。大丈夫だよ。私が傍にいてあげる」
しかし、ミコトが土間に降りると、猫はゆっくりこちらに背を向け、雨の降る中に溶け込むように歩いて行った。
「ミャーちゃん……」
「待て、ミコト!何か様子が変だ!」
反射的に、ユウは後を追おうとした彼女を止めた。おかしい。あの猫は雨に打たれながらも、ちっとも気にしていないようだったし、普段あれほど懐いているのにも関わらず、ミコトに寄って来ようともしなかった。
そしてもう一つ。あの猫は確かに――笑ったように見えたのだ。その口元から、なにか不吉なものを感じた。
それでも、彼女は傘も持たずに表へと飛び出した。ばしゃばしゃと水溜りを踏んで、猫の後を追う。
「おい、待てって!」
慌てて長靴と傘を持ってユウも飛び出す。外の雨は酷いもので、傘を差していてもすぐにパーカーがずぶ濡れになった。それどころか、風で傘を持っていかれそうだったので、すぐ閉じて走った。
「ミコト!待て!」
必死で走るものの、風雨で目が開けられない。それでも、見失わない様に必死で追った。防波堤へと辿り着くと、こちらに背を向けてミコトが立ち止まっていた。いつもの透き通るような碧い海や空、白く燃える浜は見えず、真っ黒なうねりが防波堤の上部を舐めるように、寄せては返している。
「ミコト……?」
恐る恐る声をかけてみたが、全く反応がない。
「ミコト!」
今度は大きな声を出し、肩に手をかける。雨に濡れたTシャツがすっかり冷たくなっていた。それでも彼女は振り向かない。彼女の顔を覗き込んでも、ミコトの視線は一か所に固定されたままで、ユウに気付きもしなかった。少年は、おそるおそる少女の視線の先を辿ってみる。
ニャー――
防波堤の上には、薄ら笑いを浮かべる黒猫が居た。今度は見間違いではなかった。鋭い犬歯をむき出しにして、獣は確かに笑っていた。ふと、猫は満足したように、海の方を振り返る。丁度波が大きく引いた時だった。ただ、引き幅はあまりにも大きく、砂浜を覆っていた海水が遥か彼方まで吸い込まれるように、ゴゴゴと地鳴りを伴って退いた。むき出しになった砂浜へ、猫がヒラリと飛び降りる。
「あ、ミャーちゃん……」
ミコトもふらりと防波堤の階段に足を踏み出した。
「待てって、ミコト!」
彼女の手を強く掴む。大きく海面が後退した時は、大波が来る合図だと、先生がかつて言っていた。今度は、防波堤を大きく超えるような波が来る。砂浜に降りて行くなんて自殺行為だ。
しかし、ミコトは、ユウの手を振り払った。
「ミャーちゃんが呼んでる……」
完全な拒絶だった。思わず、少年は動きを忘れて立ち尽くす。彼の短い人生の中で、初めてのことだった。いつだってミコトはユウの傍に居て、たとえ少年が同級生と喧嘩をしても、「ユウ君は悪くない!」と味方してくれたりと、お互いに信頼し合っていた。だが初めて、伸ばした手は払われたのだ。
もはや、彼女の瞳には、黒猫しか映っていない。現在の執着は明らかに病的だった。拾った猫に夢中になるどころではなく、まるで悪夢の中にいるみたいだ。そして、この悪夢を見ているのは、少年なのである。
ユウの足が止まったその隙に、彼女は階段を駆け下り、灰色の砂浜を走る。前にいた黒猫が振り向いた。
ニャー――
闇の中で、目だけがギラギラと輝いている。黒い獣は大きく口を歪め、嗤う。ユウはグラリと眩暈を覚えた。本当にこれは夢なのではないか、と思った。
しかし、覚めない夢はない。
ゴゴゴゴと地鳴りを上げて、現実が地平線の彼方から迫って来た。それはあっという間に壁のようにそびえ立ち、波が押し寄せる。
「ミコト……」
ふらりふらりと階段を降りる。
――そんなところに居たら、危ないだろ、お前は本当に鈍くさいんだから。
雨でグズグズになった砂に足を取られながら、少女の元へと歩む。もう既に水の壁は眼前に迫ってきていて、蟻のような少年たちを見下ろしている。
「ミコト……!」
ユウは手を伸ばす。
それよりも早く、黒い濁流が二人を飲み込んだ。
2.
――場所は変わり、大広間では絢爛豪華な立食パーティが、催されていた。テーブル上に色とりどりの料理が並び、天井にシャンデリアが輝く。ガラス壁の外では、灰色の空と水面の、水平線で静かに混じり合う風景が、どこまでも続いている。
しかし、幻想的な場の空気は、どこか異様なものに満ちていた。
皆一様に純白のタキシードやドレスを纏い、百名程の人々が、それぞれ好きな料理を口に運んでいるものの、誰一人として口をきかず、そして何よりも奇妙なのが、全員表情を隠すような仮面をつけていた。給仕をするメイドたちも例外ではなく、全ての者が仮面を身に着け、黙して作業に取り組んでいる。きっとこの部屋の者は、仮面の下も無表情だろう。ただプログラムされているように食物を摂取し、給仕をする。
だが、その中で一人だけ異なる装いの者がいた。テーブルに腰掛け、近くの皿からザクロの実を数粒弄び、口の中に放り込む。
「さて、ペルセポネやっけか。冥界のザクロを口にした為に、冥界で暮らさなあかんようになったのは。ここも記憶を奪った上に飯を食わせるなんて、ヤクザやって真っ青やわ」
まぁ、私は何度もあの世に逝ってるから、別に良い(ええ)んやけどね、と黒にストライプのスーツを着こなす女性は呟く。見たところ20代後半である。彼女は、油断なく仮面をつけた人々を見回していた。近くにいた長髪のメイドが彼女の所作を見咎めたのか、ピタリと足を止め、無表情な筈の顔を歪ませる。仮面下の唇からは鋭い牙が覗いていた。だが、スーツ女はまったく気にしていない。
「居った」
人々は食事を終え、ゾロゾロと大広間から出て行く。彼女は机から飛び降りて、足元のキャリーケースを拾うと、人の波に逆らわずにスルリスルリと間を抜ける。そして、一人の少年の背後に立った。まだ背は140に達するか否か、やはり仮面をつけた黒髪の少年である。だが、彼女は声をかけない。少年も彼女に気が付くことなく、調子正しく廊下を歩く。客室の並ぶエリアへ着くと、少年はドアに手をかけ、部屋へ入る。そして、戸を閉めようとした瞬間、ガツンと手ごたえがした。ドアの隙間に、革靴を履いた足が差し込まれていた。
「こんにちは、ユウ少年」
彼が振り替えると、ドアの影から先程の女性が、部屋を覗き込んでいる。しかし、少年は驚きの声も上げない。
「ちょっと、失礼するわ」
勝手に入ってくると、女性はシティホテルのような簡素な部屋を見渡し、少年へと振り返る。密室に二人きりになった。彼は身じろぎ一つせず、女性のことなど見えていないかのように突っ立っている。彼女はしげしげと彼を観察して、うん、と頷くと、おもむろに持ってきたキャリーケースを漁り、水色のパーカーを取り出した。
「さて、少年、現世に戻るで」
彼にパーカーを掛ける。その瞬間、少年はビクンと体を震わせた。
「オ、オオ……ア!アアア……!」
体を捩り、頭をかきむしって声を上げ、倒れ込む。その体を女性が抱き留めた。しばらくすると彼の呼吸も落ち着いてきて、不意に、仮面がポロリと剥がれ落ちた。
彼の閉じていた瞳が見開かれる。
「こんにちは。目は覚めたか(け)?」
女性が口の端をゆがめて笑うと、少年は2、3度まばたきをする。目の焦点が合って、彼は自分が女性に抱きかかえられていることに気が付いた。
「えっ……!?」
「ああ、このままやったら話にくいわね」
彼女は少年をベッドに寝かせると、自分は窓際の椅子に腰かけた。
「しばらくゆっくりしとって良い(ええ)よ。記憶が戻ったばかりで辛いやろし」
「……誰だよ、オバ――」
「あぁん?私は20代やぞ?」
「――お姉さん……」
すごまれて、彼はおそるおそる訂正した。
「私は儀来河内。ネクロマンサーや」
「ニライ……?ネクロ……?」
「ああ、まずそこから説明せなな」
彼女は笑って、私のことはカナイ姉さん、とでも呼んでくれ、と言った。
「ネクロマンサーってのは、簡単に言えば、死体に霊魂を降ろして、占いとか蘇生をする人のことや。まぁ、もちろん君からすれば、何を言っとるかわからへんやろうけども」
案の定、少年は飲み込めていない顔をしている。
「でも、これが現実やよ(お)。アンタは今、死にかけとる」
「死に……?!」
少年は目を見開いた。
「よく思い出してみい。この部屋は自分の部屋か(け)?そのスーツは自分のか(け)?今どこに居ると思っとるん?」
彼は今気が付いたように、横たえている体を起こし、慌てて辺りを見回す。
「ここは、あの世とこの世の境界線。三途の川の上や」
窓からは、どこまでも灰色の空と水面が広がっていた。
「私はアンタを、平坂ユウを、助けに来たんや」
彼女は手を伸ばした。
「帰るで。私について来い」
「オ……オレは……」
少年は、一度、彼女の手を取ろうとしたが、一瞬躊躇って、手をひっこめた。
「どしたん?」
「オレは、一人じゃ帰れない……!」
少年の戸惑うその態度に、カナイは怪訝そうに首を傾げた。
3.
「そうだ!オレはミコトを助けようとして、波にのまれたんだ!ミコトはどこだ!?アイツも津波に巻き込まれてる!早く助けに行かないと!」
慌ててベッドから飛び降り、駆け出そうとしたところ、グイとカナイに襟首を掴まれた。
「な……!」
「なんで?みたいな顔せんといて。アンタ、自分がどんな状況に置かれてるか、全くわかってないんやから」
「で、でも、ミコトが……」
「そんなこと言われんでもわかってる」
誰が君の記憶を運んできたと思っとんの、と口をとがらせた。
「いいか(ええけ)、多分ミコトちゃんもこの船に乗ってる」
「ミコトも?」
「そやよ(お)。君の記憶をちょいと覗かせて貰ったけど、あの波に飲まれて生きてるはずがない。それにアンタ達は孤児やから、賽の河原に取り残されてるわけもない」
そうなると、この船に乗っとるはずなんや、と彼女は締めくくった。
「だったら、迎えに行かないと!」
「だから、待ちいやっての。また記憶を失いたいんか(け)?」
再び走り出そうとしたユウの足が止まる。
「さっきまで、ミコトちゃんのことを覚えてるどころか、自分の意識すらもなかったやん」
やれやれとため息をついて、キャリーバッグを開けると、男子用のスニーカーやズボンなどが出てきた――これらは全て、スーツを着る前、即ち死ぬ前にユウが身に着けていた服だった。
「三途の川には脱衣婆ってのがおるんやて。あいつらは人の業をはかるために、死んだ人間の魂から服をはぎ取って、木に掛けるんや。服が剥ぎ取られると、その人間は空っぽになってまう。即ち記憶を失うんや」
「もしかしてミコトも……」
「そうやよ(お)。ミコトちゃんも記憶を失っとる。まずはあの子の記憶の服を探しに行かなアカン。そやけど、それ以外にも蘇らせるには問題がある」
「問題?」
え~、と何から話すべきか、と逡巡するカナイをユウは固唾を飲んで見た。
「主に問題は二つや。そもそも記憶の服は、脱衣婆に剥ぎ取られて、木に掛けられるって言うたやん」
彼女は一息、間を置いた。
「彼女の記憶がなかったんや」
「な……なんでだよ!?」
ユウが声を荒げるが、カナイはさぁ、と首を傾げるばかりだった。
「それともう一つ、彼女の死体がない。浜辺にあったのは、アンタの死体だけやった」
「ミコトは……?」
「あの嵐やで?波に飲まれた死体が、すぐ見つかる方が珍しいわ」
バッサリ切り捨てるような一言に、ユウは何も言えなくなった。確かに覚えている。最期の瞬間、伸ばした手は空を切り、ミコトは波に飲まれたのだ。
「まぁ、でも記憶が見つからんのは、ちょいと引っかかるな。ひょっとしたら、魂を見つけることで何かわかるかもしれんし、一度、ミコトちゃんを探しに行ってみるのも悪くないな」
「だったら、早く行こう!」
だから、ちょい待ちっての、と再びユウを座らせた。
「実はこの船にも、さっき言うた脱衣婆って化け物が乗っ取る。ピンピンした調子で部屋から出れば、また記憶を奪われるで?それどころか、もっと酷いことにもなりかねん」
「酷いこと?」
「生皮を剥がれる」
ユウは言葉を失った。
「この船の中でもたまに、記憶を取り戻す奴がおるんやて。そういう奴は、大抵『我』が強くて、死んでも治らんレベル人間や。そうなると、魂自体にまで手を入れなアカンのよ」
だからこそ、と彼女は強調した。
「アンタにはまだ死人の振りをしてもらわなあかん」
そう言って、カナイが手を差し出し、ユウは意味が分からずポカンとした。
廊下を二人の男女が歩く。片や20代の女性、片や中学校に上がったばかりの仮面をつけた少年の、奇妙な取り合わせである。
「……くっ……」
「あらあら~、ユウ君、どしたん?顔が真っ赤やで~?もしかして、手をつないで照れてまったのかな~?」
「ああ?お前みたいなオバさんと手をつないでも、何とも思わないんだよ!」
「ああん?私が生皮剥いだろか?」
カナイの顔が修羅の如く変わる。さすがにマズいと思ったのか、少年は絞り出すような声で、ごめんなさい……と呟いた。
「まったく、薬指に指輪なんてしとるから、てっきりミコトちゃんとチューくらいはしてると思ったのに、意外に初心なんやなぁ」
「な、な!ミ、ミコトなんかと、チュ、チューなんて、するわけないだろ!」
少年は真っ赤になって怒鳴り、左手の指輪をギュッと握りしめた。
「――ああ、そうそう、何か小物は持ってへん?」
部屋を出る前に、カナイは思い出したように言った。何か現世での物を身に着けていれば、この船にいる限り、記憶を保っていられるらしい。
「あくまでも、ミコトちゃんを探し出すまでの応急処置や。本当に生き返るときには、生前身に着けてたものを全て持ち帰らんと、置いてきた物の分だけ、記憶を失うことになる」
だからと言ってパーカーを着て船内を歩けば、脱衣婆にアピールしているようなものだ。
「あ、それなら……」
ユウがポケットを探ると、中から針金を寄り合わせて作った指輪が出てきた。
「それは?」
「いや、小さい時にミコトが誕生日プレゼントって言ってくれたんだよ」
別にこんな指輪なんて欲しくないし、適当に作ってあるからすぐにほどけそうだし……とか言い訳がましく述べるユウに、カナイはとてもニヤニヤしていた。
「な、なんだよ!その顔は!」
「べっつに~。死んでも持ってるなんて、よっぽど大事なんやなぁ、とか全然思ってへんよ~」
「絶対思ってるだろ!!」
つっこむユウを華麗にスルーすると、カナイは、準備が出来たなら早よ行くで、と立ち上がって手を差しべた。
「なんだよ、その手は?」
「アンタなぁ、一人でフラフラと人を探して歩いとったら、すぐバレてまうぞ。死人の振りをするアンタを、私が引っ張って歩いてったるわ」
「え!?」
少年はアタフタとした。
「で、でも、オレを引っ張ってたら、カナイさんだって生きてるってバレちまうだろ!?」
「私は脱衣婆から見えへんから、問題あらへんよ」
シレッと言い放つ女に、少年は開いた口がふさがらなかった。
「ほら、行くで!」
そう言うと、彼女はユウの手を強引に掴んで外へと歩き出した。
「いやぁ、意外やなぁ。指輪を着けてるから、もしかして、と思ったんやけどなぁ」
「いい加減にしろよ!」
この女性と話していると、肩肘を張るのが馬鹿らしくなってくる、とユウはため息をついた。確かにすれ違う人々は皆、仮面をつけて、どこか生気なく草臥れた機械のように歩いている。この中で一人だけ生き生きと歩いていたら、すぐに見つかってしまうだろう。現に、途中でメイド服の女とすれ違ったが、こうやって手を引かれて歩いていると、見向きもされなかった。
「しっかし、ミコトちゃんはどこにおるんやろ?ミコトちゃんが大好きな少年は、心当たりあらへん?」
「誰がだよ!」
仮面の下から辺りを伺っていたユウが、小さ目な声でつっこむ。
「でも、なんとなく場所が絞れてきたかも。カナイさん、この船で一番人が集まる場所ってどこ?」
それはこっちやな、とカナイは少年の手を引いた。
4.
二人は大広間に戻って来た。室内では仮面をつけたメイド達が、いそいそと食後の清掃を行っているところだった。それ以外にも、10人くらいの白い服を着た死人たちがぼうっと佇んでいる。
「居た……!」
大広間の中央、壁際に白いドレスを着た少女が立っていた。ユウは叫びそうになるのを、寸でのところでかみ殺す。ミコトは恥ずかしがり屋の癖に、寂しがり屋で、人の居る部屋の隅で皆を眺めているのが、常だった。そんな彼女を、いつも友達の輪の中に手を取って連れて行くのが少年の役目だったのだ。ユウの心がズキンと痛む。
しかし、その隣で、カナイが呟いた。
「へぇ……どおりでミコトちゃんの死体と記憶が見つからへん訳やわ」
少年がその意味を尋ねる前に、彼女はミコトへと歩み寄る。無論、手は繋がれたままなので、ユウも引きずられる。
「なぁ、アンタがこの子を殺したんか(け)?」
ミコトの正面まで来た。カナイの言葉が、無音の大広間にシン、と響いては溶けていく。少女は他の亡者と同じく、仮面をつけた顔を少し俯けて黙っている。聞こえるのはメイド達の食器を片付ける音だけだ。それ以前に、問いかける内容がミコトに対するモノでない。そう思っていると、返答は思わぬところから返って来た。
「――何故、生きた人間がここに居る?」
その低く皺枯れた声に、ユウはビクリとした。カナイは何も言わず、ミコトをジッと睨みつける。すると、足元の影から湧いてきたように、無音で黒いモノが歩み出た。
あの、黒猫だった。
「な……!」
「む、お前はあの時のガキか。何故この船に在って、記憶を保っている?」
キラリと光る目に見つめられて、ユウは動けなくなった。この目は確かに、あの嵐の中で見た目だ。内臓を鷲掴みにされるような気がして、心臓がバクバクと音を立てる。
「いずれにせよ、好都合。お前の魂も頂こう」
「勝手なことばっか言っとんな。そんなことさせるわけないやろ」
彼女はズイと歩み寄り、質問しとんのはこっちやぞ、と眉間にしわを寄せた。
「お前は火車やな。本来の姿とは違うみたやけど」
「ほう、そういうお前はイタコか?本来の姿とは違うみたいだが?」
時代によって姿なんて変わるわ、とカナイは吐き捨てる。
「その子を殺したんは、お前なんやな?早よ、体と記憶を返せや」
「断る」
猫は悪びれもせず、切り捨てた。
「――どうして、ミコトを殺したんだ?」
ユウが思わず口を挟む。確かにあの時のミコトの様子はおかしかった。コイツが原因だと言われれば、納得できる。だが、それ以前に、どうしてミコトが犠牲にならなければいけなかったのか……
「どうしてだと?不思議なことを聞くガキだ」
黒猫は鼻で笑う。
「釣った魚を食べるのに理由が要るのか?」
その言葉に、思わず息を飲んだ。
「俺様は釣糸を垂らし、この女は引っかかった。それをどうしてだと?そうだな……敢えて言うならば――このガキが愚かだったからだ」
パチン、と何か熱いものが弾けた。
「てめぇ!!」
最後まで聞いて居れず、ユウは猫を捕えようと、飛びかかっていた。しかし、獣はサラリと少年の脇を抜けて走り去っていく。
「ユウ!待ちいや!!」
猫を追って走り出した少年に声をかけるが、彼は聞く耳を持たない。
「おいおい。猫の足に、人間が追いつくかよ」
ユウを嘲笑う様に、黒い影はスルスルとテーブルの脚の間を抜けて、あっという間に広間から出て行ってしまった。
「おい!!待てよ!!」
少年は走り、逃すまいと手を伸ばす。
だが突如として、ドンと何かにぶつかった。ガシリと肩を強く掴まれて、指が骨に食い込んでくる。
「なっ……!」
顔を上げた先にいたのは、仮面をつけたメイドだった。表情が読めないが、仮面の下からジッと覗かれているような気がして、ユウはゴクリとつばを飲み込んだ。
「なんだよ……?」
彼女は答える代りに、ニヤリと笑った。その唇が三日月型に歪むや否や、巨大な花が開くように、口が耳元まで大きく裂け、少年の頭を飲み込む大きさまで広がった。
5.
「うわぁ!!」
腰を抜かしたが、肩には指が食い込み、倒れるどころか、体を捩ることすらも敵わない。
その間にも、牙はすぐ目の前に来ていた。赤黒い喉奥から立ち上るア゛ア゛ア゛ア゛……という地獄の底のような声と、腐肉の臭いが顔を撫でて、思わずユウは目を閉じる。もう食べられる!全身が硬直した。
「ウワァアアアアア!」
しかし、その瞬間、別の場所から叫び声が聞こえてきて、メイドの口がピタリと止まった。首だけで振り返ると、白スーツの男が3人のメイド達に捕らえられていた。
「何なんだよ、お前たちは!?俺が誰だかわかってんのか!?○○商事の役員だぞ!?放せ!!訴えてやるぞ!!」
男は、拘束を解こうと必死に暴れると、仮面が外れ落ちる。真っ赤な顔の中年が滝のように汗を流していた。しかし、その顔もすぐに見えなくなる。口を大きく開いたメイドが面の皮を噛みつき剥したのだ。
「ギャアアアアアアア!!!」
くっついたキャンディの包装紙を剥すようだった。腕や脚でも行われて、血や、黄色い脂がメイド達の服を染めていく。鉄の臭いが立ち込めて、ユウはグラリと目の前が暗くなった。相変わらず肩口にはメイドの爪が食い込んでおり、膝をつくのを許さない。だが、彼の全体重がかかった瞬間、僅かに拘束が緩んだ。
「ユウ!!」
その一瞬をカナイは見逃さなかった。メイドを突き飛ばすと、ユウの手を引いて走り出した。大広間を飛び出すが、少年の足取りは覚束なく、このままでは追いつかれてしまう。焦ってカナイは振り返った。しかし、意外なことに、メイドは追って来ておらず、その場にとどまっている。化け物はニイッと口の端を歪めると、ウェーブがかった長髪を翻し、部屋の奥へと消えて行く。
皮を剥がされた男の声は、既に聞こえなくなっていた。
しばらくカナイはユウ達の手を引いて、廊下を走った。
「もうアンタの部屋には戻れん。一旦、どこかに身を隠すで!……ユウ?」
何の反応も返ってこない少年を訝しげに振り返ると、彼は真っ青な顔をしていた。
「すまん。あの光景はきつかったわな」
彼女が立ち止まると、彼は壁にもたれかかるように手をつき、胃の中のものを戻した。
「全部出してまえ、無理すると良くないで」
カナイは、もう死んだ人間にそんなこと言うても仕方ないけど、と背を撫でる。全てを出し終え、ユウはよろよろと壁から離れた。
「あの化け物は何なんだよ……」
「あれが、脱衣婆や」
言わんかったっけ?と言う女に、ユウは舌打ちをした。
苦しくて、視線を上げられない。カナイのところに戻るべく、視線を絨毯に這わせる。だが、目に映ったのは彼女の革靴ではなく、白い小さいハイヒールだった。思わず顔を上げると、純白のドレスを着た、仮面の少女が居た。
「ミ……コト……?」
目を見開いた。たとえ仮面をつけていても、彼女の細い肩や、艶のあるショートヘアを見間違えるはずがない。
「どさくさに紛れて、連れ出して来たんや」
彼女はウィンクをする。頭の中が真っ白になった。
ユウは震える足取りで少女に近づき、手を取る。血の気がなく、冷たい手だった。
「やっと……届いた……」
それでも、あの時、掴みそこなった手には違いがなかった。やっと届いた。思わず、彼の頬に滴が流れる。少女は何も言わず、表情も変えず、彼を見ていた。しかし確かに、ミコトはここに居る。
その空気を裂くように、声が響いた。
「めでたし、めでたしってか。お涙頂戴だな」
「お前っ!!」
ケタケタと廊下の曲がり角で、黒猫が嗤う。獣を見た瞬間、少年の血液は沸騰した。だが、駆け出そうとした瞬間、またしても襟首を掴まれる。
「邪魔すんなよ!」
「落ち着きや。猫に追いつくわけないやろ。それに、また見つかってまうぞ」
黒猫は追いかけてる気配がないと分かると、あの不気味な笑みを浮かべ、曲がり角に消えて行った。少年は、ギリッと歯を食いしばり、影を睨みつけた。
「ユウ、一旦身を隠そう」
言葉こそ冷静だが、彼女の目にも、炎が宿っていた。
「コケにされっぱなしは性に合わん。絶対捕まえたる」
6.
「――火車」
カナイは、二人を空き部屋に連れ込むと、猫の正体を告げた。
「化け猫の一種で、本来は人が死んだとき、死体を盗む妖怪やった。また、類似の妖怪で、魂を連れ去る火の車という妖怪も混じってるやろな」
「死んだとき……」
むしろ、あの猫こそが、ミコトを殺したのではないか。
「そう。やから、アレは火車の進化版やね」
全ての生き物は、環境に適合したものだけが生き残る。絶滅した恐竜の如く、進化できなかったものは滅びるのみだ。――それは妖とて、例外ではない。
「千年前は、死体や記憶を盗むのなんて簡単やったろう。そやけど、科学の発展と共に、24時間人の居る死体安置所が出来、高火力の炉で火葬するようになって、簡単に死体が手に入らなくなった」
そうやから、と彼女は言う。
「奴らは、自分で死体を作るように進化した」
ユウは眉間にしわを寄せる。
「でも、千年前から居たなら、退治の仕方も伝わってるんだろ?」
「本来なら、死体を盗まれない様に対策するだけや」
それに今回は、ミコトちゃんの記憶と死体を返してもらわなアカンで、退治したらアカンし、と付け足す。
「いずれにしても、アイツを捕まえといけないよな……」
どうすればよい?と頭を抱えた。だが、カナイが優しく肩にポンと触れる。
「大丈夫や、安心しい。私に策がある」
黒猫は廊下を駆けていた。
(何故、人間が居る……?)
このようなことは初めてだった。三途の川で意識を取り戻すことは、ままある。しかし、あの女は始めから自分の意思を持っていたようだし、脱衣婆達が全く気に掛けていなかったのも気になる。あれが噂に聞くイタコなのだろうか。
「む……?」
不意に、良い香りがした。記憶の香りだ。クンクンと鼻を鳴らして元を辿れば、ある部屋のドアがわずかに開いている。隙間から、記憶の服が散らばっているのが見えた。
思わず、口元が緩む。奴らは未だ脱衣婆から逃げ回っている。すぐには……いや、それどころか永遠に戻って来れないだろう。
「ツイている。労せず、2人分の記憶が手に入るとは……!」
期待で足取り軽く隙間を通過する。――その瞬間、パタンと扉が閉じられた。
「何!?」
「やっと捕まえたぞ、化け物め!」
「なにっ!さっきのガキ!!まだ生きてやがったのか!!」
振り返る暇なく、後ろから体を押さえつけられる。バタバタと暴れても、逃れられそうもなく、更に扉の前には、スーツの女が立ち塞がっていた。
「ミコトの体と記憶を返せ!!」
少年が容赦なく胴体を締め上げ、猫の喉奥からぐぇ……と声が漏れた。
「早よ返さんと、殺されるで?」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ……」
火車は何とか声を絞り出す。
「もう記憶なんざ食っちまった……」
「……何!?」
一瞬、拘束が緩んだ。その隙に猫はスルリと手から抜けると、部屋の隅に逃げだした。
「なんやって?」
「だから、食っちまったって。お前らだって、腹が減ってりゃすぐに飯を食うだろ?」
カナイですら呆気にとられてしまった。少年が捕まえようと飛びかかって来るが、ひょいひょいと逃げ回る。
「てめえ!殺す!殺してやる!!」
「そんなに熱くなるな。お前たちはここに隠れてるんだろ?バレちまうぞ」
嘲笑いながら、あちらこちらに走り回る火車。素早くて、全く捕まえられる気配がない。
「でも、お前こそ良いんか(ええんけ)。私らが居る限り、部屋からは出られんぞ」
「ふむ、それもそうだな……」
尚も、火車はニヤつきを崩さない。
「では、取引をしよう。死体は返してやる。ただし条件が二つある」
「取引なんてする気ないで?」
「お前が無くとも、このガキはどうだろうな」
金色の瞳がユウを見た。
「コイツは、波が来るのがわかっていても、もう一人のガキを追ってくるくらいだ。死んでもアイツを救いたいんだろう?」
その瞳は、ユウの心の底まで見透かすような光を持っていた。
「一つ目は、俺様を見逃すこと。危害を加えれば、二度とあのガキの死体は戻ってこない」
ユウはギリ、と歯を食いしばった。
「そして、もう一つは」
火車は嗤う。
「お前の記憶もよこせ」
7.
「なっ……!!そんなん飲むわけないやろ!!」
「飲むかどうかは、このガキ次第だろう?」
激昂するカナイを遮る。一匹と一人はにらみ合った。
「……飲む」
その睨み合いは、ユウの放った一言で終わりを告げた。
「何言っとんや!アンタまで記憶を失ったら……」
「別にいい。だってあの時、ミコトを助けるためなら死んだっていいと思ったんだよ。だから……記憶ぐらい、くれてやる」
少年の目には決意が満ちていた。女性の目には驚愕が浮かび、猫の目は歓喜に沸く。
「よし!契約成立だ!!」
火車は、散らばった服に飛びつくと、脚でせっせと一か所へと集めていく。
「良かったじゃねえか、これであのガキの死体は戻って来る。お前のおかげで葬式だって出来るし、きっと皆喜ぶぞ」
猫の顔が愉悦に歪んだ。
(――確かに、ガキの死体は元に戻してやろう。だが、お前の死体に手を出さないとは言ってないぜ?戻ったら、思う存分食い散らかしてやる……!!)
「さぁ、カバンに入った記憶も頂いていくぜ」
上機嫌に、カナイのキャリーケースへと頭を突っ込んで、服を物色し始める。
――それを見下ろすユウの目に映るものも知らずに。火車は、完全に油断していた。だからこそ、反応が遅れた。
「がっ……!!?」
突如、目の前の風景が真っ暗になり、首に切断されそうな衝撃を感じた。バタン、とケースが思いっきり閉じられ、火車は頭を中に残したまま挟まれたのだ。
「……俺はあの時、死んだっていいと思った」
ユウはキャリーケースを踏みつける。ゴリッと音を立てて、骨にケース口がめり込み、火車は悲鳴を上げた。
「オレは、死んでも、お前を殺してやると思ったんだよ……!!」
更に少年は体重をかけた。妖怪は叫びながら激しくバタバタともがき、のたうち回る。
「待て待て、待て!!わかった!!記憶はいらない!!だから、助けてくれ!!このままじゃ、死んじまう!!」
「死んじまえ……!!」
少年の目には、怨嗟の炎が浮かぶ。
「お前のせいで、ミコトは死んだ!アイツの記憶は、お前のせいでなくなっちまった!お前さえ居なければ!!」
「ア゛ア゛ア゛ア゛!!おい!イタコ!居るんだろう!?コイツを止めろよ!!」
「知らんわ。身から出た錆やろ」
本当に、どうしようもないヤツや(やっちゃ)とため息をついた。
「でもな、ユウ。本当に殺しても良いのか(ええんけ)?」
「当然だろ……!」
「まあ、コイツに同情はできんけどな」
カナイはそっと、ユウの肩に手を置く。
「お前は何の為に、コイツを殺す?火車は生きていくために、ミコトちゃんを殺した。お前だって自分の為に殺したっていい」
せやけどな、と力なく笑った。
「ミコトちゃんの為に殺すのは止めとき。だって、あの子はそんなこと望まへんやろ?」
少年の足が止まる。その目からは、困惑が見て取れた。
「オ、オレは……ただ……」
それだけ言うと、ユウはぎゅっと目をつぶって、拳を握る。肩がブルブルと震え、カナイはよしよしと撫でた。
「アンタは立派や。亡くなった人のことを想ってやれる」
――少年の足が離れた。
猫が首を抜いて、再び部屋の隅へと逃れる。
「ありがとよ。助かったぜ」
「うるさい!!お前なんて消えちまえ!!二度と出てくるな!!」
「もちろん、言われなくとも!」
火車はドアノブに飛びつくと、器用に前足で扉を開けてサッと走り去って行った。
「オ、オレは……」
彼の全身が震える。カナイはその震えを受け止める様に、抱きしめた。
8.
その後、彼らはミコトを連れて倉庫へと隠れた。
「さて、一つ聞きたいんやけど」
ユウは思いつめたような顔をして、ミコトの手を握っている。カナイはその手が微かに震えていることを認めたが、見なかったように話を切り出す。
「ミコトちゃんをこれからどうする気なん?」
ギクリと少年の肩が強張る。結局のところ、死体こそ返ってくることになったが、記憶は永遠に失われてしまっていた。
「……ミコトを生き返らせたい」
「それは、無理や」
彼女は首を振る。
「人間を司る要素には、肉体と魂と記憶の服の3つがある。そのどれかが欠けては、まともに生きてけへんのやて。確かに、魂と肉体さえあれば、また現世に戻ることはできる。そやけど記憶がないと、ずっとミコトちゃんはこのまま。生き返っても植物人間や」
彼女ははっきりと言い切った。
「確かに死んでしまって悲しいのはわかるけど、そこまでして生かすというのは、アンタの我が儘や」
「わかってる……」
彼は口の中で呟いた。
「さあ、ここに居ても見つかるのは時間の問題やで」
「それも、わかってる……わかってるんだよ」
でもさ、と少年は言う。
「なんでミコトがこんな目に遭わなきゃいけないのか、わかんねぇよ……」
彼の眼から、ボロボロと大粒の涙が流れた。
「ごめんな、ミコト……助けてやれなくて……」
ポタリ、ポタリと少女の手に滴が落ちる。しかし、ミコトは何も言わず、虚ろな目で宙に視線を投げかけていた。
「アンタは十分に立派やよ(お)。命がけで誰かを助けようとするなんて、普通は出来へん。確かにミコトちゃんが死んだのは理不尽極まりない。でもな、世の中、良い人やって死んでしまうんや」
唇を噛みしめる少年の頭を、カナイが優しく撫でる。
「私たちが、故人に出来るのはたったの三つだけ。いつまでも忘れないこと、その人の分まで生きること、そして、安らかに眠れるように祈ること、や」
ただ、少年は頷いた。
「それなら、ミコトはどうすればいい?」
「ここに残していく。いずれ、この船は彼岸へと渡り、ミコトちゃんは極楽浄土へ行けるからな」
死ねば皆、仏さん、ましてやこの子はとても(でえれえ)良い(ええ)子なんやから、絶対に天国に行けるで、と優しく笑う。
「さぁ、早よ元の服に着替え。見つからん内に逃げんと、ミコトちゃんを弔うことも出来へんから」
「――なあ、ギリギリまでミコトを連れて行っちゃダメか?」
生前のパーカー姿に着替え終わると、扉に耳をつけて外を探るカナイに問いかける。
「それはアカン」
彼女は油断なく外を探りながら答えた。
「ただでさえ、アンタは記憶が戻ったとバレとるのに、一緒に居ったらミコトちゃんまで記憶が戻ったと勘違いされる」
バレたらどうなるか。それは、先ほど見たとおりだ。別れはこの場で済ませなければならない。
「ゴメンな……ミコト」
彼は再び彼女の手を強く握る。針金の指輪が、指に食い込んだ。
『――ねえ、知ってる?』
記憶の中の幼馴染が笑顔で問いかける。確か、小学生になる頃だったはずだ。
『こういうのって、切れると願いがかなうんだって』
チクチクする針金を上機嫌で、指に巻きつけてくる。絶対勘違いだ。本物は紐製である。
『それなら、千切ってやろうか?』
『自分で千切っちゃダメ!自然に切れるのを待つの!』
『でも、願いって何にすればいいんだ?毎日焼肉が出ますようにとか?』
『ユウ君はでりかしーがないなぁ。代わりに祈ってあげる!』
彼女は笑顔で言った。
『ユウ君が幸せになれますようにって!』
「――オレは、お前が居ないと幸せになんてなれない……」
彼女の手を取り、額に押し付ける。先ほど枯れたはずの涙が、再び溢れてきた。涙と共に、今まで過ごした思い出が渦を巻き、彼を押し流していく。このまま残りたかった。
だけども、行かなくてはいけない。少年は役目を負っている。蘇って、ミコトの葬式をあげるのだ。彼女が安らかに眠れるよう、手を合わせて祈ってやらなければならないのだ。
ユウは顔を上げた。それを見計らったように、カナイが、外には誰も居らんようや、と声をかける。
「さあ、行くで」
「ああ、わかった」
静かに扉が開かれる。
「――じゃあな、ミコト」
ユウは、扉が閉じられる最後の瞬間まで、彼女から目を離さなかった。
9.
「さあて、甲板はどっちやったやろ?」
部屋を出て、キョロキョロと辺りを見回す。船の構造は複雑で、今までどこから来てこの倉庫に至ったのか、よく覚えていない。廊下は左右どちらを見ても曲がり角で、倉庫の正面には階段があった。どちらに進むか悩んでいると、左の角からカツン、カツンと革靴の音が聞こえてきた。
「マズい、脱衣婆や。一旦、階段の踊り場に隠れるで」
慌てて(しかし足音を立てずに)、段を上って影に隠れた。その間にもカツカツと足音が近づいて来る。早く通り過ぎてくれ、と願った。
しかし、その足音は階下でピタリと止まる。
(バレた……!?)
ユウが冷や汗をかいた次の瞬間、ガチャリと音が聞こえた。恐る恐る隠れながら覗いて見ると、ポニーテールのメイドがさっきまでいた倉庫の中に入っていくところだった。
「おお、危機一発やったやん」
カナイは苦笑する。もし、あの部屋でもう少しミコトとの別れを渋っていたら、逃げきれなくなっていただろう。脱衣婆が中へと一歩踏み込む。当面、早くその部屋から出て行ってくれないと、ユウ達は階段を降りることすらできない。再び、様子を覗き見るが、未だに扉の所で佇んでいた。何をやっているのか。まさか、中にいたミコトに驚いた訳ではあるまい。
――いや、違う!!
「ユウ!?」
カナイが声をかけた時には既に、メイドに飛びかかっていた。その口は耳元まで大きく裂けて、牙がむき出しになっている。ただ入口に立っていたのではない。――獲物を逃さない様に、出口を塞いでいたのだ。
「ミコトから離れろっ!!」
ガツンと、脱衣婆の腰辺りに思いっきり飛びつく。しかし、化け物は少しも体勢を崩さず、ゆっくり振り返り、ユウの首根っこを掴み上げた。少年は為すすべなく持ち上げられ、眼前に腐臭のする大口が迫る。
「させるかぁ!!」
その時、カナイが思いっきり脱衣婆を蹴り飛ばす。ユウを取り落して化け物はたたらを踏んだ。彼女はその隙を逃さず、体当たりをして薙ぎ倒した。
「早よ、ミコトちゃんを連れて逃げえ!後から追いかける!」
少年は慌てて少女の手を取り、廊下に飛び出す。もはや、この船にミコトを置いておくわけにはいかない。自分達以外に廊下に人影は無く、先ほどメイドが来た方とは逆方向に走った。廊下には何も遮蔽物が無いため、ばったりメイドに遭ってしまえば、何の抵抗も出来ずに捕まってしまうだろう。廊下は幾つもの曲がり角を有しており、曲がったところに何かが待ち受けているのではないか、と思うと、自然に足の運びも重くなる。しかし、遅くなれば、先ほどの化け物が後から追いかけてくるかもしれない、というジレンマに悩まされた。
「ミコト……」
しかし、決して取り乱したりはしない。この手には、幼馴染の魂が握られている。彼女を守るという使命感が、彼を突き動かす。何があっても屈しない。たとえ、曲がり角の先に何が待ち受けようとも――。
「何だ、まだ船の中にいたのか」
どこからか聞こえた声に、ユウはバッと辺りを見回した。しかし、何者もいない。
「こっちだ、こっち」
「お前……!」
声は足元から聞こえてきた。――火車だった。
「まだこんな所をウロウロしていたのか?てっきり現世に帰ったものだと思っていたが」
猫はやれやれ、とため息をついた。
「道に迷ってるんだろ、ついて来い。これでお前たちが生き返れなかった、なんてことになったら、イタコに恨まれかねん」
猫は先導するように歩いたが、ユウは踏み出せなかった。この猫に従うことは、何だかミコトの死を許すことのように感じたのだ。
「馬鹿か」
そんな葛藤を見透かしたように、火車は吐き捨てる。
「敵の手を借りるのが嫌、とか考えてるんじゃねえだろうな。お前の今の立場を考えてみろよ」
ユウには何も言い返せず、唇を噛んだ。
「お前たちは脱衣婆に見つかれば、皮を剥ぎ取られる。そんな中でそのガキを守らなきゃいけないんだろ?」
黒猫は、猫の手も借りたい筈だ、と嗤う。
「だったら、手段なんて選んでんじゃねぇよ。俺だって今後平穏に食っていける様に、あのイタコの手助けをして、貸しを与えとくんだからよ」
ユウは自分の手を見た。その手には、ミコトの手が繋がれている。
「……案内しろ」
ミコトを守る。そう誓ったのだ。そのためなら、なんだってやってやる。言外に、お前とは馴れ合うつもりはない、と突き放すように言った。
「へいへい、走るからちゃんとついて来いよ」
音もなく走り出した黒猫の後を追った。
10.
倉庫に残ったカナイは唇を噛んだ。荷物の中に突っ込んだ脱衣婆が、ゆっくりと起き上がってくる。どれだけ殴り倒しても、この化け物は怯みもしなければ、防御もしない。カナイが見えていないせいもあるが、ただひたすらにユウ達の元へと追いすがろうとしてくる。
「ええい、しつこすぎるわ!!」
脱衣婆を蹴り倒すと、化け物は近くの棚に突っ込んで、上からドサドサと降って来るダンボール箱に埋もれた。箱一杯にリネンが詰まっており、決してダメージは軽くない筈だ。それでも化け物はすぐに起き上がろうとする。その顔面をもう一度蹴り飛ばした。
「ああ、もう!早くあの子達を追いかけなアカンのに!」
自分が追いかけさせない様に手一杯である。
黒猫の先導のおかげで脱衣婆に見つかることなく、出口を目指すユウ達だったが、ふと火車の足が止まった。ユウは猫を踏まない様につんのめり、そこに手をつないでいたミコトが突っ込んできて、盛大に転がった。
「おい、騒いでんじゃねえぞ。耳を澄ませ」
倒れた状態で、耳を澄ます。カツカツと革靴の音が聞こえた。
「まさか……」
「甲板中央に出る道を行くつもりだったが、脇道に逸れるぞ」
近くの角を左に曲がり、二人と一匹は足音を立てないように急いだ。
「そういえば、この船を脱出するのは良いけど、一体どうやるんだ?」
ユウは問いかける。カナイにもこの船を脱出する旨は聞いていたが、方法自体は聞いていなかった。
「簡単だ。船から三途の川に飛び込めばいい」
あっけらかんと黒猫が言い放つ。
「帰りはわざわざ岸まで泳ぐ必要はねえ。そもそも三途の川とは言うが、普通の川のような水が流れてるわけじゃねえしな。今いる場所は、あくまでも冥界と現世の境界線だ。だから、飛び込むだけで、向こうの世界へと帰れる」
嘘みたいな話だったが、ここがあの世の一歩手前であることを考えれば、最早何でもありだと思った。
「信じるにせよ、信じないにせよ、お前には飛び込むしかないだろ」
鼻で黒猫は嗤う。
「おい、そろそろ出口だ」
もう幾つ目かわからない角を曲がった時、猫は言った。左へ曲がり、右へ曲がる――そして遂に、薄暗い廊下の10メートルほど先に、裏口らしきこじんまりした扉が見えた。扉の上半分のすりガラスが外の光を受けて、白く濁った光を放っている。
「着いたぞ」
いよいよ、帰れる。そう思ったと、思わず足が止まった。後ろからついてきているミコトが、そのままユウにぶつかりそうになり――少年は少女を受け止めた。
「帰れる、帰れるんだぞ、ミコト」
ユウは彼女を見つめる。ミコトは相変わらず虚ろな目をしていた。艶のあるショートカット、白く柔らかそうな頬、桜色の唇。全てが少年の目から鮮やかに見えた。ここまでこれたという実感に、唇が震える。
これで元に戻れる――、でも、元通りには戻らない。喪われたミコトの記憶は永遠に帰ってこないのだ。そう思うと、また涙が溢れてきそうになる。だけども、これで一区切りだ。グイと袖口で目元を拭う。このまま船で天国に行けない以上、蘇らせるしかない。たとえ植物状態であっても、ミコトが再び眠りにつくまで、今度こそ守ってやる。あと10メートルの距離を越え、現世へと戻るのだ。一歩踏み出し、カツンという足音が響く。
ふと、自分の履いているスニーカーからそんな音が出る筈がないことに、気が付いた。
カツン……カツン……。自分たちが通ってきた道から、固い革靴の音が響く。その足音の主は考えるまでもなかった。
その音は、どんどん近く、早くなっていく。カツカツカツ、と既に早足になっていた。
「マズイ!ここは俺様が足止めするから、早く行け!」
ユウはミコトの手を取って走り出した。背後からバタバタと言う音が聞こえる。きっと火車が引っ掻くなどして、脱衣婆を妨害しているのだ。あっという間に廊下を駆け抜け、ドアノブに手を掛ける。
――海。灰色の海。低く垂れこめたような空。それらが水平線で混じり合って、無限の広がりを見せていた。白く濁った水面は河と言うには壮大過ぎるが、確かに潮の臭いはしない。頬を優しく撫でる風が、ユウ達を呼んでいる。その時何故か、火車の言葉に合点がいった。三途の川より立ち上る空気から、現世の臭いともいうべきものが伝わって来る。
少年は欄干から水面を覗き込んだ。手すり自体は低く、身を乗り出せばすぐに飛び込める。覗き込んだ先では白い渦が巻いており、うっすらと何か映像のようなものが流れているのが見えた。
「行くぞ、ミコト……」
ゴクリ、と息を飲んで、覚悟を決めた。後は、一歩勢いをつけるだけで、戻れるのだ。
だがその時、つないだ手をグイと引っ張られた。
「どうした、ミコ……」
ふと、腐臭を感じた。手首が機械に挟まれるような力で掴み上げられ、ユウは振り向く。髪の長い脱衣婆が、すぐ背後に立っていた。
11.
「全く……いい加減にしいや!」
何十回目になるかわからない蹴りを化け物に喰らわし、積み上げられた荷物に勢いよく突っ込ませた。その隙に閉じ込めてしまおうかと思ったが、相変わらず脱衣婆は堪えていない様に立ち上がる。そして、すぐにユウ達を追おうとするので、カナイはひたすら対処に迫られる。だが、その中で違和感に気付いた。
(……コイツ、まさか……!?)
同じ頃、火車もメイドの足止めに必死だった。廊下を駆けようとする足元に飛び込んでは躓かせ、肩に飛び乗っては、仮面に隠れていない部分を引っ掻いた。
「ったく!俺様も暇じゃねえんだよ!」
それでも、脱衣婆はユウ達を追おうともがいて、その度に悪戦苦闘した。
「コイツ、まさか……!」
ふと、合点がいった。何故、あの少年少女のお守りのイタコが居なかったか。自分と同じように、脱衣婆の足止めをしているに違いない。だがしかし、それは同時に、カナイも化け物に足止めを喰らっているのだ。それに自分も、この場に釘づけにされてしまっている。
今、ユウ達を守るものは誰もいない。よくよく考えれば、自分たちが進んでいた道に都合よく脱衣婆が現れたのもおかしかった。そのせいで、自分たちは脇道に逸れざるを得なかったのだ。護衛を止められ、脇道へと誘い出された。
――それは彼らを絡め取る罠だった。気が付いて、火車は舌打ちをした。
「くそっ!なんでコイツが!!」
ユウが首を逸らせると、間一髪、牙が宙を噛んだ。一発でも喰らえば、皮を引き剥される。肝が冷えた。だが相変わらず、手は掴まれたままで、逃げられやしない。
「ミコトっ!お前だけでも逃げろっ!」
二撃目の牙が頬を掠って、肉を裂く。少女は反応せずに、ただ無表情にユウを眺めているだけだった。
「ミコトっ!!」
叫んだ。しかし、ミコトは動かない。やはり、自分が引っ張ってやらないと動かないらしい。欄干が低いのは、不幸中の幸いだった。思いっきり突き飛ばせば、勢いでミコトを川の中に逃れさせることが出来る。一瞬。そのわずかなスキさえあれば、全てカタが付くのだ。ユウはその瞬間に覚悟を決めた。
「うおおおお!」
思いっきり暴れて、ミコトへと一歩踏み込む。腕を振り回し、メイドの腹を蹴り飛ばした。不意に、手首を掴んでいた手が離れる。
「よしっ……!」
後は、柵の向こうへとミコトを突き飛ばすだけだ。ユウは少女の方を振り向こうとした。
――その瞬間、ドン、と強い衝撃を受けた。彼はよろめき、強く欄干に背を打ちつけて、肺から空気が絞り出される――と同時に、宙へと投げ出された。
「な――」
反射的にバランスを取ろうと伸ばした手は何もつかめなかったが、突き飛ばした相手の皮膚を、針金の指輪が引っ掻き、針金は解けて指から外れてしまった。
『幸せになってね』
そう言われたような気がして、船上の少女を見上げる。仮面の外れた少女は、目元に涙を浮かべて、少年にほほ笑んでいた。
「ユウ君、ありがとう――」
「――――!!!」
ユウは少女の名を叫ぼうとした。しかし、彼女の名は既に失われてしまっている。伸ばした手は、やはり何も掴むことなく、彼の意識は、それを最後に消え去った。
12.
「――おい!ユウ!しっかりしろ!」
大声が頭に響く。鬱陶しくて顔をしかめると、皆!ユウが目を覚ましたぞ!と男が叫ぶ。ゆっくりと目を開けば、頭上では太陽が輝き、たくさんの顔が自分を見つめていることに気が付いた。ガンガン痛む頭を押さえながら、辺りを見回す。同じ孤児院の子供たち、警察、やじ馬が集まっている。自分は砂浜で寝かされていた。
何事かと思って目を瞬かせていると、先生が半泣きになりながら、怒ってきた。
「どうして嵐の中、海になんて行ったんだ!お前は無事だから良かったものの……ミコトは……」
そういうと、涙を流して押し黙ってしまった。
「ミコト?」
少年は思わず聞き返した。その名前に覚えはなかったが、少し気になった。だが先生は勘違いしたらしく、泣きながら、見ない方がいい、波に飲まれ岩に揉まれたせいで、全身の皮が剥がれてしまっている、と少し離れた所にあるブルーシートを示す。ブルーシートは、ヒト型に膨らんでいた。
「なんとか、当初の予定通りにアンタだけは助かったか」
後ろから肩をポンと叩かれて振り返ると、カナイがしゃがみこんで、目を覗き込んできた。
「ミコトちゃんのことは残念やったな」
悲しそうに彼女は言う。
「――ミコトって誰?」
しかし、先ほどから思っていたことを口にすると、途端に表情が変わった。
「アンタ、記憶が!?」
いきなりあれこれと体をまさぐってきて、上着にもズボンにも破れは無い、靴も履いてる、とブツブツ呟いた揚句、自分の手を取って、目を丸くした。
「指輪がない……!」
指輪なんて元からしてなかったと思うけど、と言うと、彼女は、本当はつけとったんやよ、と首を振った。
さっきから、皆の言うことがわからない。ミコト、指輪……全て、あそこのブルーシートに包まれた人に関係があるのだろうか、と眺めた。
その途端、ズキリとした痛みが、胸に走った。
「あ……れ……?」
視界が歪む。前にもこんなことがあった気がする。そう思う間もなく、涙が頬を伝った。
「どうして、泣いて……?」
狼狽える少年を、カナイはそっと抱きしめた。
「たとえ記憶を失ったとしても、魂に刻まれたモノは、絶対に無くさへんのやよ(お)」
ユウは、その言葉の意味が分からずとも、ただ涙を流して頷いた。