ある小説家志望と傘泥棒
鬱陶しい湿気を纏って雨が降る。
流石に梅雨といっても三日も連続で続くといい加減に気が滅入ってくる。こんな日は部室でサマセット・モームの『雨』でも読もう。そして、亜熱帯の雨は日本の梅雨よりさぞ不快であろうと、下を見ることでこの不快感から目をそらすのだ。
あるいはミス・トムソンよろしく、
「水、水がなんだ! 雨だ! 汚らわしい雨!」
と、叫んでみるのもいいかもしれない。
部室棟に向かって歩いていると、三階の窓に大きなてるてる坊主が吊るされているのが見えた。たしかあそこは前衛美術同好会『月と六ペンス』の部室である。梅雨らしい創作物であるが、青い水玉やビビッドカラーで作られた大きなてるてる坊主、というのはあまり良い印象がない。
遠目に見ると首吊りに見えないこともないのだ。てるてる坊主の起源が晴乞いの生贄だという説もあるので間違ってはいないのだろうが、気味のいいものではない。そんなことを思いながら部室棟にたどり着くと、玄関口で一人の女性が所在無さげに天を仰いでいた。
普段なら、気にせずに四階にある部室に向かうのだが、なんとなく気になって声をかけた。
「どうしたんだ?」
「あっ……森久保先輩」
彼女は話しかけられるとは思っていなかったのか驚いたように僕を見た。
彼女は藤坂さん、と言う。僕の所属する文芸サークル『あすなろ』の右隣に居を構える占いサークル『千里眼』の一年生である。左隣の映画製作サークル『眼の壁』と犬猿の仲である以上、もう一方の隣人とは仲良くするのは当然のことである。また、何よりもお互いに部員数四名という弱小サークル同士である。なにかと仲良くしていて損はないだろう。
「雨なんて眺めてどうした?」
「あ、いえ、眺めていたのではなく。傘を盗られてしまったのです」
傘というものはよく盗まれる。日本で一番盗まれるものと言ってもいい。僕も講義中やコンビニで買い物をしているあいだに傘立てから盗まれたという痛い経験を何度か味わったことがある。金額が金額だけに盗難届けを出す気にもなれない。結局は泣き寝入りである。
「どんな傘? もしよかったら僕の傘を貸すけど」
「いいんですか? 森久保さんの傘がなくなりますよ」
「平気だよ。部室に僕の置き傘があるんだ」
この時、僕は小さな嘘をついた。部室に置き傘があるのは確かだが、それは僕のではない。より正確に言えば、持ち主不明なのである。部室にある置き傘は部員の誰かが持ってきたのはだが、誰のものかわからなくなった傘を僕たちは置き傘と呼んでいる。
僕が持っていた傘をしだすと、藤坂さんは申し訳なさそうな顔でそれを受け取った
「助かります。このあとバイトに行かなければいけないので……。でも、残念です。お気に入りの折畳み傘だったんですよ」
折畳み傘、と聞いて僕は少し首をかしげた。傘泥棒と聞いて僕は無意識にコンビニで売っている透明ビニール傘を想像していた。しかし、藤坂さんが盗られたのは折畳み傘だという。玄関脇に置かれた傘立てを見れば、ビニール傘が無造作に何本か刺さっている。
折畳み傘とビニール傘が並んでいればどちらを盗るか。
僕なら間違いなくビニール傘である。
折畳み傘というのは傘布の面積が小さく、ちょっとした横風で雨が吹き込んでくる。また、折畳み傘のデザインはビニール傘よりもバリエーションが豊かで、特徴的なものが多い。いくら、傘泥棒が捕まりにくいといってもわざわざ危険を犯すのだろうか。
「折畳み傘ってどんなデザインだった?」
「デザインですか。 柄の部分が真っ直ぐで、青色の水玉が入ってます」
かなり、目立つデザインだった。そんなデザインの傘をほしがるということは、どうしてもそれが欲しかった、ということである。足がつきやすい目立つ傘を使って帰るということはほぼ考えられない。つまり、ほかの用途があって欲しかったのである。
「藤坂さん、ちょっとここにいてくれる?」
「えっ? どうしてですか。私、バイトあるんですけど」
「お気に入りの折畳み傘が帰ってくるかもしれないよ」
僕はそう言うと、部室棟の階段を登る。行く場所は一つだ。
三階の前衛美術同好会『月と六ペンス』である。僕が部室の扉をノックすると、おかっぱに茶色の髪を切りそろえた男子生徒が顔を出した。
「あれ? えーとたしか。『あすなろ』の……人?」
「そうだよ。青い水玉の折畳み傘持って行ってない?」
男子生徒の顔色が曇る。もう少し叩けば雨が降りだしそうだ。
「たぶん、てるてる坊主になっていると思うけど」
僕が言うと、男子生徒は諦めたとばかりに憎まれ口を叩いた。
「あんな青い水玉の折畳み傘使ってるんですか? 趣味悪いですよ」
部室の中を覗けば、色とりどりの傘で作られたてるてる坊主が天井から吊り下げられている。傘の石突に球形の頭を取り付けただけだが、ここまで数があると壮観である。部屋の中央に三脚に固定されたカメラが置いてある。
「僕のじゃない。後輩のだよ」
「すいません、返す前に一枚だけ写真を撮らせてください」
おかっぱ頭の男子生徒は雨の降る窓を背景にパチャリ、と写真を撮った。
「面白い作品だね。タイトルは?」
「あざっす。これは乱立する個性と没個性です。これ撮り終わったら戻しとくつもりだったんですよ」
彼は照れくさそうに言った。僕には全くその意味がわからなかった。正直、面白いと思うけどゴミと変わらない。おかっぱ頭の男子生徒は天井から水玉のてるてる坊主だけ外すと、僕に返した。付いていた頭は少し強引に外して彼に返した。
頭を外したとき彼は小さなため息をついたが、僕はそれを無視した。
「あーあー、いい思いつきだったんだけどなぁ」
「思いつきはいいけど、傘泥棒はダメだろ」
「すいません。ちょっと借りようって気持ちだったんです」
おかっぱ頭の男子生徒は苦笑いした。
雨が降っているから傘を『勝手に』借りよう。
てるてる坊主を作りたいから『勝手に』傘を借りよう。
まったく違うようで根本は一緒である。子供じみた自分勝手さだ。
一階に戻った僕は藤阪さんに水玉の傘を手渡した。
「はい、藤阪さんの折畳み傘ってこれでしょ?」
藤阪さんは、眼を大きくして驚いていた。
「えっ、どこにあったんですか? っていうかどうして持っていった人がわかったんですか?」
質問攻めにされるのが嫌になった僕は
「ほら、バイトの時間」
と、半ば強引に彼女を送り出した。
藤阪さんは憮然とした顔をしていたが、時計と僕の顔を交互に見比べて諦めた。
「ありがとうございます! 森久保先輩」
そういって雨の中、バイトに向かう彼女を見送ると、僕は思った。
――サマセット・モームの『雨』ではなく、山之口貘の『雨あがり』に変更するとしよう。
思いのほか爽やかな出来になってしまった。
次回はホラーを書いて毒を撒き散らしたい。