おまじない
第30回織田作之助青春賞に応募した作品です。選考落ちしたものを加筆・修正しています。
改行などは少ないため、読みづらければ、申し訳ありません。
これってどう読むんだっけ。
聞こうと思い右隣を向いたのに、蔦谷くんはすっかり寝入ってしまっていた。それを見つけて、すこしだけほっとする。起きていたとしても、話しかけられるかどうは別だった。
両腕でまくらをつくり、その上に頭を乗せ、広い背中は上下に浮き沈みしている。寝息まで立てている。顔は左に、つまりわたしの方に向けているから、まぶたの線までよく見える。折りたたんだ体がすごく窮屈そうなのは、近ごろ急に伸びてきたという身長のせいだろう。本当に、最近の蔦谷くんは目に見えて大きくなって、ぐんぐん男のひとに近づいていく。
小学校の頃や、ついこの間と比べても、もうすっかり男の子なのだ。声が低くなった時だって十分に驚いて、もうこれっきり驚くことなんかないと思っていたけれど、今はもっと驚くことが増えている。そしてその驚きは、わたしを嬉しくも恥ずかしくもさせる。
「次の行を池上さん、読んでください」
「はい」
心地いいソプラノが響いた。教室のなかに潜んだいくつかの眠たそうな吐息が、清らかなものに変わって、みんなが嬉しい緊張を抱える。
池上さんの声は涼やかで、きれいに歌う。彼女が口を開けば、給食の時間を待ちぼうけるそわそわも、先生の呪文で眠りかけていたうつらうつらも、しゃんとして気持ちがよくなる。アクがないのに、さらさらとしていているけれど、つかみ所に迷うほど、芯がないわけではない。やわらかいけれど、それだけじゃなくって、甘いのだけれど、苦いところもある。彼女の声がすてきに聞こえるのは、彼女自身の魅力のせいだ。
池上さんの声に集中する時、教室にいるみんなの心はひとつになる。いつも彼女は背筋をぴんと伸ばして、周りの女の子より長くすらっとした手足で、クロールも跳び箱もきれいにこなす。
誰しもが息をひそめて、彼女の様子をうっとりと眺めているなか、蔦谷くんだけは眠ったまま、沈黙を保っている。わたしは池上さんのきれいな後ろ姿を見つめながら、時が過ぎるのを待っている。このまま蔦谷くんが起きないで、池上さんが早く読み終わってくれたらいいのに。
ところがわたしのくだらない願いなど届かずに、蔦谷くんは目を覚ます。そして起きた瞬間に、この教室に漂うとてつもなく清らかな空気に目を細め、靄のなかから彼女の姿を見つける。池上さんは動かないまま、静かに音を響かせる。蔦谷くんは、黙ってそれを見つめている。あーあと思った。池上さんの声も耳に入ってこない。ただ蔦谷くんの顔だけが目について、それがやるせない。
「はい、どうもありがとう。上手に読めましたね」
と、先生が言った。池上さんが静かに微笑む。その時、蔦谷くんの表情が柔らかくなったのを、わたしは見つけてしまった。
先生が賞賛して手を叩く。それに倣い、一同、池上さんに拍手。わたしは、なんだか目の前が真っ暗になり、今にも倒れそうな気分のまま、力が出ずにふらふらと手を叩いた。隣の蔦谷くんは、いっとう強く拍手をした。
池上さんは、落ち着きがあって決して騒がない。背が高くて、美人で、大人っぽい。クラスの輪には加わらず、いつも一歩引いている。休み時間は本を読んでいる。誰か特定の仲良しの子がいるわけではく、いつもひとりでいる。中学からこっちに引っ越してきたんだって。だからみんな、池上さんのことをきちんと知らない。
池上さんより可愛い女の子なんてほかにももいるし、背の高さならバレー部の子たちだって負けていない。けれども、その子たちを池上さんと比べるには、すこし野暮ったすぎる。朝起きてから、家に帰るまでの生活を覗かなくともほとんど想像できるような親しみやすさが、彼女たちにはある。けれども池上さんは、生まれてから今まで、なにも変わらずにこのままで過ごしてきたような、非日常的な美人。中学一年生でいるためには必要なはずの中学生らしさが、池上さんにはないのだ。
わたしの友だちなんかは池上さんのことを、気取って美人を鼻にかけているだなんて言う。みんなが彼女の悪口を言う時、わたしは素直にそうだねって言えない。だって、なにをするにもみんなでしなきゃいけないわたしたちの方が、変だなって思うもの。池上さんは、誰かと一緒じゃなきゃだめなんてことないんだろうな。わたしなんか、そういうところが格好いいって思っちゃうけどなぁ。
彼女と話してみたい。けれども、もしわたしが池上さんと仲良くなってしまえば、色々なことが変わってしまう気がする。池上さんはわたしのことを決して拒みはしないだろう。けれども、歓迎はしてくれないかもしれない。
右をこっそり盗み見た。蔦谷くんは退屈そうに教科書に落書きをしている。上手いアンパンマンか、ヘタなメガネザルか、創作したキャラクターなのか。彼は絵を描くのが好きだ。それも、わたしは知っている。
ほっとする。もう、池上さんの方は見ていない。
池上さんのことをどうして格好いいと思うのか、本当はすこし気づいてしまっている。いい子でいたいのだ。片思いの男の子の好きな相手のことを憎まずに、「いいひとを好きになったね、さすがだね」と笑って褒めるような寛容さが自分にあると思い込みたいのだ。色眼鏡をかけている今は、まだ分からない。もし池上さんと話すようになったら、見方が変わるかも。けれどもあの男の子がいる以上、わたしは池上さんと本当に友だちにはなれないのかもしれない。
わたしのクラス、一年三組では、二ヶ月に一度席替えをしている。
担任の小川先生は、優しく陽気な理科の先生だ。席替えは「みんなと仲よくなれるように」という先生の計らいで提案された。知らない子と隣になったらどうしようと最初はびくびくしていたけれど、慣れてしまえばどうってことはない。そのおかげか、わたしたちのクラスはとても仲がいい。ホームルームでの席替えは、今や三組の名物イベントだ。
蔦谷くんの隣になってから一ヶ月経つけれど、わたしは未だにこの席に慣れていない。くじを引いた時、まさか蔦谷くんが隣になるだなんて思いもしなかった。
いや本当は少し、こうなることを望んでいたのかもしれない。けれども、わたしと蔦谷くんの名前が黒板に並んで書かれているのを見たら、入学式なんて比じゃないくらい緊張してしまい、いざ隣り合わせに座った時だって、「よろしく」と言った蔦谷くんに、小さく頷いてみせるのが精一杯だった。
同じ中学で、同じクラスになって、まさかこれ以上は運が向かないだろうと思っていたら、隣の席になれた。こんなにも神様が味方してくださっているのに、肝心のわたしは意気地がないなんて情けない。
この中学には、三つの小学校から出身者が集まっていて、一学年は五クラスに別けられる。委員会や部活動が始まり中学生活に慣れてくると、違う学校の子たちとも話すようになったが、やはり出身別で妙な仲間意識が生じる時もある。その一番の原因は、大人になりかけているわたしたちが、突然見知らぬ人たちと同じ箱に詰められてしまったことにあると思う。
わたしたちはまだまだ、宙ぶらりんなところにいる。大人みたいに簡単に割り切ったりできずに、かといってもう小学生みたいに、あからさまにいやだと喚いたりもできない。ただ口を閉ざすことを覚えて、つぎつぎとめぐる新しい変化に耐えなくてはならない。大人になるためにはそれが必要だと、みんな少しずつ気づき始めているのだ。
蔦谷くんとは、同じ小学校の出身だ。低学年の時はよく一緒に遊んでいた。わたしはたぶんずっと前から彼のことが好きで、気づいてしまってから急に話せなった。制服に身を包んだ新しい蔦谷くんにどきどきしながらも、彼が遠くなってしまったことがとても悲しい。もう今の彼は、わたしが知っている彼ではなくなってしまったのかもしれない。
昔なら、蔦谷くんのことをなんでも知っていた。足が速いとか、ソーダ味のアイスが好きだとかたくさん知っていたのに、もう今の蔦谷くんのことなんて、わたしはなんにも知らないのだ。六年生の時だってそんなに話さなかった。それでも中学校に入った前と後とでは全然違う。今は本当に蔦谷くんが遠い。
もうわたしより小さかったことを覚えてないかもしれない。一緒に逆上がりの練習をしたことも、給食を食べるのが遅くて休み時間もなかなか遊びに出られなかったことも、全部忘れちゃったかな。わたしは、覚えているんだけどな。蔦谷くんは中学生になってから、すごく格好よくなった。男の子同士で固まるようになった。また前みたいに話したいなって思うけど、うまくいかない。
わたしの名前を忘れていないかとか、わたしのことを覚えているかとか。毎日隣に座っているのに尋ねるのは怖い。別人みたいな彼を見ていると、そんなことがひどく気がかりで不安にもなってしまう。するとたちまち気持ちが重くなるのだけれど、その度にいけないと自分に言い聞かせる。そんなこと気にしてどうするのだろう。わたしのことを覚えていなくても、とにかく彼の隣にいられるのだからいいじゃないか。わたしはこの幸運な二ヶ月を大事にしなくてはいけない。
せめてもっと普通の、よいお隣さんにならなくては。休み時間におしゃべりしたり、授業中に分からない漢字を聞いたり、そういうことが気軽にできる間柄になれたらいいのだ。また前みたいに蔦谷くんと仲よくできたらいい。それでもし、蔦谷くんが少しでもわたしのことを気に入ってくれたら、そうなればもうこれ以上はないのだ。
そう暗示をかけて今日こそはと思うのだけれど、いざ蔦谷くんの姿を見ると、すくんでしまう。おはようの後に続ける言葉も思い浮かばない。わたしはそっと俯くことしかできない。
そんな自分が情けないと思いながらも、それがどうでもよくなるくらい、たくさんの蔦谷くんをわたしはこの一ヶ月で知ることができた。こんがり焼けた肌も襟元のあたりは白いこととか、国語の時間はいつも寝ていることとか、時々眼鏡をかけていることとか、そういうのを見つける度に嬉しくなる。クラスでは同じ野球部の男子と仲がよくって、休み時間によく廊下でふざけたりしている。声が大きいのは昔から変わっていない。
それから、この席からは池上さんが見える。だんまりを続けているわたしにだって、ちゃんと目はついている。彼がどこを見ているかなんて、すぐに気づくのだ。
彼は時々、池上さんの方をじっと見ている。いつもとは違う顔で黙っている。彼の瞳は鈍い色のまますっかり動かない。そんな蔦谷くんを左のわたしはこっそり見守り、悲しくなる。喉が詰まって息が苦しくなる。そんな時ほど、どうしてかくだらない言葉がつぎつぎと浮かんで溢れそうになるのだ。慌ててそれを呑み込んでから再び彼を見ると、いつもの顔に戻っている。見つけてしまったらもうだめだ。わたしは彼の抱えているものの正体に、気づいているのだから。
しかし、わたしが蔦谷くんに気持ちを伝えないのと一緒で、蔦谷くんも池上さんへの思いをはっきりさせることはないだろう。そのことについてなら、妙な自信があるのだ。知らない振りを続けられる。
けれどももし池上さんが振り返って、あの視線に気づいてしまえば。そうなればもう、この気持ちはおしまいになる。だからわたしは、彼女の背中をじっと見つめる。まっすぐ伸びた背中に祈っている。
蔦谷くんの思いが叶わなければいい。わたしの思いも、蔦谷くんの思いも、実らずにこのまま消えてしまえば、きっとわたしは池上さんといい友だちになれるはずだ。それにはまず、自分の思いに気づかない振りをしないといけなかったが、一度芽を出してしまったこれは、そう簡単には摘み取れなかった。きっと蔦谷くんも、そうなのだった。
毎日、わたしは蔦谷くんの隣で、彼が彼女を見つめる姿をじっと見守っている。自分が池上さんだったらいいのにと思うことも、許すことにしている。そうでなきゃ、どうなっても行き場のないこの気持ちが、ひどくみじめになるからだった。
*
テレビを見ながら友だちとメールをしていると、わたしの好きな歌手が登場しようかというところで、隣に姉がやってきた。
「お風呂、入りなさいよ。後が詰まるでしょう」
「お姉ちゃん、先に入ってよ」
「テレビを見るのかメールをするのか、どっちかになさいよ。でなきゃ早く入って」
「うるさいなぁ。先にどうぞってば」
「わたしは今だめ。あんたが入って」
と、姉が言う。わたしは、彼女の足を蹴った。
姉はわたしをにらんだ。わたしも口を曲げて彼女をにらむ。年上のくせに、この人は全然優しくない。
にらみ合ったままのわたしたちを見つけた母は、呆れ顔をつくった。
「どっちでもいいから、さっさと入りなさい」
「わたしは、今むり。お母さん、この子を先に入らせてよ」
「じゃあ、お姉ちゃんの前に入っちゃいなさい」
「はいはい、入ればいいんでしょう」
姉の卑怯な手口に憤慨し、苛々しながらお風呂に向かった。
お風呂って、未だに好きになれない。お姉ちゃんのように一時間も入ってはいられない。一日に一度、汚れを落とせればいい。歯磨きをするのとたいして変わらない気がする。というのも、わたしが長湯できないせいかもしれない。
姉にとってのお風呂は、わたしとはちょっと違う。お風呂だけじゃなく、近ごろの姉がすることは不思議なことばかりだ。そう、不思議なのだけれど、姉は毎朝鏡とにらめっこしている。
彼女を見ていると、わたしも高校生になったらあぁなるのかなと思ってしまう。スカートの丈を気にしたり、鏡を覗き込むのに夢中になったり。とはいえ、そういう疑問が沸いてくるということは、自分がまだまだ途中にいる存在だというのに、よくよく気づかされるのだ。
中学生になるのをずっと楽しみにしていた。制服を着るのも、大人になったみたいで嬉しかった。けれども姉や先輩たちを見ていたら、やっぱりまだまだ幼いなぁと気づいた。卒業してから伸ばし始めた髪も、ようやく肩まで届いたばかりだ。元々のくせ毛も手伝ってか、すとんと落ち着かずに恥ずかしい。お下がりの制服だって、ちっとも似合っていない。膝の頭にスカートの裾が擦れて、ちくちくとこそばゆい。どうしてかな、池上さんや先輩たちなんかは、とても格好よく着こなしているのに。
中学に入ってから、ひとつやふたつの歳の差の違いにいつも驚いている。家で姉と話していたって、そんなこと考えたこともなかったのに。入学式で先輩たちが合唱を披露してくれた時、女子の声に混じって聞こえる低い響きに驚いた。うんと背の高い男子の先輩を見て、格好いいと思う反面少し怖い気もする。女子の先輩がリップクリームをポケットに忍ばせているところを見つけると、どきりとしてしまう。先輩たちはどうして、あんなに大人っぽいのだろう。
わたしのお姉ちゃんだって、外ではいい先輩なのかもしれない。もしかしたら恋人もいるのかも。やっぱり高校生って大人だ。好きな人の隣になっただけで、こんなにどぎまぎしたりしないんだろうな。席替えも気にしないのかもしれないし、トイレもみんなで一緒に行かなくていいのかもしれない。
この中学一年生の自分がひどく幼い気がする。それを分かっているくせに、なにもしないわたしはやっぱりまだまだ子どもで、ほとほといやになる。高校生になれば変われるかもしれないだなんて思っていてはいけない、このままではいつまでも今のわたしのままだ。大人になるってどういうことか分からないけれど、たぶん、自覚してそうなるわけではない気がする。だとしたら、大人になりたいと思っているうちは、中学生でも高校生でも、きっとまだ子どものままなのかもしれない。
もう少し自分の好きなようにいられたらいいなと思う。なにをするにも縛られるのではなく、周りを気にしないでいたい。池上さんと仲よくしたい。そうなるには中学生一年生ではなくて、わたしも周りももう少し大人になる必要があると思った。
浴槽からよろよろと這い出て、頭と体をいっぺんに洗う。大急ぎで泡だらけの体を流して、ふやけた手のしわしわを指でなぞった。少しくらくらする。
脱衣所に出て鏡を見ると、肌を赤くした自分がいた。それを見てようやく、さっきくらりとしたのは、慣れない長風呂をしたせいだと気づいたのだった。
*
部活を終えた帰り道、数学のノートを使い切っていたことを思い出した。
明日も授業はあるし、宿題だって出ている。わたしは青くなった。いくつか案は浮かんできたけれど、どれもあまりいい考えじゃない。
さっさと諦めればよかったのに、わたしはお金を持っていたことを思い出してしまった。なにかあった時のためにと母が持たせてくれていたのだ。
こうなるともうすっかり宿題のことなんて忘れてしまって、どきどきしながら鞄を肩にかけ直した。寄り道は校則違反だし、ノートはなくってもどうにかなる。それなのに、いけないことをしているという自覚が、わたしを舞い上がらせていた。
先生に見つかりませんようにと祈りながら、通学路にあるコンビニに入った。長居はしたくなかったので、さっそく文房具のある棚に向かう。いつも使っているノートは見つからなかったけれど仕方ない、それより早く出ないと。ノートを掴んでレジに向かおうとした時、ふと消しゴムが目に入った。
それでまた思い出したのだ。今日友だちが話していた。好きな人の名前を書いて誰にも見つかることなく使い切れば、両思いになれるというおまじない。そんなのうそだって思うし、消しゴムだって今使っているものがある。新しいのなんて買ったら、お母さんになにか言われるかも。それにわたしって、蔦谷くんとどうなりたいとかじゃないもの。
それでも、少しくらいはいいかなと思ってしまう。どうせ望みもないんだし、おまじないくらいしたっていいはずだ。
言い訳をしながらノートと消しゴムを買うと、なんだか気持ちが軽くなった。しかし、わたしの思いはとても自分勝手で、たとえおまじないなんてしなくても、誰かに話せるものじゃないと思った。
角を曲がると、公園が見えてくる。もうすぐ家に着く。ほかほかしてスキップなんてしそうになっていたけれども、公園の入り口に見慣れた後ろ姿を見つけて、立ち止まった。
「あ、蔦谷くん」
声を出してから、しまったと思った。蔦谷くんは少し驚いた顔でこちらを振り返り、わたしの姿を見つけると、しげしげとこちらを眺めていた。
わたしはしばらく固まっていたが、蔦谷くんが待ってくれていることに気づき、慌てて駆け寄った。心臓が口から飛び出てしまうのではないかと思うぐらいどきどきして、顔も真っ赤なはずだった。
追いつくと、彼はまた歩き出した。公園のなかを進んでいく。なにも言わないから本当について行っていいのか分からず立ちすくんでいたが、蔦谷くんは少し進むとまた振り返り、わたしの顔を見た。わたしはまだどきどきしながら、その後ろを追いかけた。
「部活?」
ちょっと歩いてから、蔦谷くんが言った。まさか話しかけてもらえると思ってもいなくて、わたしは思わず目を丸くして口をだらしなく開けた。
ぽかんとしたその表情は、蔦谷くんの目にはうんと間抜けに映ったに違いない。慌てて口を閉じたのだが、その時には蔦谷くんはよそを向いていた。
「うん、部活だった」
せっかく蔦谷くんが話しかけてくれたのに。焦りながら質問を拾って返せば、彼はふうんと声を上げる。その声がわたしの思っていたものよりも低くて、胸のあたりがざわついた。
「お前って、部活なんだっけ」
今度こそちゃんと答えなくてはと、わたしは口早に答えを返す。
「わたし、家庭科部だよ。蔦谷くんは野球部でしょう」
言った後で、まずいと気がついた。蔦谷くんが驚いたように、こちらを見ている。
「なんで知ってんの」
「いや、あの、鞄」
「あ、これか」
彼は納得したように、自分の肩に下がる大きな鞄を見やった。
野球部はみんな同じ鞄を持っている。通路に置かれると場所を取ってしまうから邪魔だと、わたしの友だちはいつも怒っている。けれども、この鞄を見ると安心できるからわたしは好きだ。蔦谷くんがどこかへ行っても、ちゃんと戻ってきてくれると分かるからだった。
「家庭科部ってなんかつくるの?」
「うん。今日はホットケーキ焼いたよ」
「まじ? クッキーとかつくる?」
「つくる、つくる」
「いいなぁ、学校でお菓子食べ放題じゃん」
「つくったのしか、食べちゃだめなんだよ」
「ばれなきゃ平気だって」
「野球部は楽しい?」
「楽しいけど、監督こわいんだよ。先輩は優しいけど」
わたしたちは、隣り合って歩いた。陽が落ちかかった公園のなかは薄暗く、心地いい静けさがあった。衣替えを終えたばかりの袖口が、手の甲にさらさらと擦れている。時々そよそよと吹く風が涼しくて、ほてった頬には嬉しかった。
蔦谷くんの目線はわたしより高いところにあって、わたしは首を傾けながら、いつもと違う角度から見る彼にどきどきしている。もしかしたら今、すごく幸せな人間なのかもしれない。一歩進むのが惜しくて、ひと言交わすのがたまらなく嬉しい。蔦谷くんが違う人のように思えるのだ。教室にいる時、わたしたちは知らん顔しているくせに。
「じゃあ」
「うん、あの、さようなら」
公園を抜けたところで蔦谷くんは立ち止まり、手を振ってくれた。わたしも、緊張しながら丁寧に返した。今日は話してくれてありがとう。すごく嬉しかった。そういうわたしの気持ちまで全部伝わってほしくて、できるだけはっきりと言葉を紡いだ。
わたしはまっすぐ、蔦谷くんは右手へ。もう一度声をかけようと振り返ったけれども、彼はもうこちらを見ていなかった。
帰ってから、宿題を始めるより先に消しゴムの封を開けた。ネームペンで小さく名前を書いて、それをまたこっそり隠した。なんだかすごく嬉しくなった。
*
教室は少しざわついている。蔦谷くんも、そわそわしている。蔦谷くんだけじゃなくクラス中がみんな、今朝からずっとこんな調子だ。
「あの人たちの隣は絶対いや」
男子たちが騒ぐのを見ながら、友だちのひとりが言った。みんなはそれに頷いている。集団のなかから蔦谷くんの大きな声が聞こえてきて、まさか彼の隣がいいだなんて言えるはずもなく、わたしは苦笑するほかなかった。
「いい席だったらいいね」
筆箱に忍ばせている消しゴムを思い出して言った。おまじないは、まだ誰にも見つかっていない。
近くになれたらいいねと、みんなで言い合った。三組は好きだけれど、席替えの瞬間はどきどきして少し怖い。あんまりいい席じゃなかったら、それだけでこの世の終りみたいな気持ちになるもの。
チャイムが鳴り小川先生がやって来ると、みんなは自分の席に戻っていく。蔦谷くんたち男子はなかなか着席せずに、注意されていた。
彼はわたしの右隣に帰ってきて、教卓の辺りを眺めた。学級委員が前に出て、くじの説明を始める。蔦谷くんの膝が小刻みに揺れている。それを見ていたら、わたしにもそわそわがうつってしまった。
「蔦谷くんは、どこがいいの」
「前じゃなきゃいいや。お前は?」
「わたしも、前じゃなければ」
蔦谷くんの近くがいいと思いながら返事をした。蔦谷くんは膝を揺らすのをやめていた。はっとして視線を辿ると、彼はもう池上さんを見ている。もうすぐ彼女の番だった。
席を立ち、くじを引く。番号を学級委員に見せて、黒板に名前が書かれる。席が決まったら移動する。それだけのことなのに、クラスみんなの関心はもうそればかりに寄せられている。いつもはうるさい男子も、今だけは緊張した顔をしているからおかしい。
池上さんの名前が黒板に書かれた。一番後ろの席だ。蔦谷くんの目が一瞬、細められたのが分かった。ぎゅっと胸のあたりが苦しくなって、わたしはたまらず目を背けた。
すぐにわたしの番になった。悲しくなりながら、しっかりと頭だけは動いていた。わたしはこの思いをどうしたいのだろう。蔦谷くんとどうにかなりたいわけじゃないのに、彼が池上さんを見ているのは苦しい。池上さんとは友だちになりたい。随分、都合のいいことばかり望んでいる。
そんなことを考えていると、いつの間にか席替えは終わっていた。移動を終えると、大きな鞄が通路を陣取っているのに気がついた。そしてわたしが振り返るよりも早く、わたしの肩を誰かが叩いた。
鼓動が早い。どんな顔をすればいいのか分からなかったのに、彼はいつもの顔でそこにいた。
「また近いな」
蔦谷くんがほがらかに笑った。その時、重い気持ちが吹き飛んでしまった。ずるい。蔦谷くんってずるい。それでもなんだか嬉しくなった。
「そうだね、よろしく」
嬉しいな。話しかけてくれたことも、また近くにいられることも嬉しい。けれども池上さんが見えないのは、なんだかしっくりしない。
わたしは首を伸ばしながら、教室の後方にいるはずの彼女を探した。しかしすぐに教壇から先生の声が聞こえて、慌てて前に向き直った。
「席はここでいいかな。まず班長を決めてくださいね」
クラスは再びざわつき出した。わたしも口を開こうとしていた。しかしそのなかに突然、涼やかな声が響いた。その声が誰のものなのか、振り返らずともわたしと蔦谷くんには分かってしまった。
「目がわるいので前の席に行きたいです。誰か交換してもらえませんか」
はっきりとした池上さんの声に、みんなは静まった。池上さんは凛としていて、同級生のわたしたちは間抜けな顔をしている。目がわるいなんて、知らなかったな。本をたくさん読んでいるけれど、なんの本を読んでいるんだろう。
「わたし、いいよ。どうぞ」
気づくと、声が出ていた。手を挙げながら席を立ち、池上さんの方を見ていた。蔦谷くんが、ぽかんとしている。
先生もうるさい男子もみんなが黙っているなか、池上さんが笑ったのをわたしは見た。彼女はとても優しげに、きれいにきれいに笑ったのだ。
「ありがとう」
と言われてから、自分のしたことに初めて気づいて、一気に顔が赤くなった。
それからクラスはすぐに、いつも通りに戻っていった。
相変わらず蔦谷くんは池上さんを見ている。国語の時間は寝ているけれど、時々起きて池上さんを気にしている。近くにいる彼女にどきどきしているんだろう。わたしは後ろから蔦谷くんを見ている。普段はあんまりだけれど、時々は話したりする。わたしのこと、彼はどう思っているんだろう。
まだちゃんと池上さんに話しかけられない。彼女はきれいな女の子で、見ていると敵わないなぁって落ち込むこともある。けれども前ほどいやな気持ちではなくなった。わたしもたくさん本を読むつもりだ。
わたしの筆箱にある消しゴムのことは、誰も知らない。わたしの気持ちも彼の気持ちも、うまくいきますように。だからわたしの消しゴムには今、蔦谷くんの名前の隣に池上さんの名前がある。彼女は、まだ振り向くことはない。それでも中学一年のわたしは、こんなおまじないをしながら、そっと彼女の背中に祈っている。
(了)
中学生っぽさ、チープな「おまじない」っぽさが出ていればいいなと思い書きました。
ウェブで読みづらそう。ごめんなさい。