WP短編 お互いに譲れないもの
早瀬日向という女の子は、早起きが大の苦手だ。
学校がある日はギリギリまで寝ているし、休みの日は放っておくとお昼を過ぎても起きてこない。
それに起こすのだって簡単にはいかなくて、ぐっすり寝ている時は呼んでも揺すってもなかなか目を覚ましてくれないのでいつも苦労している。
休み時間や授業中も寝てしまうほど睡眠が大好きな彼女は、私よりも寝ることの方が大事なのではないかと真剣に悩んだこともあった。
そんな彼女が休日なのに珍しく早起きをして、自宅ではなくうちのキッチンで楽しそうにお菓子を作ってる。
つい、熱でもあるんじゃないかと疑ってしまったが、そんな様子もなく普通に動き回っていて元気のようだ。
どうして自分の家で作らないのかと聞けば、なんでもうちのキッチンの方が使いやすく道具が豊富で色々なことができるらしい。
買っただけで料理をしない自分にはよく解からないが、彼女が使いたいというのなら喜んで場所を提供する。
一緒に過ごせるし、なにより日向がお菓子を作っている姿を見ているのは好きだ。
彼女がお菓子を作っている時の表情は本当に楽しそうで、見ているだけの私も楽しくなってきて頬がついつい緩んでしまう。
しかし今日は残念ながらそんな気分にはなれそうもない。気を抜けば眉間にしわが寄ってしまいそうになる。
いつもなら穏やかな気持ちで彼女を見守れるのだが、今日はどうしても胸がもやもやして酷く落ち着かない。
「ふーんふんふーん♪」
「…………」
寝起きはいつもぼんやりしていて動きが鈍いはずなのに、お気に入りの歌を口ずさみながら手際よく料理をしている。
ご機嫌な日向とは逆に、私の気分はどんどん落ちていく。楽しそうな彼女の邪魔をしないように、こっそり溜め息をついた。
私の心がどんどん曇っていく原因。
それは今作っているお菓子が、自分ではない、他人の手に渡るからだ。
べつにお菓子が食べたいわけじゃない。彼女が自分以外の誰かの為に作ることが嫌なわけでもない。
彼女がご機嫌な様子で、渡す相手のことを考えながら作っているのが気に食わないのだ。
普段は早起きなんてしないくせに、大好きな睡眠より相手をとったことに腹が立ってしまう。
自分でもなんて狭量な人間なんだろうと思うけれど、彼女のことになるとほんの些細なことでも私は嫉妬してしまうのだ。
今まで渡す相手がどんな人物だろうとこんな気持ちにはならなかったのに。
(――きっと、渡す相手が、彼女にとって『特別な存在』だから)
日向が手作りのお菓子を渡す相手は、お昼を過ぎた頃にやってくる。遠いところからわざわざ日向に会うために。
普通の友人であれば、ここまで意識することはなかった。けれど、その友人が日向の『幼馴染』というのなら、話は別だ。
赤口椿の幼馴染は自分だけだ。けれど、早瀬日向である彼女には、べつに幼馴染の子がいるらしい。
自分だけだと思っていたのに、彼女にはもう一人“幼馴染”がいる。
それが妙に引っかかって………内心、穏やかじゃない。
「できた~!」
日向の嬉しそうな声と、お菓子の焼けた甘い香りが伝わってくる。
どうやら無事に完成したらしい。にこにこと満面の笑みで出来上がったお菓子を私の元へと持ってきた。
「陽織、味見してみて」
差し出されたお菓子を一つだけつまんで食べてみる。
「うん、美味しい」
「ほんと? 良かった~。陽織の分もあるから、後で椿と一緒に食べてね」
「……ありがとう」
太陽のように温かい笑顔に癒されながらも、チクリと胸を刺す痛みに気付かないフリをして、私も小さな笑みを返す。
日向はただ純粋に、幼馴染と久しぶりに会えることが嬉しいのだろう。だからこそ、こんなにも無邪気な笑顔を向けてくれる。
彼女が私だけを見てくれているのは解かっているし、ましてや裏切るなんて絶対にありえない。全てを賭けてもいい。それだけは絶対にない。
「あ、そろそろ家に戻らないと」
「そう」
それでも私は嫉妬する。みっともなく、嫉妬してしまう。
彼女のことが好きすぎて、独り占めしたくて。もう二度と、失いたくなくて。
これではいつかこの先、本気で彼女の足枷になってしまいそうだ。
「陽織」
「ん、なに?」
醜い胸の内を悟られないように、なんでもないように装う。
けれど日向はまるで私の後ろ暗い気持ちを見透かしたかのように、正面からぎゅっと抱きしめてくれた。
「な!? ななな、なん、なんで」
「理由はないよ。まあ、しいて言うなら抱きしめたくなったから」
「~~~っ! は、離してっ」
「あはは、可愛い」
私の肩に顔を乗せて、子供をあやすように頭を撫でてから長い髪に指を絡ませる。
何も知らない人たちからすると、日向はどこから見ても高校生で私は社会人。でも、私や一部の人にとっての彼女は『年上』だ。
私なんかよりもずっと大人で、優しくて、頼りがいのある人。捻くれた私でも笑って受け止めてくれる、無邪気で素敵な人。
だからこそ彼女を慕う人は多い。学校でもたくさんの人に好かれていると娘から聞いている。
けれど日向は鈍い。とてつもなく鈍い。自分の事となると、全然気付かない。彼女はきっと、自分に向けられている気持ちに気づいていないだろう。
彼女が鈍感で苦労したこともあったけど、救われた部分もある。……好意を向けてくる相手を意識してないみたいだし。
「もう約束の時間なんでしょう? いいの?」
「まだ余裕あるよ。それに家はすぐ隣なんだから大丈夫。だからもうちょっとだけ、ぎゅってするー」
これまた珍しい。普段ならこんな積極的に甘えたりなんてしなのに。これはこれで嬉しいけれど、やっぱりまだ寝ぼけてるのかしら。
ああ、もしかしたら昨日のことを引きずってるのかもしれない。たぶん本人は自覚してないだろうけど。
昨日……私と同僚が一緒に歩いているのを見て、日向が嫉妬してくれたのは嬉しかった。
嫉妬するのは自分だけじゃなかったんだって解かってホッとした。
でも彼女は私を問い詰めるようなことはせず、すぐに自己解決してほんとに妬いてたの?ってくらいあっさりした嫉妬だったけど。
私のことを信じてくれてるのはいいけど、もうちょっと執着して欲しいというか、関心が薄いように感じて寂しいというか。
せっかく抱きしめられて落ち着いていたのに、またムカムカしてきた。
「い、いい加減、早く行きなさいよ、馬鹿。幼馴染さんが、わざわざ遠くから来てくれるんでしょ? さ っ さ と 帰 り な さ い よ」
「あ、あれ? 陽織怒ってる? ……ああでもその蔑むような目は久しぶりでぞくぞくす…じゃなくて、懐かしいよね。そんなところも好きだよ」
「前から思ってたけど、貴女ってちょっと危ない性癖もってるわよね」
ぐいぐいと顔を押して、私の身体にしがみついている日向を引き剥がす。
無理矢理離したせいでしばらく拗ねた顔をしていたけれど、すぐに名案を思いついたとばかりに顔を輝かせた。
「陽織もうちにおいでよ」
「え? でも」
「お母さんが陽織に会いたがってたよ。それにヒサ…幼馴染のこと気になってたでしょ?」
「べ、べつに気にしてないわよ」
「え~ほんとにぃ……いたい!? 頬つねらないで! 引っ張らないで!」
「ちょ、どうして頬つねってるのに若干嬉しそうな顔してるのよ!?」
「それはもちろん嬉しいからに決まって――」
「やっぱり日向ってマゾなんじゃ……」
「ち、ちがうよ!? 陽織がすぐ傍にいるから、嬉しいの!」
急にキリッと真面目な顔をして嬉しい言葉を言うものだから、誤魔化してることが丸解かりでも、どうでもよくなってしまう。
はぁ……私って、単純すぎよね。
「何言ってるのよ、ばか」
「本当のことだもん」
にこにこと無邪気な笑顔を浮かべる彼女の誘いを断れるわけがなく、私は一緒に日向の家に行くことにした。
なんだか場違いな気がするので椿も来て欲しかったが、あの子は瑠美ちゃんに勉強を教えてもらいに行ってしまったので家にはいない。
久しぶりの再会に水を差すのも悪いから、日向が幼馴染の子と話している時は邪魔しないよう恵美子さんとお茶でも啜っていよう。
「ただいまー」
「おじゃまします」
そして、早瀬家の玄関を跨ぐと―――
「きゃぁああ陽織さぁあああん!!!」
「…………どうも」
いきなりフルスロットルな日向の母、恵美子さんに抱きつかれた。
「久しぶりぃいいい!! 会いたかったああああああ!!!」
「……はあ、お久しぶりです恵美子さん」
日向のように強引に引き剥がすわけにもいかず、抱きつかれたまま生返事を返した。
そういえば最近はあまり顔を合わせていなかった気がする。仕事が忙しくてなかなか家に帰れないと日向に聞いていたけれど、今日はお休みなのかしら。
相変わらず元気そうで何よりだが、やはりこのテンションの高さにはついていけない。
「ちょっとお母さん。ほら、困ってる困ってる」
「ふんだ。日向がいつも陽織さんを独り占めするからよー。はぁああそれにしても久しぶりに陽織さん拝めて幸せ」
恵美子さんは抱擁を解いて、今度はうっとりと私のことを見つめてくる。なぜかしら、この人の考えていることはさっぱり解からない。
普通に会話しようと努力しているのだけど、私のコミュニケーション能力が低いせいなのか上手く話が噛み合わないのだ。
日向に相談したこともあるのだが、「お母さんは上級者向けだからゆっくり慣れるしかないよ。あと根気が必要」と言われたので、地道に慣れるしかない。
お隣さんであり、日向のお母さんであり、尊敬している人なので、もっと親密になれたら嬉しいのだけど。
「そういえば椿ちゃんは?」
「あの子は瑠美ちゃんのところに勉強を教わりに行ってます」
「あらまあ、勉強熱心で偉いわねぇ。うちの小姫にも見習わせたいわ~……っと、いけない。そろそろ時間だわ」
「なにか用事でも?」
「さっき急に仕事がはいっちゃってこれから休日出勤なの。せっかく陽織さんが来てくれたのに、ごめんなさいね」
「いえ、お仕事なら仕方ないですよ。頑張ってください」
「うん頑張っちゃう! 陽織さんは自分の家だと思って寛いでいってね。うちの日向のこと扱き使っていいから~」
「お母さん、早く行かないと秘書の人が泣くよ。さっきから携帯が震えてる」
「ちっ。私もヒサちゃんに会いたかったのになぁ……よろしく言っといてね?」
「はいはい。言っとくから」
恵美子さんは意味不明なポーズを決めてから、颯爽と仕事場へ向っていった。
仕事に行く時はいつもスーツ姿だったような気がするのだけど、今、普段着で出て行ったような……。
「また秘書の人に怒られるなあれは。…あ、陽織はそこに座ってて。今、お茶入れてくるから」
「ありがとう」
居間の中央にあるテーブルについて、椅子に腰を落とす。
いつも日向がうちに遊びに来てくれるので、彼女の家に来ることは滅多にないから少し落ち着かない。
そわそわしていると、すぐに彼女が戻ってきて紅茶を差し出してくれた。
「私、ここにいてもいいのかしら。もうすぐ幼馴染の子が来るんでしょう?」
「気にしないでいいよ。ヒサも陽織に会ってみたいって言ってたから」
「……私のこと話してるの?」
「うん。ヒサなら大丈夫だと思って結構前に話したよ。生まれ変わりだとか深い部分は話してないけど、陽織が私の恋人だってことは知ってる」
「帰っていいかしら?」
「あはは、心配しないで大丈夫だって。彼女は偏見とか持たない良い子だから」
「そういう問題じゃなくて」
ただでさえ人見知りで他人と話すことが苦手なのに、日向の幼馴染に恋人だと知られているなんて上手く話せる自信がない。
これでも昔よりは愛想よく喋れるようになったと思うけれど、相手が相手なので気まずい。
どうしようか迷っていると、まるで逃げ道を塞ぐようにチャイムの音が鳴った。
「あ、はいはーい!……来たみたいだね」
「…………」
日向は玄関に出迎えに行ってしまったので、彼女たちが戻ってくるのをどきどきしながら待つ。
態度の厳しい取引先に行く時でもこんなに緊張しないのに、なにかしらこのプレッシャーは。
ああ、やっぱり迷わず帰っておけば良かった。
「初めまして、お会いできて光栄です」
礼儀正しく会釈して声を掛けてきたのは、初めて見る可愛らしい女の子。彼女が、日向の幼馴染か。
日向は後ろからやってきて、彼女の分の紅茶を用意するためにそのまま台所へ行ってしまった。
ちょっと、いきなり2人きりにするなんて酷いんじゃないの?
動揺している私の正面に彼女は座って、じっと私の目を見る。
「日向の幼馴染の、松本妃咲子です。よろしくお願いしますね」
「……私は倉坂陽織。よろしく」
愛想のない挨拶に嫌な顔をせず、彼女はおしとやかに微笑んだ。
もっと今風の女子高生を予想していたけれど、逆に古風というか随分と落ち着いた子という印象だった。
「陽織さんのことは日向から色々聞いてます。ふふ、聞いていたとおりお綺麗な方ですね」
「それは、どうも」
「日向が好きになるのも頷けます」
「………………」
にこにこと邪気のない笑みを浮かべて、いきなり話したくない話題を振ってきた。もうやだ帰りたい。
「恋愛に興味のないあの日向に恋人が出来たと聞いて、ずっと会いたいと思っていました。
実は今日こっちに来たのは、あの子が好きになった相手がどんな人か見てみたかったのもあるんですよ」
「そ、そう」
「ふふ、そんな緊張されなくても大丈夫ですよ。恋に性別も年齢も関係ないと考えていますから。批判するつもりはありません」
年下の、それも娘と同じ年齢の女の子に、気を使われてしまった。
初対面の無愛想な大人を相手にこの落ち着きようと包容力は凄いかもしれない。
「いくつか聞きたいことも……あら、姫?」
「え、姫?」
彼女の視線の先には、可愛らしいパジャマを着た日向の妹の小姫ちゃんがいた。
起きたばかりなのか眠そうに目を擦りながらこちらをぼーっと見ている。まだ寝ぼけているみたいで、私たちが誰だか解かっていないようだ。
「おはよう姫。お姉さんに似てお寝坊さんね」
「はあ~? お姉ちゃんと一緒にしないでよねー……って、なんで妃咲子がいんのおぉぉ!?」
妃咲子さんに気付いた途端、半開きだった目が大きく見開かれる。
驚いた顔をそのまま引き攣らせて、半歩後ろに下がった。
「聞いてなかったの? 私が今日遊びに来るって」
「そんなの全然知らないよ! あ、あの馬鹿姉、わざと黙ってたなぁ! 妃咲子が来るなら家でのんびり寝てるわけないじゃん!」
「うん? それはどうしてかな?」
「はっ!? な、なんでもないよっ。じゃあ、邪魔しないように私は部屋に戻るね! 陽織さんはどうぞごゆっくり!」
小姫ちゃんは真っ青な顔をして、慌てて自分の部屋へ戻っていった。
そのすぐ後に日向が紅茶とお菓子を持ってくる。
「あれ、小姫の声がしたけど……」
「うふふ、逃げられちゃった♪」
「相変わらずだね、ヒサ。あんまり小姫いじめないでね? 拗ねて機嫌悪くなるから」
「あら、今日は何もしてないわよ。……でも、姫は変わらないわね。主に身長とか胸とか、小さいままで可愛い」
ああなるほどね。小姫ちゃんは妃咲子さんが苦手なのね。彼女、大人しそうな顔をしてるけど、意外と茶目っ気があるようだ。
苦笑を浮かべた日向は、自然と私の隣に座った。嬉しい反面、人前なのでちょっと照れる。
「もうお互い自己紹介は済んでるよね? ヒサは私の幼馴染で、前の家では隣に住んでた子なんだ」
「ふふ、日向とは小さい頃からずっと一緒だったんですよ。学校ではほとんど同じクラスでしたし、親同士も仲が良くて家族ぐるみの付き合いでした」
「よく家族合同で旅行とか行ったりしたよね。お互いの家に泊まったり、行事も一緒にやったり、懐かしいな」
「そ、そうなの。随分と……仲がいいのね」
「ええそれはもう――」
ふたりの会話を聞いていると、いかに信頼し合っているのか嫌でも伝わってくる。
それに私よりも彼女のほうがずっと幼馴染らしい関係だと思えた。私と日向……椿は家が近くて、小さい頃に偶然出会って遊んでいただけ。
妃咲子さんの場合は家が隣同士で、家族ぐるみの付き合いもあって、学校もずっと一緒で、普通の幼馴染という感じだった。
比べてもしかたないのに、どうしても自分と並べて考えてしまい、自分の方が劣っていると結論付けて勝手に落ち込む。
「あと、ずっと一緒だったから彼女の面白いエピソードも沢山知ってますよ。たとえば登校中、寝ぼけて川に落っこちたり
修学旅行で行ったホテルでは間違って一般のお客さんの部屋で寝てたり、他にも―――」
「わぁあああ!! やめて! 陽織に変なこと教えないで!」
私の知らない日向の話は興味深いけれど、その場にいなかった私は疎外感を味わってしまう。
ふたりは思い出話で盛り上がって楽しそうなので、ほとんど黙っているだけの私がここに居ても邪魔になるだけかもしれない。
適当に理由を考えて帰ろうかと思っていたところで、タイミングを見計らったように日向の携帯が鳴った。
彼女は一度席を立って居間の外に出て行ったが、数分もしないうちに戻ってくる。
「ごめん、お母さんが忘れ物したみたいだからちょっと届けてくる。悪いけど二人で留守番しててくれる?」
「あ、あの日向。恵美子さんの忘れ物なら私が代わりに持っていくから……」
「んーでも陽織はお母さんの事務所に行ったことないよね? すぐ戻ってくるからふたりでゆっくりしてて」
「ええ。陽織さんと私で留守番してるから、日向は早く行ってあげて」
「ちょっ…」
「うん、ありがと」
この場から逃げ出したい私の気持ちには気付いてくれず、日向は忘れ物を届けに行ってしまった。
残されたのは私と妃咲子さんだけ。また、彼女と二人っきり。どうしよう、何を話せばいいのかわからない。
しばらく沈黙が続いて気まずかったが、彼女はそんな空気など気にせず優雅に紅茶を飲んでいた。
何か話そうと思っても、私たちの共通の話題といったら日向のことしかないので必然的にそっちの話になってしまう。
それは気恥ずかしいので、できれば避けたいのだが。
「ふふふ」
「……?」
悩んでいると、妃咲子さんは私を見ていきなり笑い出した。なんだろう、自分は何か可笑しなことをやってしまったのだろうか。
「ごめんなさい。日向に色々と聞いていたのですが、想像していたよりもずっとあの子のことを大事に想っていらっしゃるみたいで」
「……え」
何も語っていないのに、どうしてそう思ったのだろう。
複雑な表情を浮かべていた私を見て、何が面白いのか彼女はくすくすと笑っていた。
「私が日向と昔の話をしている時、妬いてましたよね?」
「んなっ!?」
「あんなに不機嫌な顔をされてたら誰でもわかりますよ。鈍感な日向は例外として」
そ、そんなに顔に出てたのかしら。確かにさっきは考えごとに夢中で表情を繕う余裕なんてなかったけれど。
「ふふ、申し訳ありません。わざと私と日向の仲を見せつけるような真似をして。
貴女をからかうつもりはなかったんですが、どんな反応をされるか興味があったもので」
「え、わ、わざとだったの?」
「半分は。あとは、幼馴染としてのちょっとした独占欲ですね。日向は、私の大事な幼馴染で、一緒に育った家族みたいな人ですから」
「…………そう」
「だから日向がずいぶんと年上の、しかも女性の恋人が出来たと聞いたときは本当に心配しました。でも、杞憂だったようですね」
彼女は手に持っていたティーカップに視線を向けて、遠い記憶を思い出すように目を細めた。
「陽織さんもご存知だと思いますが……日向はああ見えて、同世代の子より達観してます。
子供が背伸びをするようなものではなく、まるで子供の姿をした大人なんです」
「ええ」
日向は幼少の頃から前世の記憶を持って生活していたのだから、彼女の例えは的を射ている。
ずっと一緒に過ごしていれば、やはり日向の見た目と精神の不一致を感じてしまうのだろうか。
もしくは彼女の観察眼がずば抜けて優れているのかもしれない。どちらにしろ、妃咲子さんは普通とは違う何かを感じているようだった。
「私が物心ついた時から、彼女はずっと前を歩いていました。私が何かに躓くと、すぐに手を差し伸べてくれて、引っ張ってくれて。
邪魔なものを蹴散らして通りやすいようにして、転ばないように見守ってくれました。そんな彼女に憧れて、報いたくて一生懸命追いかけたけれど、
どんなに私が大人ぶってみても、対等になろうと努力しても、日向には追いつけません。ずっとずっと前のほうにいるんですよ」
「それでも貴女は日向のすぐ近くにいるじゃない。彼女、貴女のことを大切に思ってるわよ?」
「そうですね。そうかもしれません。でも……隣には、並べませんでした。彼女に頼ってもらえるような存在には成れなかったんです」
妃咲子さんは困ったように眉を下げて、でもどこか嬉しそうに笑っている。
この子は想像以上に、日向のことを大切に思っているんだなと、素直にそう思った。
「でも今日、日向と陽織さんを見てなんだか安心しました。日向も貴女も、お互いを全力で信頼してるって、ひと目ですぐ解かりましたから」
「そんな簡単に解かるものなの?」
「はい、幼馴染ですので。なにより貴女と話している時の日向の表情が幸せそうでしたから」
「そ、そう」
恥ずかしくなって目を逸らすと、彼女はいったん口を閉ざし、ぽつりと呟くように言葉を漏らした。
「……日向が、ずっと恋愛に興味なかったのは、もしかしたら」
「?」
「貴女と出会って恋をする為、だったのかもしれませんね」
「………っ」
「そう思えるくらい、日向と陽織さんが自然だったもので。ふふ、運命的なものって好きなんですよ、私」
日向が恋愛に興味がないのは赤口椿だった頃からだけど。
でも、もしかしたら無意識に、私のことを考えてくれていたのかもしれない。
私と再び会える日を、心のどこかで望んでくれていたのかもしれない。ずっと、自分でも気付かない淡い想いを持ち続けてくれていたのかもしれない。
あの日向だから可能性は薄いけれど……そうだとしたら、やっぱり嬉しい。さすがに日向に直接聞くのは恥ずかしいから、黙っているつもりだけど。
「ふふ。顔が真っ赤ですよ、陽織さん」
「…………」
「クールな方と聞いてましたけど、随分とおもし…ではなく、弄りたく…でもなく、可愛らしい方で癒されました」
あ、遊ばれてる。私、年下の女の子に、翻弄されてる。
それに誤魔化そうとしてるけど、凄いこと言いかけてる。あと、最後も誤魔化しきれてない気もするわね。
この子はお淑やかで可愛らしい表情の裏側に、とんでもないものを隠しているのかもしれない。
「こほん。とにかく、私はお二人を応援してますから。何か困ったことがあったら遠慮なく相談してください」
「どうも、ありがとう」
少しお茶目なところもあるけれど、日向が言っていた通りとてもいい子だった。
彼女の大人びた部分は、本人が言っていたように日向の影響を受けたのだろう。それでも年相応の遊び心や好奇心は持っているようでホッとする。
子供は子供らしく過ごして、徐々に大人になっていけばいい。焦ることなく、自分らしく成長して欲しい。
「でも、日向を裏切るようなことがあれば、容赦なく私が奪いますから覚悟してくださいね」
「……は?」
その場にいる人間を全て虜にしてしまう素敵な笑顔で、とんでもないことを言われた。
奪うって、あれ? 貴女、日向のこと好きなの? そうなの? 幼馴染としてじゃなくて?
「うふふ、そんなに慌てなくても無理矢理奪ったりしませんから安心してください」
「貴女ねぇ」
「私は日向の幼馴染ですから。……彼女が幸せならそれでいいんです」
妃咲子さんの真意は解からないけれど、一応『警告』してくれたんだろう。
日向を傷つけるようなことがあれば“許さない”と、遠まわしに言われたのだ。
本当に、純粋に ―――日向のことが大事なんだ、この子は。
そんな彼女と話していたら、私が抱えていたつまらない嫉妬はどこかへ消えてしまった。
大人になりかけている大人びた子供の彼女だけど、考えていることは立派で、嫉妬を通り越して感心してしまう。
「……でも油断大敵ですよ?」
「ん、なにか言った?」
「いいえなにも。ああそうだ、ちょっと席をはずしていいですか?」
「? 構わないけど……」
彼女は急に席を立って、背伸びをする。
どこに行くのか不思議に思っていたら、彼女は楽しそうな声色で行き先を教えてくれた。
「せっかくなので、姫の部屋に行ってきます」
「あー……あまり嫌がらせしちゃ駄目よ?」
「そんな子供みたいなことしませんよ? ふふふ」
小姫ちゃん、すごい拒絶してたからすこし心配だ。
まあ深刻なものじゃないだろうから放っておいてもいいのだろうけど。
妃咲子さんが小姫ちゃんの部屋に行ってしまってすぐ、日向が用事を済ませて帰って来た。
急いで戻ってきたのか、わずかに息が荒い。出迎えた私の顔を見ると、日向はふにゃっと表情を緩ませた。
「おかえりなさい。おつかれさま」
「うん。あれ、ヒサは?」
「小姫ちゃんの部屋に行ったわよ」
「えぇー、こりゃあとで小姫のご機嫌治さないといけないかも」
「……貴女の幼馴染、いい子ね」
「でしょ? 陽織にそう言ってもらえて嬉しいな」
居間に戻ってふたりで寛いでいると、別の部屋から悲鳴のようなものが聞こえてきた。私たちは顔を見合わせて苦笑する。
妃咲子さんと小姫ちゃんがじゃれ合っている様子を見てみたい気もするが、邪魔しないでおこう。
彼女たちも久しぶりの再会で積もる話もあるだろうし、私たちは後でゆっくり談笑すればいい。
「そういえば彼女、結構遠いところから来てるんでしょう?」
「うん。だから今日はうちに泊まってもらって、明日帰る予定で……」
「へぇ、そう」
「あ、あれ? またなんか怒ってる?」
「怒ってないわよ」
「眉間に皺が寄ってますよ、陽織さん」
「!?」
第三者の声が聞こえて後ろを振り返ると、ご機嫌なのか口元を緩ませた妃咲子さんが立っていた。
「恋人だからって独り占めは駄目ですよ? せっかく幼馴染と会えたんですから、今日ぐらい譲ってください」
「べ、べつに駄目とは言ってないでしょう。好きにすればいいわ」
「ありがとうございます♪ じゃあ日向、夜は久しぶりに一緒のベットで寝ようね」
「…………はあ?」
聞き捨てならない言葉に、低い声が出る。
日向は冷や汗を流しながら慌てて間に入った。
「あの、ヒサ? それはちょっと――」
「いいじゃない。昔はよく一緒に寝てたでしょ? 何も問題ないじゃない」
「それは小さい頃の話でしょ。今は、そういうのは駄目なの。わかるよね?」
「はーい。ふふ、残念」
本気で言ったのかそれとも冗談で言ったのかわからない。また、からかわれたのだろうか。
基本的にいい子なんだろうけど、やっぱり掴みどころがない子だ。それでも、不思議と嫌いにはなれないが。
「じゃあ一緒にお風呂に入らない?」
「……ああん? いい加減にしなさいよ?」
「あわわわわわ」
もちろん、限度はあるけれど。