WPspinoff28 幸せ
幸せな日々は、瞬く間に過ぎていく。
本当にあっという間で、感慨に耽っている暇もない。
楽しいことも悲しいこともたくさん積み重ねて、目まぐるしい毎日に追われていると、気が付けば高校を卒業してから五年も経っていた。馬鹿なことばっかりやっていた学生時代は終わり、私は約束通りルヴァティーユに就職して真面目に働いている。入社した頃は若造と侮られて酷いものだったが、ある程度成果を出して利益に貢献すると、手のひらを返してすぐに認められた。お偉いさん推薦のコネ入社という巨大な後ろ盾があったおかげかもしれない。
「社長、こちらが件の企画書です」
「ご苦労」
そんなわけで異例の出世コースを順調に歩んできた私は、なんの因果かまたこんな位置にいる。もちろん、大企業の子会社の社長なんてなりたくてなったわけではない。適度に働いてあとは田舎に引っ越して静かに暮らそうと思っていた私は全力で拒否したのだが、周りがそれを許してくれなかった。こんなブラック企業にいられるかと退職届を出したのだが、私が発案したプロジェクトが軌道に乗りすぎてしまい、いま私に抜けられると非常に困るそうで、ルヴァティーユ社長様に笑顔で却下された。優秀な部下たちがいるので後は任せると言ってもその部下たちにさえ退職を止められてしまい、幾度となく機会を失って今も逃げそびれている。それで結局、まだこんな高そうな椅子に座って偉そうに踏ん反り返っているのだ。あと少し事業が安定すれば私も用済みだろうから、それまで我慢するしかない。
「はぁ」
渡された企画書にざっと目を通し深い息を吐くと、緊張した面持ちの部長は大きく肩を揺らして身構えてた。……いやいや、べつに出来が悪くても命とったりするわけじゃないんだから、そんなに怯えなくてもいいのに。まあ、当然ながら叱咤はしますけど。この椅子に座っているからには、それ相応の責任は果たしますよ。
「このままでは駄目だな。数字の見通しが甘い。あまりにも根拠が無さすぎる。私が作ってこいと言ったのは提案書ではなく企画書だ。ぼやけた数字で企画を進行させる気か? 根拠となる統計を取りもう一度はっきりとした数字を出せ」
「もっ、申し訳ございません! 急いで作り直してきます!!」
「他にも要修正の場所にチェックを入れておいた。それとついでに誤字脱字も直しておけ」
「ははっ、は、はい!」
「改善すべき箇所は多々あるが、方向性としては悪くない。今後も期待している」
「えっ、あ、ありがとうございます!!」
青くなったり赤くなったり忙しない部長は書類を受け取ると、急ぎ足で退出していった。凡ミスが多いけど安定した成績を出せる優秀な社員だから、きっと次は良い企画書を持って来てくれるだろう。
前世で社長をしていた時とは違い、指摘するときは厳しく、だが突出した良い部分があれば褒めていくよう心がけている。それだけで社員たちの意欲も変わるし、失敗を認めて次に活かすようになっていく。
「ふう。あー仕事した、今日はもう帰っていいよね」
「いいわけないでしょう」
鋭い氷のような冷たさを孕んだ声と共に、どさっと大量の書類が机の上に置かれる。うわぁ何かしらこれ。あ、言わなくていいよ、聞きたくないから。
「A社と合同企画の報告書と自社のサブ企画の報告書とB者との商談の報告書、それと本社からの報告書です」
「報告書しかないじゃん!」
「他にもありますよ。この赤い付箋が貼ってあるのは提案書で、黄色が企画書、青いのが――」
「いっけね、大事な用事を思い出した。ごめん、後は任せた!」
地獄と化した社長室から逃走しようと試みるが、首根っこを掴まれて阻止されてしまった。
「いい大人になってもサボりですか。人の上に立つ位置にいるのだから、そろそろ落ち着いてくれませんか」
「えー立派に働いてるけどー? ほら、会社順調だし、上手くいってるよ?」
「誰が諸々の後処理をやっているのかご存知ですか。誰かさんがしょっちゅう逃げ出すせいで余計な仕事が増えて大変なうえに無茶な案件をぽいっと平気で回してくるからストレスで胃に穴が開きそうなんですが」
「大丈夫? ほらほら、可愛い猫の画像見て癒されるといいよ」
「あぁ?」
「ひぃ、ごめんなさい」
私がうまく社長を務めていられるのも、このクールな秘書と真面目な副社長のおかげだ。そう思って日頃の感謝を込めて拝んでいると、背の高い秘書からもの凄い顔で睨まれてしまった。眼鏡越しの鋭い眼光は学生時代から衰えておらず、震えるほど恐ろしい。あと毒舌なのも健在だ。
「でもこの量は厳しいと思うんだよ。あ、ところで丸戸は?」
「副社長は出張中です。ただでさえ多忙な方なんですから、仕事を押し付けるのは止めて下さい」
「ちぇー、わかりましたよっと。ああ……でもこれ定時までに終わるかなぁ」
積りに積もった書類の山は、頑張っても今日中には終わりそうもない。参ったな、今日は早く帰るって約束したのに。
「これまじ無理です。お願い、助けてウッキー」
「勤務中にその名で呼ぶなっていったでしょう」
「すんません」
高校時代に出会ったこの友人は大学を卒業してうちの会社に就職し、秘書として私を支えてくれている。一緒に働かないかと誘った時は凄く嫌そうな顔をしていたけど、何だかんだで面倒見のいいウッキーは私の手を取ってくれた。副社長に就任した丸戸と息が合うようで、2人でばりばり仕事をこなしてくるから非常に助かっている。遠慮なしに罵声を浴びせてくるし、鬼のような形相で睨んでくるので恐いけれど、臆せず諌めてくれる人が居てくれるのはやはり心強い。意見を正面から言い合える存在は、とても貴重で得難いのだから。
「仕方ない、私も手伝うわよ。今日中に終わらせないといけないものだけ処理して後は明日にまわしましょう」
「珍しい。ウッキーが協力的だ」
「私は貴女の秘書なのよ。業務に関わることにはいつでも協力的だったでしょうが」
「いつもありがとうウッキー!」
「黙って手を動かしなさい、この猿」
選びだされた書類を受け取って次々に目を通していく。修正が必要なところに印をつけて、不備があるとこは書き足して、承認がいる箇所には印鑑を押す。地味な単純作業だが、量が多いのでしんどいしすぐ飽きるから大変だ。
「ウッキー、仕事が楽しくなるように何か歌ってくれない?」
「帰ります。お疲れさまでした馬鹿社長」
「いやん、いけずぅ。あ、待って、嘘だから、本気で冗談だからガチで帰り支度しないで」
「ああもう鬱陶しい」
帰ろうとしているウッキーの腰にしがみついて引き止める。まだ沢山お仕事が残っているので、今帰られたら私は過労で死んでしまいます。
必死に引き止めている私を必死に引き剥がそうとしているウッキーさん。ええい、絶対離してたまるかぁっ。
「……何をやっているんですか。椎葉社長、石井さん」
「あれ、いつの間に」
「ノックは二度しましたよ。楽しそうなお声が聞こえたので、失礼だと思いましたが勝手に入らせて頂きました」
学校の制服を身に纏った少女が、大人げない攻防を繰り広げていた私たちを見て苦笑する。彼女に気を取られていた隙を突いて、ウッキーは私を押しのけて少女の方へ近づいていった。
「お見苦しいところをお見せしてしまい大変申し訳ございません」
「気にしないでくださいウッキーさん」
「……勤務中でもそれ以外でもその名で呼ぶのはやめなさいと言ったでしょう、沙夜」
「ごめんなさい。楽しそうにじゃれてる二人をみたら、なんだか懐かしくなって」
「貴女の目は節穴なの? このアホ社長に振り回されてこっちは大変なんだから」
こわーい秘書が重い溜息を吐いてこっちを睨んでくるので、私は定位置の椅子に座り、姿勢を正す。
「失礼。本日は遠路はるばるお越しいただき誠にありがとうございます。それで、篠山家のご令嬢がわざわざ来られるとは、一体どういったご用件でしょうか」
「今日は頼まれていたデータが出来上がったので持ってきました。こちらをどうぞ」
「ええ、有り難く頂戴します。しかし重要な案件でもないのにわざわざ貴女が持ってくるとは、何か理由があるのですか」
「それはついでです。本当は、どうしても今日、光希お姉ちゃんに会いたかったから」
「さ、篠山、さ――さ、沙夜たんっ」
感激のあまり椅子から立ち上がって抱きつこうとしたら、鬼恐い秘書に捕まってしまった。辛い。
しかしまあ、出会った時は小学生で小さかったあの子が、今や高校生の美少女ですよ。昔は表情が固かったけれど、成長するにつれ感受性が豊かになり、よく笑うようになった。友達もたくさんいるみたいだし、母親との関係も良好になっている。今は篠山家を継ぐために勉強中で、取引先であるうちの会社によく顔を出していた。
頭の回転が速く順応性も高いので、ウッキーや丸戸は彼女を将来有望だと評して熱心に色々教えているようだ。
「忙しいのに来てくれてありがとう。せっかくだし、コムギたちを見にうちに来る?」
「ううん、今日は遠慮しておくね。どうせ明日もこっちに来るから、その時に堪能させてもらうつもり」
「わかった。コムギたちも喜ぶよ」
「光希お姉ちゃんも今日くらいは早く帰った方がいいんじゃない?」
「そうしたいんだけどさー」
机に積んである大量の書類を指さすと、沙夜はすぐに事情を察したようで苦笑している。
やだもー、さっきから一生懸命やってるのに全然減ってない気がするんだけどー。
「大丈夫だよ。これ、光希お姉ちゃんが頑張れば定時ギリギリに終わる量だから」
「そうかなぁ」
「うん。お姉ちゃんの秘書さんは優秀で凄く優しい人だよ」
「? 概ね同意するけど」
「沙夜。余計な事は言わなくていいから、こっちでお菓子でも食べてなさい」
「はーい」
わぁいお菓子だやったー。
「社長はあっちの机でお仕事をやりやがってください」
「……はーい」
わぁいお仕事だやったー。
ちょっとくらい休憩させて欲しいところだけど、早く仕事を終わらせて帰りたい気持ちの方がずっと強い。待っていてくれている人の顔を思い浮かべるとやる気がどんどん湧いてきたので、書類と向き合い超加速で処理をしていく。『忙しいのはわかってるけど、できるだけ早く帰って来てね』と普段あまり我儘を言わない彼女のお願いだからできるだけ叶えてあげたい。自分だって、今日ぐらい早く帰りたいのだ。責任の重い役職についている為、簡単には放りだせないことくらい、私も彼女も解っている。だから、頑張るしかない。定時に間に合わなくても、一分一秒でも早く帰る為に、必死に手を動かすしかないのだ。
陽が沈みかけた頃に沙夜が帰っていったので、ウッキーと二人きりなる。静かな社長室には紙の音とペンの音、それからキーボードを叩く音。黙々と仕事をしている時は、これが普通だ。
「あ」
そして無慈悲に鳴る終業の鐘の音。大分減ったとはいえ、机にはまだ書類が数枚残っている。
やはり定時で帰れなかったが、この量なら一時間くらいの残業で済みそうだ。
ペンを握りなおして気合を入れていると、残りの書類をウッキーに取られてしまった。
「お疲れさまでした。後は私がやっておくので、さっさと帰ってください」
「えっでもまだ残って――」
「邪魔だから帰れって言ってるでしょうが。いいから出ていけ」
「えーーーー!?」
私の荷物を強引に持たされ、ぽいっとゴミを放るように部屋から雑に追い出されてしまった。なにあの秘書、社長を社長室から追い出すなんてありえない。でもよくあることなので、平常運転なのであった。
「うちの秘書……いや、私の友人は優秀で、厳しくて、毒舌で、不器用だけど、甘くて優しいよねぇ」
終わらなくても始めから定時で帰してくれるつもりだったんだろう。私が怠けないように量をギリギリに調整して、無理のない仕事を渡してくれていた。今日が私にとって大事な日だと、彼女は覚えてくれていたのだ。真面目でお固いけれど、こういう時はしっかり気を回してくれる。目つきや態度で誤解されがちだが、本当は気遣いのできる優しい人なのだ、石井浮恵という女性は。
「ありがとう」
彼女の好意に甘えて、今日は先に帰らせてもらうことにした。
来週からは本気を出して頑張るので、よろしくお願いします。
「今、か、ら、帰、る、よ、(はぁと)っと」
とりあえず、今から帰ることを待ち人にメールで連絡しておく。するとすぐに『気をつけて帰って来てね』と返信がきた。たったこれだけで頬がだらしなく緩んでしまうのだから重症だ。何年たっても色ボケ症状は治まらず、それどころか年々悪化している気がする。このバカップルが、と周りから言われることも多いのだが、彼女が可愛すぎるのだから仕方がないと思う。喧嘩もするし、意見を違えることもあるけれど、愛おしいと思う気持ちは消えたりしない。
「お土産……は、今日はいいか。さっさと帰ろう」
私達が住んでいるのは、会社から10分ほど歩いたところにある高層マンションだ。社長を任され職場の近くに引越しをすると決めた時、本当はもっと質素なアパートにするつもりだったのだが、ルヴァティーユのおじさんが気前よく就任祝いでマンションの一室をくれたので有難く頂いた。ご機嫌取りだと解っていたが、社長なんて大任を押し付けられたのだから、貰えるものは貰っておく構えだ。部屋は広いし窓からの眺めは最高だし、防犯も最新で万全なので不満はないどころか気に入ってしまった。嫌々社長になった私を退職させないようにする巧妙な罠だろうが、いずれはここを出ていくと決めている。もちろん、彼女と一緒に。それまでは、あのマンションの一室が、私の帰る場所だ。
「お、あゆから着信だ」
私は都会に引っ越し、あゆは反対方面の田舎へ引っ越してしまった為、お互い気軽に会いに行くことはできなくなってしまった。それでも頻繁に連絡は取り合っているし、何かあればどんなに遠くても会いに行く。離れ離れになってしまったけれど、私とあゆの仲は健在だ。
『もしもし、みっちゃん? 元気?』
「もちろん元気だよ。そっちは?」
『うん、私もみんなも元気だよ。アルお姉ちゃんは今海外にいるけど、元気みたい』
「知ってる。この間アルが気まぐれにうちの会社来て社員を弄って帰ったから」
『あはは、ごめんね』
明るいあゆの声を聞いて安心した。小さい頃からずっと一緒に居て見守ってきたので、長い間離れていると不安になってしまうのだ。悪い癖だなと思っているけど、彼女は私の特別な友人なのでそれでいいのだとも思う。
「知ってるだろうけどウッキーも元気だよ。今日も絶好調だった」
『ウキちゃんがみっちゃんの会社に就職した時は驚いたけど、仲良くやれてるみたいで良かった。あ、でもあんまりからかわないであげてね。よくウキちゃんと電話で話すけど、愚痴が凄いから。半分は、照れ隠しだろうけど」
「はいはい、気をつけますよ。多分」
『ふふ。いいなぁ楽しそうで。明日みんなでそっちに行くから、色々聞かせてね』
「ごめんね。遠いのにわざわざ」
『私が会いに行きたいだけだよ。先生にも、宜しく伝えておいてね』
「わかった」
『うん、それじゃあ切るね。今日はみっちゃんの声が聞きたかっただけだから。言いたいことはいっぱいあるけど、明日に取っておくよ。じゃあ、また明日、みっちゃん』
「また、明日」
ああ懐かしいな。昔はよく一緒に帰って、別れ際に『また明日』って言ってたっけ。
大人になっても、住まう場所が離れてしまっても、やはり私たちは変わらない。それが嬉しくて、堪らない。
成長する速度は違ったけれど、私たちは私たちのまま変わることができた。
あゆがいなければ、私は今の自分とは違う自分になっていたかもしれない。
彼女に出会えて良かった。彼女の友達になれて、本当に良かった。
あゆ――――天吹歩多は、私の生涯の親友だ。
「まったく、どいつもこいつも、暇なのかね」
通話の切れた携帯を操作して、届いたメッセージを読み漁る。各地に居る友人と知人から贈られた言葉を見て、早く帰ろうと思った。溢れてしまいそうなこの気持ちを、私の大切な彼女にお裾分けしなければいけない。
速足で歩みを進め、あっという間にマンションに到着。エレベーターで階を上がり、自分の住まう部屋の前まで一直線だ。いつもなら自分で鍵を開けて中に入るのだが、今日はなんとくなく呼出のベルを鳴らしてみる。じっと待っていると、扉の奥から足音が聞こえ、施錠を解除する金属音が響いた。
部屋の扉が開き、とびきりの笑顔で出迎えてくれたのは、世界でいちばん大切な人。
「おかえりなさい」
この瞬間が、とても好きだ。
私の顔を見て嬉しそうに緩む表情も、ふわりと香る家の匂いも、帰宅を喜ぶ弾んだ声も、何もかも。
「ただいま」
この言葉を告げるのも好きだ。
だって、言った瞬間に彼女の優しい笑みを見れて、自分の居場所に帰ってこれたんだなって、落ち着くから。
毎日のことで、何の変哲もないことだけど、私にとっては欠かせない大事なこと。
「ほんとに早く帰ってきてくれたんだ。今日も遅いかなって思ってたけど」
「がんばりましたから。それと上司想いの部下のおかげかな」
「ふふ、そうなんだ。明日、石井さんにお礼言わないといけないね」
玄関にあがってスーツの上着を脱ぐと、何も言わず紫乃が荷物と共に受け取ってくれた。
それぐらい自分で片付けると言っても、いつも彼女がやってくれる。
「今日ぐらい休みたかったなぁ」
「仕方ないよ、今は忙しい時期なんでしょう? 早く帰って来てくれただけで私は嬉しいな」
紫乃が納得しているのなら、私はこれ以上何も言えなくなる。嫁が健気すぎて辛い。
毎日帰りは遅いし、休みの日も持ち帰りの仕事ばかりして、一緒に遊びに行ったのはどれくらい前のことだっただろう。それでも恨みごとの一つも言わず、私の仕事が終わるのを待っていてくれる。寂しい思いをさせてしまっているし、なにより私自身も寂しい。申し訳ない気持ちと切なさに胸を締め付けられて、耐えきれず彼女を抱き寄せた。紫乃は驚いたみたいだったけれど、抵抗せず抱擁を受け入れてくれる。
「どうしたの? 何かあった?」
「ううん何でもないよ。ただ、こうしたかっただけ」
「ん……いつもお仕事お疲れさま」
苦しくない程度にぎゅっと力をこめると、ゆっくりと彼女の腕が私の身体にまわされる。……あー、これはまずいなぁ。最初は純粋な気持ちで抱きしめていたんだけど、こう、身体の柔らかさとか匂いだとかでいけない気持ちが生まれてしまった。帰ってきたばかりだけど、いいかな。流石にまずいかな。このままだと押し倒してしまいそうなので、離れた方がいいかもしれない。ああでも離れたくないなぁ~。
悶々として次の行動を悩んでいると、足元に何やら暖かい感触が。
「お? もしかしてコムギ?」
ゴロゴロと喉を鳴らしながら足元にすり寄ってきたのは、一緒に暮らしている猫のコムギだ。
コムギのおかげで彼女から意識が逸れたので、熱くなっていた身体が冷めていく。ふう、助かった。
名残惜しいけれど抱擁を解いて、コムギを抱き上げる。沙夜と一緒に出会った仔猫も随分と大きくなり、成猫として貫禄も出てきた。自由気侭な子だけれど、こうして紫乃と一緒に玄関まで迎えに来てくれるし、ときどき素直に甘えてくれるから凄く嬉しくなる。
触ってくれと催促してくるコムギのふかふかな毛を撫でていると、またもや足に何かの感触が。
「おお珍しい、今日はみんなで出迎えてくれるんだ」
足元の感触は背中に移動し、そこからさらに上へと登り頭の上でじっとしている。
頭の上に乗っている小さな重みの正体はコムギの子供、ライだ。もう一匹の子供のマドカは、紫乃の身体を勢いよく駆け上って肩に乗った。二匹ともまだまだやんちゃでいつも室内を走り回って悪戯ばかりするけれど、可愛いからいつも許してしまう。
「二匹とも、また少し大きくなったかな」
「猫の成長って早いね。この間生まれたと思ってたのに」
「ほんとにね。けどまあ、健やかに育ってくれて何よりだよ」
この子たちも、私達の大事な家族だ。ただいまと言えばにゃあと鳴いて爪をたてられた。痛い痛い。もしや帰りが遅いって抗議されたのかな。これでもいつもより早く帰ってきたんだけどなぁ。この子たちは紫乃が大好きなので、もっと大事にしろと怒ってくれているのかもしれない。うん、その通りだね。もっともっと、大事にしないとね。
「ご飯出来てるけど、すぐに食べる?」
「うん。お仕事頑張ったからお腹ペコペコなんだよね。今日のメニューは何?」
「秘密」
「えー」
紫乃は家事全般が苦手だったけれど、今では普通にできるどころか得意になっていた。作ってくれる料理は何でもおいしいし、部屋はいつも綺麗に整理整頓されている。家事は分担しようと一緒に暮らすとき決めたのだが、仕事で忙しい私を見かねてほとんど彼女がやってくれていた。家事をするのも楽しいよと言ってくれるけれど紫乃だって学校の仕事で疲れているだろうに、すっかり甘えてしまっている。私、ほんと駄目駄目だな……。これはもう早く仕事辞めるしかない。
ちなみに家事の指導をしたのはうちの母親だ。実は私と紫乃が付き合うことを一番反対した人は母だった。『うちの馬鹿娘に先生は勿体ない』とかいうもっともな理由だったので私は何も言えなかったのだが、紫乃がまあ恥ずかしいことを色々言ってくれたおかげで最後には認めてくれた。今はもう実の娘より義理の娘の方を可愛がっている。嫁と姑の仲が良好なのは大変よろしい。
「ふふ。光希が好きなもの、いっぱい作ったよ。それに今年はケーキも手作りしてみたの」
「ほんと? やった、楽しみだなー」
紫乃が作ってくれるものなら何でも好きだけど、私が喜ぶと思って好物を作ってくれることが、とても嬉しい。五年も一緒に暮らしていれば好みも癖もだんだんと解ってくるけれど、きっとお互いにまだ知らないことはたくさんあるんだろう。私はまだ、どうしたら彼女が喜んでくれるのかよく解らなくて、手探り状態だ。ちなみに夜の話ではない。そっちはそっちで自信があるので大丈夫ですご心配なく。
「光希」
ちょっと思考が邪な方へ行きかけたところで、紫乃に名前を呼ばれる。
気付いた時にはすぐ目の前に彼女が居たので驚いた。
返事をする暇もなく唇に柔らかいものを当てられて、感触を楽しむ暇もなくそれは離れていく。
……紫乃からキスしてくるのは珍しい。案の定、口に手を当てて真っ赤になっていらっしゃる。
恥ずかしいならやめておけばいいのに、と思うけれど口には出さない。超嬉しいので。
それに照れ屋な彼女が頑張る理由は、きっと『今日』だから。
「誕生日おめでとう」
今日は、椎葉光希が生まれた日。
もう一度この世界で生きていくことを赦された日だ。
「生まれてきてくれて、ありがとう光希」
生まれて数年、私はこの日が憎くて嫌いだった。
家族や友に触れて数年、私はこの日が楽しくて好きになった。
大切な人と一緒に過ごして数年、私はこの日が幸せで泣くようになった。
静かに泣き出した私をみて最初は驚いて慌てていた彼女も、もう例年のことなので慣れたのか取り乱したりはしない。こうなることを予想していたのか、持っていたハンカチで優しく拭ってくれる。
「幸せにしてくれてありがとう」
それはむしろ私が彼女に強く伝えたい言葉だ。
でも、そっか。今を幸せだと思ってくれているんだな。それなら良かった。……ほんとに、ほんとうに幸せそうに言うもんだから、また泣きたくなるじゃんか。歳とって涙脆くなっちゃったかな。今日はおめでたい日なんだから、湿っぽいのはなるべく控えたいんだよ。
「あのさ、今思い出したんだけど」
「え、なに?」
「今年の誕生日は裸エプロンでお出迎えしてくれるって約束じゃなかったっけ?」
「……………あ、そうそう、ごはんの準備しなくちゃ」
「し~の~」
「無理!ぜったい無理だからそんなの!!」
えー約束したのにー。去年の誕生日に約束を取り付けた時点で紫乃には無理だろうなぁと思っていたから、忘れていたんだけど。何もなったことにされるのは悔しいので、ちょっとした悪戯で仕返ししておく。
「えいっ」
「きゃ!? ちょ、ちょっと何で急にスカート捲るの!?」
「ほう、なかなか鮮やかで上品なデザインの下着だ。いやぁ紫乃も成長したよね。昔は飾り気のない下着ばかりだったのに、今は気合の入ったパンツを穿くようになったとは。あ、私のおかげかな?」
「み、み、光希ーーっ!」
「あはは」
幸せだなぁ。
今日という日を一番大切な彼女に祝ってもらえて、明日はみんなが各地から集まって私を祝ってくれる。
もう大袈裟に祝ってもらう歳でもないけど、みんな毎年のようにおめでとうと言ってくれる。
恵まれ過ぎてたまに怖くなるけど、だからって手放す気もない。
過去に犯した罪も、薄暗い前世の記憶も、全部担いで幸せな人生を歩んでいくと決めた。彼女と一緒に。
「紫乃」
手を絡める。
その手の薬指には、私が贈った指輪がずっと嵌められている。
一生一緒に生きていくという証と共に、ぎゅっと手を握りしめた。
「ぜ、絶対やらないから!」
「裸エプロンはもういいよ。他にプレゼント貰えることは解ったし」
「わー! わー!」
「それにずっと欲しかったものは、もう貰ってるから」
ずっと無理だと思ってた。貰える資格なんてないと諦めていた。
それでも紫乃は与えてくれた。今も、ずっと私の欲しいものを与えてくれている。
遠慮しても、もっと貰っていいんだよって、言ってくれるから。
たくさんたくさん、『幸せ』が積もっていくんだ。
「愛してる、紫乃」
いつまでも、ずっと。
「……私も愛してるよ、光希」
お互いの名前を呼び合って、想いを伝えて、積み重ねて。
大好きな人と一緒に、生きていく。
この、暖かな場所で。
end