WPspinoff27 ただいま
慌ただしい夏が終わり、穏やかな秋が通り過ぎて、冬の寒さに耐えていたら、あっという間に春がやって来た。
あれからこの半年の間に様々な事があり、取り巻く環境も少しづつ変わってしまったのだが、時間が流れるにつれ変化が起こるのは仕方がないことだろう。それに今を懸命に生きるだけで手一杯で、変わってしまったことを嘆いている暇はない。なにも変化が絶対に悪い事だと決まっているわけじゃない。良いことだって沢山あるのだ。変わってしまったことを寂しく思うこともあるけれど、私はこの新しい『今』を楽しんで生きていた。
「満開だ」
ひらひらと舞う桜の花弁を目で追いながら、並木道を大切な人と共に歩く。
木々の隙間から零れる暖かな日差しが心地よく、時折聞こえる鶯の声が春の訪れを実感させてくれた。
まだ少し肌寒いけれど、隣にいる彼女の手の温かさがあればどうでもよくなってしまう。
温もりを逃がさないよう繋いだ手にちょっとだけ力を込めてみると、相手も同じように強く握ってくれた。
そんな些細なやり取りで、また少し心が温かくなる。
「綺麗だね」
彼女は私の頭に触れると、髪にくっ付いていた花弁を取って優しく微笑んだ。
木漏れ日と彼女の笑みが眩しくて、思わず目を細めてしまう。
植田紫乃は予定通り学校を辞めて、ひとまず塾の講師の仕事に就いている。やはり人に教える仕事がやりたいらしく、いずれまた教師になって生徒を導きたいと意気込んでいた。そして私、椎葉光希は出席日数の不足具合に怯えながらもなんとか無事に3年生に進級することができた。あゆやウッキーと同じクラスになれたので、これからも面白おかしい学校生活を過ごせるに違いない。
「毎年来てるけど、此処の桜並木がこんなに綺麗だなんて知らなかった」
「へぇ。じゃあ今年は見ごろの丁度いい時期に来れたのかもね」
「それもあるかもしれないけど……今まではじっくり桜を見る気持ちになれなかったし、そ、それに、今年は椎葉さんが一緒に居てくれるから、綺麗に見るのかも、なんて」
「…………………」
お解りいただけるだろうか。私の、この煩悩……いや、苦悩を。
この人は時々こういう風に素で可愛いこと言っちゃうんですよ。それも無自覚にやるんだから質が悪い。こっちが悶々としているのに、その気なしに煽ってくるんだから必死に我慢している。かつて半年ほど前に交わした約束はきちんと守り、紫乃が教師を辞めるまで一切手を出すことはしなかった。そして今はもう私達は教師と生徒ではないので思う存分イチャイチャできるはずなのだが、私はある日とある失態を犯してしまい、思わず『高校を卒業するまでは手を出さない』と新たな誓いを立ててしまったのである。卒業まで、あと一年もあるのにだ。それまで我慢できるか自信はないが、約束をしてしまったのだから破るわけにはいかない。まあ、紫乃が我慢できなくなれば約束はなかったことになるかもしれないけど、望みは薄いだろう。
「お願いだから、私以外にそういう可愛いこと言わないでね」
「う、うん?」
心配だなぁ。
「えっと、学校の近くにある桜も綺麗に咲いていたから、今度みんなでお花見したいね」
「お、いいね。身内も知り合いもいっぱい誘って、盛大にやろう。きっとすごく楽しいよ」
「うんっ」
想像するだけで胸が躍る未来をひとまず仕舞って、満開の桜の下を2人で静かに歩いていく。
ひらりと目の前を舞った桜の花弁に手を伸ばしてみたけれど、簡単には掴むことができず、ゆっくり曲線を描きながら踊るようにアスファルトの上に落ちてしまった。傍で見ていた紫乃にくすくすと笑われてしまったので、照れを誤魔化すように先を急ぐ。それでも繋いだ手は離さない。ほら、冷えて風邪ひくといけないし。
長く続いた桜並木を抜けてしばらく何もない平原を進んでいくと、ようやく目的の場所が見えてきた。
澄み渡った青い空。白い雲。遠くに見える広大な海。そして明るく爽やかなこの場にそぐわない、複数の墓石。
私達がやってきたのは、海に近い場所にあるこの霊園だ。
着いた途端、長い距離を歩んできた疲れがどっと圧し掛かる。
「こっちだよ」
休む暇もなく紫乃に案内されたのは、彼女が毎年この時期に訪れる、親族のお墓だった。
といっても先祖代々のお墓は別にあり、この小さな墓石の下に眠っているのはたったひとり。
植田家之墓と書かれた仏石の側面には、たった一名だけ法名が彫られている。
……刻まれた植田麻衣という文字を確認して、息を吐いた。
ひとまず手を合わせ短い黙祷を捧げてから、顔をあげ墓石を見る。
「初めまして、でいいかな。私は、椎葉光希と言います」
結局、私は鹿島光葉の幸せであった時間の記憶を思い出せていない。
だから植田麻衣がどんな人間だったか、私とどんな時間を過ごしてきたのか詳しく解らない。
こうして墓前にいるのは、植田麻衣が紫乃の母親だからだ。
紫乃と付き合っているから報告しておくべきだと思い、今日は彼女と一緒に墓参りにきた。
「必ず幸せにしますので、どうかこれからも娘さんの傍に居続けることをお許しください」
深く頭を下げてお願いする。もちろん返事は帰ってこない。
紫乃から聞いた話やビデオレターを見る限り、案外あっさり交際を認めてくれそうな気もするけれど。
もしも彼女が生きていたら、きっと散々冷やかされて、ふたりの時間を邪魔してきたり余計なお世話を焼いてきそうだと、不思議と簡単に想像できてしまった。そんな姑は御免被りたいが、生きていて欲しかったと、強く思う。何故だろう。彼女の母親だからか、前世の知り合いだからか。生きていてくれていたらと言う気持ちが、大きくて胸を圧迫する。どんどん感情が膨らんで、ついには目の前が霞んできて、熱い何かが零れそうになったけれど、必死に堪えた。だって泣き虫って馬鹿にされそうだったから。……それは、誰に? そんなの決まって……あれ? ああもう、調子が狂うな。
「光葉さん」
「うん?」
紫乃に昔の名前で呼ばれ、思わず返事をしてしまう。
その名で呼ばれるのはあまり好きではないけれど、今だけは妙にしっくりきて馴染んだ。
彼女は母親の墓の横側に並び、私と向き合うように立つ。
「おかえりなさい」
「――――――」
確信めいたものがあった。
それは鹿島光葉がかつて欲しかったもの。
何に代えても守りたかったもの。
最期に、帰りたかった場所。
「ただいま、紫乃。――麻衣」
ふたりがいる家に帰りたかった。
それが、鹿島光葉が望んだ幸せだった。
「遅くなって、ごめん」
「ううん」
寄り道しすぎて随分と遅くなってしまったけれど、今ようやく、ふたりの元に帰ることができた。
もう二度とふたりの「おかえり」は聞けないし、思い出すことも叶わないけれど。
鹿島光葉の人生はすでに幕を閉じているのだから、寂しいけれど、それでいいのだと思う。
そして椎葉光希の望みは、昔と形を変えてしまっている。だから、私の帰る場所はもうここではない。いつか近くに帰ってくるかもしれないけれど、それはまだまだ先の話、遠い未来のことだ。その時、彼女はおかえりと言ってくれるだろうか。笑って、迎えてくれるだろうか。
「よし、それじゃあ墓石を綺麗に磨いてピカピカにしちゃおう! そうと決まればクレンザー買ってくる!」
「普通に水洗いでいいと思うよ!?」
「そうそう、お供え用に落雁持ってきたんだけど……あ、しまった。間違えて落雁型消しゴムもってきたっぽい」
「何処で売ってるのそれ!?」
今日は快晴でいいお天気なのだから、いつまでも重い気持ちでいるのは勿体ない。
故人をしっかり悼んだのだから、今度は安心して貰えるよう元気な姿を見せてあげればいいのだ。
それに植田麻衣だったら、暗い顔でいるよりも明るく楽しい方が喜んでもらえるだろう。
「線香ってここでいいんだっけ?」
「違うよ、そこはお花を供えるところだよ……あれ、誰か来るみたい」
騒ぎながらお墓を綺麗に掃除していると、石を踏む音が聞こえてくる。
今までは私たちだけだったが、他に人がいるのなら騒ぐわけにもいかない。
ほとんどやる事は終わっているので、邪魔にならないように早めに立ち去ることにしたのだが。
「……丸戸?」
「はい」
霊園に足を踏み入れたのは、いつもと変わらないスーツを着た丸戸だった。
「どうして丸戸さんがここに?」
「おふたりが今日ここを訪れることは知っていましたので。仕事で遅くなりましたが、間に合って良かったです」
そう言って丸戸は鞄の中から厚みのある封筒を取り出した。
なんだろう、あの封筒。なんか、どっかで見たことあるような、ないような。
随分と色褪せて、皺が寄っているみたいだけど。
「これをお渡しするのに、ちょうどいい頃合だと思いまして」
「なに、金一封でもくれるの……って本当にお金だこれぇ!?」
封筒から取り出して紫乃に手渡されたのは、お金というか通帳と印鑑だった。
ど、どういうつもりですか丸戸さん。一体何を企んでいるんですか貴女は。
何もしてないのにお金が手に入るだなんて、そんなに甘い世の中じゃないんですよ!
「もしかして」
紫乃は何か心当たりがあったのか、ハッとして丸戸を見る。
その予想はどうやら正解だったようで、彼女はこくりと静かに頷いた。
「紫乃ちゃんが一生を共にする相手を選んだことで、託された遺贈の条件は満たされました。よって貴女に、鹿島光葉の隠し財産を贈与します」
何か見たことあると思ったら、それ社長だったころよく使ってた会社の封筒だ。
ていうかその通帳の名義、鹿島光葉じゃん。
私が知らない昔の私は、ちゃんとこの子の今後のことを考えていたのか。
「……ありがとう。でもこれって光葉さんの財産だから、私じゃなくて椎葉さんに渡した方がいいんじゃないかな」
「いやいや、それは紫乃が貰っていいよ。紫乃の為に私が遺したものなんだから」
私は鹿島光葉の生まれ変わりの、椎葉光希でしかない。
もう、表向きには何も関係ない別の存在になっている。
昔の自分が稼いだお金だとしても、何の繋がりもない自分が貰うのはおかしいだろう。
なにより紫乃に遺すと決めたのは、昔の私だ。ならそれでいいじゃないか。
「でも、こんな大金。これは光葉さんがたくさんお仕事を頑張って貯めたものなのに」
「もー気にしないでいいってば。お金は出世の副産物って認識であんまり興味なかったし」
それに今の私もお金に執着はない。これでも貯金はそこそこあるし、もっとお金が必要になったらまた働いて貯めればいい。就職先はもう決まっているから、卒業したら今後の生活の為にも頑張って働きますよ。
「そう言われても……」
通帳の金額がやたら大きいのと贈り主本人がいるせいで、受け取ることを躊躇っている紫乃に、丸戸が助け舟を出す。
「どうせ将来的には一緒に暮らすんでしょうから、私的にはどっちが受け取ってもいいと思いますよ」
「え……あっ」
丸戸の言った言葉の意味を理解して、紫乃は瞬時に赤くなる。
「そっか、新居とか結婚式の費用にしてもいいよね。戸建てとマンションどっちがいいかなぁ。式はやっぱり生活が安定してからで……」
「ま、またそうやって一人で勝手に話を進めるんだからっ!!」
「えっ、嫌? 駄目?」
「嫌じゃないし駄目じゃないけど! そういう大事なことは一緒に決めたいしもっとゆっくり進めたいよ」
「わかった。じゃあ、今度ゆっくり話そうね」
「う、うん」
複雑そうな顔で頷いた紫乃の手を取って握りしめると、次第にふにゃりと頬が緩んでいく。
たぶん私の顔もニヤけてだらしないことになっているだろう。さらっと将来の話をしたけど、これでも緊張していたのだ。断られることはないと信じていたけど、大事なことだから、拒絶された時のことを考えてしまう。
「ふふ、お熱いことで。…そうそう、紫乃ちゃんが選んだ貴女に伝えることがありました」
丸戸は表情を引き締めて、私の前に立った。
何やら真剣な空気を感じ取ったので背筋を伸ばす。
「とある方からの遺言です。『よくもうちの娘を奪ってくれたなハッピー野郎。紫乃ちゃんを悲しませたら丸戸が社会的制裁を加えるので覚悟してね♪』だそうですよ。ちなみに制裁の方法まで預かっていますので、冗談ではないと思ってください」
「こっわ。いや、悲しませないように頑張りますけど」
「それともう一人の遺言です。『特に言うことはない。勝手にやれ。だが、もしもの時は命を懸けてでも守れ』だそうです」
「まさかその言葉を自分に贈ることになるとは、昔の自分も思うまいよ」
紫乃の相手が自分の生まれ変わりだなんて、絶対に予想できないよね。
昔の私がこの場にいたら猛反対されていただろうな。何が何でも妨害して、最悪海に沈められてる。
……それにしても命を懸けてでも守れ、か。言われるまでもない。『自分』が、よく解っている。でも、肝に銘じよう。自分に笑われるのは御免だ。
「最後に。お二人に向けて、最期の言葉を預かっています。植田麻衣と鹿島光葉、それから私の気持ちを添えて、言葉にしたいと思います」
丸戸は固い表情を崩し、私と紫乃を見てから、柔らかく微笑んだ。
「『『 幸せになりなさい 』』」
ああ、それはとても難しくて、とても簡単なことだ。
これからを生きていくのならば、叶えずにはいられないこと。
私は紫乃を。
紫乃は私を。
お互いを見て、私たちは笑って頷く。
聞いてくれるかな。
見ていてくれるかな。
今ここにいる私達を見て、あなたたちはどう思うだろう?
これから手探りで生きていく私達を思って、あなたたちはどんな言葉をくれるだろう?
こたえはいらない。
こたえなんてないのだから。
見ていてくれるだけでいい。時々、思い出してくれるだけでいい。
私達の幸せを見て、笑ってくれていい。それもまた、幸せの一つになるから。
大きく息を吸って、吐き出した。
過去の自分に負けないように胸を張って、目線は真っ直ぐ正面に。
これは答えではなく、過去への結果報告と、まだ見ぬ未来に対する宣戦布告だ。
「「 幸せだよ。今も、これからも! 」」
私たちは声を揃えて、同じ言葉を何処でも続く青い空へ届けた。