WPspinoff26 陽のあたる場所
あれは、鹿島光葉が小学生の時だった。
どんなに難しい問題を聞かれても、たくさんの大人の前で発表しなければいけない時も、何時いかなる時も平然とこなしてきた私が、馬鹿でも答えられる簡単な質問なのに、頭が真っ白になって何も言えなかったことがある。
『貴女の将来の夢は、何ですか?』
よくある、ありがちな教師の質問だ。
将来の夢はずっと昔から決まっていた。だからそれを口にするだけで良かった。それなのに、私の口は固まってすぐに動いてくれなかった。
怪訝な顔をした先生が私の名前を呼んで、慌てて自分の夢は父のように大きな会社で立派に働くことだと答えた。先生は満面の笑みで素晴らしいと褒めてくれた。パイロットになりたいだの、正義の味方になるだのと大声で答える無邪気なクラスメイト達を鼻で笑って、自分の夢を誇らしく思っていた。夢で終わらせない、実現可能な堅実な将来を見据えていた。その為の努力も既に始めていたし、何も間違えてなどいなかった。
子供の夢というのは所詮、憧れだ。ただの理想でしかない。成長すれば『夢』から『進路』へ変わる。
憧れを抱きながらふわふわと飛んでいた小さな子供は、大人になると支えを失い地に足をつける。そして自分だけの進むべき方向を探りながら険しい道をひとりで歩いていかねばならないのだ。
さて。あの時、夢を口にしていたクラスメイト達は大人になった今、その夢を見事叶えることが出来たのだろうか。もしかしたら何人かは夢を現実にしているのかもしれない。サッカー選手になっていたり、ケーキ屋さんを開業したり、どこかの国でたくさんの人々を救って英雄になっているかもしれない。
名前も覚えていない他人の夢のことなんて正直どうでもいいのが本音なのだが、ほんの少しだけ気になった。
「ねえ。丸戸は子供の時、将来の夢ってあった?」
病室のベットに寝ころんだまま書類に目を通していた私は、傍でパソコンを操作していたかつての部下にどうでもいい質問を投げかける。すると彼女はモニターから視線を外して、私の戯言に耳を傾けてくれた。
「……ええ、まあ、ありましたよ。確か、お花屋さんだったと思います」
「定番だね」
「子供でしたから。その時の気分や周りの意見で、なんとなく決めてしまうものですよ」
やっぱり小さい頃の夢というのは、そういうものなのかもしれない。
ということは、昔の幼い自分が口にしていた夢は既に『夢』ではなく『進路』だったのだろう。
決まっていた進む道のことを、夢とは呼べない。だからあの時、私は夢を聞かれて答えるのを躊躇してしまった。
だとしたら、鹿島光葉の子供の頃の夢は何だったのだろうか。自分の事であるはずなのに、答えは透明で形を成さない。夢を見ない子供だったから、きっと無かったのだろう。そう結論づけて気にしないことにした。
「社長……いえ、光希さん。貴女は二度目の人生を迎えて、どんな夢を持ちましたか?」
「ん? うーん、最初の頃は夢なんてなかったなぁ」
生まれて抱いたのは夢ではなく絶望だ。またこの息苦しい世界で生きていかなければいけない絶望を、椎葉光希はずっと嘆いていた。両親や周りの人たちのおかげで、すぐに絶望だけじゃなくてちゃんと希望も生まれたけれど。もちろん夢だって持つことが出来ている。
「色々あって、今はそれなりに夢らしいものを持ってるよ。ほんとに生温い、ちっぽけな夢だけど。他人が聞いたら失笑される馬鹿みたいな願いかもしれないけど。叶えたら幸せなれるのかな、なんて思ったりして。そんな適当な夢に、憧れて。叶える為なら頑張れるんだろうなって、そんなこと思える自分が可笑しくってさ」
大した夢じゃない。多分、頑張れば実現できる、その程度のささやかなものだ。
「でも、その夢は叶わない」
「社長」
「契約だからね。自分で選んで、決めたことだから」
鹿島を追い込む為にルヴァティーユの力を借りた。
いくら知り合いだからって、気軽に大企業を動かせるわけじゃない。だから私は求められた対価を差し出した。
「力を借りた対価が、卒業したらルヴァティーユの日本支社で働くこと……ですか」
「酷いよね。しかも問題山積みで業績不振の最悪な部署に配属とかふざけてるよね」
「いや、いくら支社とはいえ、世界的大手のルヴァティーユに就職内定ってことですよね? 勝ち組では?」
「私の夢は社会の喧騒から離れて自然豊かな田舎でのんびり株を転がしながら快適スローライフなんだよ」
利益を得る為に誰かを貶めたり、騙したり、そんなのはもう御免だ。面倒なことは他人に任せて、楽に生きたい。
前世で狂ったように働きまくったので、今世ではゆったり暮らしても罰は当たらないんじゃないだろうか。
「あのルヴァティーユが社長の手腕を認めているんですよ? 良かったじゃないですか」
「やだやだ、こんな子供に何を期待しているんだか」
力を借りた代償が自分のささやか夢を諦めるだけで済むなんて、確かに良かったと言えば良かったのだろう。それに早期に大企業の支社に就職内定できて将来は安泰。丸戸の言う通り、勝ち組人生まっしぐらだった。なんだかんだで、あゆのおじいちゃんは身内に甘々だ。正直、かなり優遇してもらっている気がする。とはいえ、今回の件でルヴァティーユも美味しいところはしっかり吸収しているので、損はしていないはず。
「あーあ、絶対嫌がらせだよ。もう働きたくないよ。社会の歯車になりたくないよぉ」
「ふふ、いいじゃないですか。ある程度の利益を出せば解放されるんでしょう? 夢を叶えるのは、その後でも出来ますよ。それに社長、仕事が大好きじゃないですか。ほら、書類を見る目が生き生きしてますよ」
「…………ちっ」
図星だった。丸戸に指摘された通りだった。
正直に言おう。私は、もの凄くわくわくしていると。
渡された資料はそれはもう酷いものだった。ずさんな経営方針、穴だらけの計画、不自然な人事、見れば見るほど直すところだらけで頭が痛くなる。しかし、同時に自分ならこうすると頭が勝手に動き出す。こうしてああすればきっと改善できると、プランが次々と組み上がっていく。そして実行してみたくなる。
――ええい、もう認めよう。私は根っからの仕事人間なのだ。
「やれやれ、一度深く染みついたものは簡単に落ちたりしないか。……それならお言葉に甘えて遠慮なく、盛大に、豪快に、全力でやらせてもらおう」
夢は変わっていくものだし、増えてもいく。
夢が一つだなんて決まりはない。持てるだけ、持てばいいんだ。
どんなものでも、諦めるのも、変えていくのも、いつ叶えるかも、自分自身で決めていい。
一つの夢を誰かと共有するのだって、自由だ。
「あ、椎葉さん。また仕事してる」
「紫乃」
売店まで買い物に行っていた紫乃が、戻ってきて早々、書類を手にしている私を見て表情を曇らせた。
「仕事なんてしてないよ。ただ、貰った書類を読んでるだけ」
「もう、大人しく寝てるって約束したでしょ? また傷が開いちゃうよ」
「えーっと、あはは、うん。その節は大変ご迷惑をお掛けしました」
あの時のことを言われると、それ以上は何も言えなくなる。
思い出すと恥ずかしくて死にたくなる告白をしたあの日、手術したばかりなのに全力で走り回ったせいで傷が開いてしまい、追加で一週間ほど入院が延びてしまった。間の悪いことに学校は既に夏休みに突入しており、貴重な長期休暇が終わるまで私はこの病室で大人しく過ごす事になってしまったのである。うう、お祭りとか海とか避暑地とか行きたかったのになぁ。自業自得だけど、悲しい。
「貰ったお花、窓際に置いていいかな?」
「うん。ありがとう」
紫乃が飾ってくれたプリザーブドフラワーは、千晴さんと柚葉さんとアルがお見舞いに来てくれた時に貰ったものだ。綺麗なオレンジ系統の花たちは、質素な病室に彩を加えて目を楽しませてくれる。面倒な世話も要らず枯れる心配もないそうだ。花の名前はわからないけれど、あの人たちのことだからきっと深い意味のある花を選んでくれたに違いない。
「他にも掛け軸とか人形とかお面とかあるけど……飾る?」
「それはそっとしまっておいてください」
病室の冷蔵庫や収納棚には、みんながくれたお見舞いの品がたくさん入っている。
ていうか誰だよお見舞いの品に七転八倒と書かれた掛け軸とか般若のお面を持ってきた奴は。センスありすぎで悔しい。人形……大人気ゲームキャラクターのフィギュアはあゆのおばあちゃんだろう。まさか地域限定生産で入手困難の激レアフィギュアを頂けるとは思わなかった。うふふ、家に帰ったら頑丈なケースに入れて家宝にします。
「クラスのみんな、お見舞いに来てくれて良かったね」
「でへへ、いやぁ人気者は辛いですわ」
友人、知人、クラスメイト達がたくさんお見舞いに来てくれたことは素直に嬉しかった。
怪我の理由を知って笑われたりもしたけれど、それでもみんな心配してくれていたのだ。
特に紫乃は毎日お見舞いに来てくれている。というより甲斐甲斐しくお世話をしてくれている。有り難いけれど申し訳ない。
「社長、紫乃ちゃんにあの事は伝えましたか?」
「あ。そっか」
「え、なに?」
私は持っていた書類を紫乃に渡す。その書類は仕事の書類なんかじゃない。私はまだ学生なのだから、卒業するまでは学校生活を思いっきり満喫するつもりだ。ルヴァティーユとの契約は高校を卒業した後のことなので、仕事をするにはまだ早い。今後の参考資料は貰っているけど、それはまた別の書類だ。
「終わったよ、全部。鹿島の上層部は逮捕や書類送検、悪行に深くかかわってた人たちも解雇処分。詳しいことは渡した書類に色々書いてあるよ」
ずっと目を通していた書類は、私が引き金を引いた作戦の『結果報告書』だ。
何がどうなったか、これからどうなるのか細々と書いてあるけれど、要約すると――鹿島は潰れた。
上層部を失った鹿島の残骸は今後ルヴァティーユの一部として新しい会社となり、生まれ変わっていくそうだ。
つまり私は後にその会社で働いていくということになる。ははは、なんてこったい。
けれど一からまた建て直していくというのも、心が躍ってしまう。
だって昔とはもう違うのだから、わくわくしないわけがない。
今度は違うやり方で。信頼できる同僚と、大切な人と一緒に、積み上げていくんだ。
「あの、全部終わったのなら、じゃあ」
「うん。鹿島雅之との婚約は正式に破棄された。もう、紫乃は自由だよ」
「そ、そうなんだ」
紫乃は安堵の息を吐いて、嬉しそうに微笑んだ。丸戸も、喜んでいる彼女を見て表情を緩めている。
うんうん、これにて一件落着だね。私は怪我人ですし、後処理とかめんどくさいことは全部ルヴァティーユに頼んである。あ、何処で嗅ぎ付けたのか知らないけど、他社で働いていた丸戸のことをルヴァティーユが引き抜いたもんだから、実は彼女も後処理の手伝いをさせられているのだった。見舞いに来てくれた彼女が今もパソコンの画面と睨めっこしているのは、そのせいだったりする。仕事量が多くて全く終わりが見えないから手伝ってくださいと愚痴られたけど、残念ながら今はまだ無関係の高校生なので手は出せないのだ。すまない丸戸。ああでも将来また同じ会社で一緒に働けるかもしれないので、そう考えると今から楽しみだ。
「そういえば丸戸って今は紫乃の保護者なんだよね」
「ええ、そうですね」
「私と紫乃が付き合い始めたのは知ってる?」
「椎葉さんっ!?」
顔を真っ赤にして慌てている紫乃とは対照的に、丸戸は落ち着いて私と彼女を交互に見た。
「はっきりと聞いていませんでしたが、なんとなく気付いていましたよ」
「丸戸さんっ!?」
「紫乃ちゃんの初恋の人は社長ですからね。昔は恋心よりも尊敬や憧れが強かったと思いますが」
「ほう」
「わー! わー!」
それは良いことを聞いた。流石に気恥ずかしくて、弄るネタにはできそうにないけれど。
下手に追及すれば藪蛇になる気がしたので、余計な事は言わず黙っておいた方が良さそうだ。
でも……うん。けじめとして、これだけは言っておこうかな。
「それじゃ遠慮なく、紫乃のこと貰うね。絶対に幸せにします」
「はい、どうぞ。元は貴女から預かっていた子ですから喜んでお返します」
「えっ……あの……ちょっと……うぅぅ」
限界まで顔を紅潮させた紫乃は俯いてから両手で顔を押さえ、か細く呻いている。
丸戸はフッと緩く笑って、そんな彼女の肩を優しく叩き、顔を上げさせた。
「良かったわね紫乃ちゃん。この人と一緒になれば凄く大変な思いをするかもしれないけど、絶対に貴女を幸せにしてくれるわよ」
「丸戸さん……ありがとう」
随分とあっさり認めてくれた。嬉しいし説得の手間が省けて助かるけど、あっさり過ぎて実感が湧かない。
ともあれ反対されるより断然良いので素直に喜ぼう。これでめでたく保護者公認というわけだ。あとはうちの親に報告すればひとまず問題なしっと。
「ふふ。それじゃあ、私はそろそろ会社に戻らないといけないから失礼しますね。後はお若い二人でごゆっくり」
「も、もー!」
あっという間に荷物をまとめて、丸戸はにこにこと良い笑顔を浮かべながら上機嫌で病室を出ていった。残されたのは私と、顔を真っ赤にした紫乃のふたり。……ふぅんなるほどなるほど、ふたりきりかぁ。
何気なく視線を彼女の方へ向けると、慌てて目を逸らされた。照れてるんだろうけど、こっちを見てくれないのは寂しいなぁ。なんて思ってしまう自分が、なんだか新鮮だ。これほどまでに人を恋しいと思えることが、今はとても嬉しい。
「紫乃」
「………」
名前を呼ぶと、おずおずと躊躇いながらこっちを見てくれる。いやほんと、可愛くてたまらんですよ。
こう、胸がきゅーってして、ムズムズして、落ち着かなくなるから困る。だらしなく頬が緩むのを押さえられない。今まで封じ込められていた恋心が一気に解かれ、溢れだしているのだろうか。自制が聞かず、色ボケ化が止まらないのだ。
「あ~、やばい。好きすぎてやばい」
「っ!?」
あ、やべ。思わず心の声を漏らしてしまった。案の定、紫乃は首まで真っ赤になって、絶句している。
流石に発熱しないか心配になるくらい顔が真っ赤なので、甘い空気は散らして落ち着かせた方が良いかも。
バカップルになるのは望むところなんだけど、彼女に負担をかけることはしたくない。
ゆっくり、のんびりでいい。まだ、始まったばかりなのだから焦ることはない。
女々しい自分に苦笑して、私は枕元に置いていた暇潰し用の雑誌を手に取る。話題逸らしにはじゅうぶんだ。
「見てよ紫乃。隣町に水族館が出来たんだって。いつか一緒に――」
「…………だよ」
「えっ、なに?」
か細い声。
聞き洩らしてしまったので、聞き返す。
すると彼女は振り絞るように、もう一度同じ言葉を口にした。
「私も……好き、だよ」
「…………」
うわあああああああと、叫ばなかった自分を称賛したい。吐き出しかけた言葉を気合で飲みこんで出てこないように閉じ込めた。いやぁ、なんなの、ほんと。ずるくない? こっちは必死に我慢してるのにさ、こういうこと言っちゃうんだから。本気で勘弁してほしい。その言葉は、色ボケ進行中の今の自分には、ちょっとばかり刺激が強すぎる。多分、私も彼女と同じくらい顔が真っ赤になっているだろう。ほんっとに、もう。どうしてくれよう。
「し、しの」
「えっと、椎葉さん?」
「が、がお――っ!」
「ちょっと、待っ、きゃあっ!?」
彼女の腕を引っ張って、自分と同じベットに引き込んで。
身体の位置を入れ替えて、白いシーツの上に倒れこんだ紫乃を、上から見下ろした。
羞恥を含んだ頬の色と潤んだ瞳を見て、ごくりと喉が鳴る。
ふたりきりの病室、甘々な空気、恋人同士がベットの上……となれば、やることはひとつしかない。
「あ、あ、あの、椎葉さん! ちょっと、待ってね。私たち、教師と生徒だから、こういうのはイケナイと思うの」
「えっ今更それ言っちゃうの!? 言うの遅くない?」
普通それは付き合う前に言うべき言葉だと思う。教師と生徒だとか女同士とか、そういう問題はとっくの昔に踏み越えて、こういう関係になったわけだし。ああ、もしかして遠回しに拒否されているのかな。いやいや、やはりまだ早すぎたのかもしれない。うん、落ち着こう。さっきゆっくり進めようと決めたなかりじゃないか。流されるな、自分。
「……あの、嫌なわけじゃないよ? でも、私はまだこれでも教師だから。貴女と付き合うって決めた時点で、もう駄目駄目かもしれないけど。せめて教師として最後の一線だけは、超えないようにしたいの」
そうだった、私の先生はこういう真面目な人だ。
気弱でからかわれることも多いけれど、誰にでも真摯に向き合い、ここぞというときは自分の信念を貫く。
そんな彼女だからこそ多くの生徒から慕われ、私もそんな先生を好きになった。
「婚約はなくなったけど、予定通り学校は今年で辞めるつもりなの。だから、それまで……教師と生徒じゃなくなるまで、ま、待っててくれる?」
「いや、いくらでも待てるよ。待てるけど、そんなことより、本当に学校辞めちゃうの?」
「うん。校長先生は引き留めて下さったけど、一度決めたことだから。それに、貴女に気持ちを伝えた時点で、 もう選んでいたの。私が、これから進んでいく道を」
「そっか。なら、私はもう何も言えないね」
先生が学校からいなくなのるは寂しい。
せめて私が卒業するまで居て欲しかった。一緒に、もっと学校生活を楽しみたかった。
けれど彼女がもう答えを出して決めたことなら、私は黙って頷くしかない。
「ごめんね、勝手に決めて」
「いいよ。応援するよ。紫乃が、これから進む道を」
これからも傍で見守っているから。
安心して、進んでいって欲しい。
これっぽっちも、謝る必要はないんだよ。
「ありがとう」
首に腕を回され、そっと優しく引き寄せられた。お互いの額が重なって、小さく笑いあう。
そのままじっと見つめていると紫乃が瞼を閉じたので、あ、キスは良いんだー、なんて暢気に考えながら許可が出たので顔をぐっと近づける。頬に手を添えると、ぴくりと睫毛が震えた。うっ、やっぱり可愛いな。がっつかないよう頑張って自制しなければ。
ゆっくり進めて、もう少しで唇が触れ合うといったところで止める。別に焦らしてるわけでも、怖気づいてるわけでもない。ただ、なんだろう。予感がしたのだ。違うな、これはそう、アレだ。
「オチが読めた」
「へっ?」
ガラガラっと、軽快に扉の開く音がした。
「みっちゃーん! お見舞いに来たよ!」
「あゆ。いくら一般病棟から離れた個室とはいえ、あまり大きな声を出さない方が」
慣れ親しんだ声がしたので、そちらに目をやると予想通り見知った二人が立っていた。
あゆはベットの上にいる私たちを見た途端、明るい笑顔からスッと真顔になる。隣のウッキーは元から真顔だったのでそのままだったけど、反応がないのは逆に恐ろしいと思う。そして、少しの時間だけ沈黙が支配し、何も言葉が発せられないまま、そっと扉は閉められた。あはは、そりゃあベットの上で組み敷いていたらアレな想像しちゃうよね。思春期の女子高生ですもの。あながち間違っていないので、誤解ですとは真正面から言えない。
「ち、違うの! 待って天吹さん! 石井さん!」
紫乃のは赤かった顔を真っ青にして、慌てて二人を追いかけていった。
実はあゆにもウッキーにも私たちの関係は伝えてあるんだけど、紫乃が知ったらどんな反応するだろうか。
照れるか、怒られるか、驚かれるか。もしかしたら全部かもしれない。
今は私一人で静かな病室も、紫乃たちが戻ってきたらきっと賑やかになるだろう。
そしたらまた、騒ぎすぎですって看護師さんに怒られるかな。
いろんな人たちにお説教されそうで大変かもしれないけれど、それはそれで、面白そうだから楽しみだ。
ベットに腰かけ、これから起こることを想像して笑みを漏らす。
散らかした書類をまとめていると、部屋の扉が開く音。
「光希、具合はどう……って、ちょっとあんた。なんで般若のお面かぶってるのよ。ビックリするでしょ」
「いや~せっかく貰ったんだから有効活用しようかなぁと」
「あ、あはは、凄いなそのお面。精巧に彫られていて迫力あるし、結構値が張るんじゃないか?」
紫乃たちが戻ってくる前に、両親が見舞いに来てくれた。
部屋に入って来た人を驚かせようと思い、般若のお面をつけてみたけれど、うちの親は私の破天荒な振舞いに免疫がありすぎて反応が薄い。今回は残念な結果に終わったが、他の人に試せばまた違う結果を得られるだろう。
とりあえず息苦しいので、はずして元の位置に戻しておく。
「そういえばさっき、凄く疲れた顔をした植田先生とあゆちゃん達がロビーにいたけど。あんたまた何かやらかしたでしょう」
「えー、何もしてないよ。ただ、タイミングが悪かっただけというか」
「ホントにぃ? ……とにかく、何度もお見舞いに来てくれているんだから、失礼な事するんじゃないわよ」
「わかってるって」
ちくちくと釘を刺される。この調子だとお説教が始まりそうだったので逃げる算段を整えていると、タイミングが良いのか悪いのか、紫乃が部屋に戻って来た。
「えっ、あ、椎葉さんのお父さんとお母さん!? こ、こんちには、お邪魔していますっ」
「お邪魔だなんてとんでもない。いつもこんなアホ娘の面倒を見て下さってありがとうございます」
「いえ、あの。私が、好きで勝手にやっていることなので」
「先生には本当に感謝していますよ。お蔭様でこの子もこんなに元気に回復して。なあ光希」
「そうだねぇ。これも愛の力だね」
「「ん?」」
「しっ、椎葉さん!」
ピタッと両親が固まる。私の意味深な言葉と先生の反応に、何かを察したようだ。
丁度いい。どうせ伝えるんだから、早い方が良いだろう。
私は立ち上がり、紫乃のところまでのろのろ歩いて、空いていた片手をそっと握った。
困惑した瞳で私を見る彼女を安心させるように、不敵な笑みを作る。
そして、呆然としている両親と向かい合い、堂々と言い放つ。
「お父さん、お母さん、私の大切な人を紹介します。こちら、結婚を前提にお付き合いしている植田紫乃さんです」
平坦な道がないのなら、荒れた道を強引に進むだけだ。
それで泥だらけの傷だらけになっても、手を取って握りしめてくれる人がいる限り、どこまでも歩いて行ける。平凡な日々じゃなくていい。むしろ騒がしい位でいいのだと思う。普通も、特別も、どれもきっとかけがえのない、財産になるから。
絶句している両親と、隣で真っ赤になって震えている紫乃を見て、私は笑う。
出来れば笑顔と幸せに彩られた人生を歩んでいきたい。
だから。
「どうか末永く、見守っていて下さい」
椎葉光希はこれからも、人生を活きるために、生きていく。