WPspinoff24 その心に灯を
弾かれたように目を開くと、私はどこかの河川敷に立っていた。
「え」
ここ、何処なの? なんで立ったまま寝てたの?
どうして自分がこの場所で意識を失っていたのか全く覚えていなくて、困惑してしまう。
まさか前世の時のように記憶障害を起こして、また部分的に記憶を失っている状態なのだろうか。
自分の記憶を一つ一つ掘り起こし、今までのことを全て思い出せるか確認する。意識を失う前のことも、全て思い出せるし、その過程で違和感を感じることもなかった。
確か自分は鹿島の本社ビルで昔の父親と対峙して、腹を刺されてそのまま意識を手放してしまったはずだ。
だから、こんな場所で目を覚ますのはおかしい。起きるなら鹿島本社か病院のどちらかだろう。
それに刺されて大量の血を流していたはずのお腹は傷一つなく、これっぽっちも痛まない。
父親との戦いがまるで夢だったかのように、私は無傷で健康そのものだった。
「もしかして、私はまだ夢を見ているのかな」
過去の夢から覚めて現実へ戻ってきたのかと思ったけれど、ここはまだ夢の中なのかもしれない。
周りの風景は現実のものと見た目は変わりないが、この空間には“生命”を感じない。
良く見れば人の存在も、植物の息吹も、風の感触も、全て精巧に作られた紛い物のようだ。
「でもなんで河川敷……ま、まさか、ここって三途の川!?」
もしかして対岸には私の祖父か祖母がいてこっち来んかーいと手を振ってたりするのかなぁ。やだな、怖いなぁ。
でもうちの祖父母も鹿島の人間で例に漏れずアレな人達だったから、私の名を呼んだりはしないだろう。
目を凝らして対岸を見ても、人の姿は確認できなかったのでホッと息を吐く。
ここが三途の川でもそうじゃなくても、とにかく川を渡らなければ大丈夫だろう。
だからといって、じっとしているのも落ち着かない。色々と状況を調べて、この夢から抜け出す方法を考えないと。
ひとまず目の前にある川の傍まで歩いていき、何かないか水面を眺めてみる。
特に変なものは見当たらないが……ちょっと待て、水面に映った自分の顔がおかしい。
「うわ、こりゃ見事な悪人面だ」
なんと水面に映っていたのは椎葉光希の顔ではなく、鹿島光葉の顔だった。
よく見れば体格も前世と同じように大人のものに変化している。なるほど、どうりで視点が妙に高いはずだ。
すぐに身体の違和感に気付けなかったのは、これはこれで慣れ親しんだものだからだろう。この身体も、間違いなく自分の身体だったものだ。
「ってことは、やっぱり夢か」
夢を夢と自覚できて、自由に動くことが出来るのは明晰夢だと聞いたことがある。
明晰夢どころか夢すらあまり見ないから、確証はないけれど。
そうだ、思い通りのことができるのなら空を飛ぶこともできるかもしれない。それは、ちょっと試してみたいかも。他にもファンタジーな魔法とか昔考えた必殺技とか、今なら出来そうな気がする。参ったな、我が心の深層に封印されし闇の波動が解き放たれそうだ……。
どうせ私以外に誰も居ないんだから何をやっても許されるし恥ずかしくもない。やったぜ。
「で、それが編み出した必殺技ポーズ?」
「そうそう格好良いでしょうわりと気に入ってて一度でいいからやってみたかぎゃあああああああああ!」
見られた! なけなしのプライドや羞恥心が勝って一度もやったことがなかった必殺技のポーズを見られた! ていうか人がいたのか! やだやだ泣きたい消えたい埋まりたい! お願い夢よ、早く、早く醒めてくれ!
「なかなか様になってたわよ? 採用してみる?」
「何に採用すんの!?」
その場で跪き頭を垂れ、己の失態を嘆きながら唸る。
黒歴史な思い出も青春の一ページだろうが、できればこんな黒歴史は夢でも刻みたくなかった。
「いいじゃない、見てて楽しかったし。いい歳の大人がドヤ顔でオリジナル必殺ポーズをしてる姿は痛々しくて最高に面白かったわ」
「やかましい! こっちは楽しくないわぁ!!」
「……ふふ、貴女もそんな表情ができるようになったのね」
「――――お前っ」
顔を上げて、改めて目の前にいる人物を見る。
その顔は、ああそうだその声は、ずっと前に失って、先程ようやく取り戻した記憶の中に、その中心に居座っていた、馬鹿な女のものだった。
「植田麻衣」
震える声で、ようやく絞り出せた彼女の名前。
呼ばれた彼女は困ったように微笑んで、小さく頷いた。
「ずっと忘れてくれてて良かったのになぁ。でも、思い出してくれてありがとう光葉」
「簡単に忘れられるわけないだろ。お前みたいな図々しくて喧しい変人のこと」
今まで忘れていたことを棚に上げて悪態を吐く。
あの頃の『いつも通り』を装っていないと、心の奥底から湧き出てくる衝動に、飲まれてしまいそうだった。
顔を少し伏せ、目を逸らし、自身の手を強く握りしめ、意地でも動くものかと足に力を込める。
「ひっどいなぁ。感動の再会なんだからもっとこう、泣いて喜んで抱きしめてくれてもいいじゃない」
「ふざけるな、お前が勝手に居なくなったんだろうが。こっちがどれだけ後処理に追われたと思っている」
「てへへ、ごっめーん。でもさ、いきなり後ろから突き飛ばされちゃったんだもん。避けようがなくない?」
「気合で何とかしろ。大体、人の気配を察知する訓練と反射神経を養う研修は受けなかったのか」
「受けてないよ!? 言っときますけど普通のOLはそんな訓練しないからね!? 多分それ鹿島の人だけじゃない!?」
え、そうなの? うちでは必修だったんだけど。
思い返せばピッキングとかハッキングとか犯罪知識まで教わったっけ。もーほんといい加減にしろ鹿島。
一流の会社員は全員できると言われて真に受けてた純粋な私もいたんですよ。
「……こほん、まあいい。何を言おうが、もうどうしようもない事だ。今更、何も変えられない」
「そうだね。これは夢だもの。私は貴女の夢の一部で、僅かに残っていた記憶の残り滓だから」
「ということはお前は私が作った幻か。なかなかの再現度だな」
「んん~正確にはちょっと違うんだけどね。こう、弱々しい守護霊的な立ち位置だと主張したい」
えっと、意味が解らない。夢だからオカルトちっくな事は全部スルーしてしまおう。
非科学的な事象は興味深いが、根っからの現実主義なので摩訶不思議な発言をされても理解できない自信がある。
自分自身が生まれ変わりという超常現象の体験者でしかも今は夢の中という不思議体験中なのだが、それはその辺に置いておこう。どうせ真面目に考えても解明できないだろうから。
「私は光葉の夢だけど、でも貴女の思い通りには動かない。自分の意志で行動できるの」
そう言って彼女は私の頭をそっと撫でた。
こっちが必死に我慢しているのに、この女は無遠慮に触れてくる。
「やめろ。子ども扱いするな」
「え~? 今は子供でしょう? ずっと見てたから色々知ってるわよ光希ちゃん♪」
「うっ、うううううるさいわ馬鹿! ばっか! バーカ!!」
「わはは、可愛い奴め。ほれほれもっと近こう寄れ」
「ひぃいい!?」
強制的に引き寄せられ、ぎゅっと抱きしめられた。本気で逃げ出そうとしても、なぜか逃れられない。
ちょっと待ってこの世界って私の夢だよね? なんで思い通りになってくれないの? 私ってマゾだったの?
やはり植田麻衣の言う通り、彼女だけは何故か例外らしい。なんて恐ろしい世界だ。
「…………」
抱きしめられたまま、無言の時間が流れる。
彼女の柔らかな感触は伝わってくるのに、温もりは伝わってこない。……あ、死んでるから、当たり前か。
命を刻む鼓動も、もちろん聞こえない。静かすぎるから、その事実をはっきり意識してしまう。
そんなところだけ現実的なのは、どうしてなのでしょうか。
「ごめんね」
「なにが」
「色々。多すぎて、全部言ったら光葉が怒りそう」
「アホか、私はひとつでも怒るぞ。さあ吐け、さっさと言え。一つ一つ、全部、怒ってやる」
ゆっくりと身体を離した植田麻衣と目が合う。すると彼女は目を細め、口元を緩めた。
「私ね、倉坂家の当主の人と愛人関係だったの。で、子供が出来たら捨てられちゃった」
「よくある話だな。まあ、そんなことだろうとは思っていた」
「倉坂の弱みを掴むために親に言われて愛人になったから、彼に愛情はなかったけどね。子供を産むことにしたのも、倉坂を脅す材料になるからって親に言われたからだし」
「……お前、救いようのない大馬鹿だな」
「だよね。でも、あの頃の私って親に逆らえなくて言いなりだったの。親が絶対だって信じて、反抗すれば捨てられるんだって怯えてた。親に認められる事しか考えてなくて必死だった」
親に認められたい、か。ちっ、お前も私と同じだったというわけか。
しかしあの植田のジジイとババアは思っていた以上に真っ黒な腹をしていたようだ。
あの子を祖父母に預ける選択肢をしなかった私ナイス判断。そしてこれまであの子を手放さず育ててくれた丸戸もグッジョブだ。
「貴女の会社に入ったのも親に言われたからだよ。今度は鹿島の弱みを握ってこいってね」
「なるほどな。お前は中小企業のスパイだったわけか」
「うん……怒った?」
「いいや。結果的にお前の功績でうちの会社の業績はうなぎ登りだったし、損害もゼロだ。ずっと私を欺いていた手腕も称賛に値する」
「ちょ、ちょっと待って。少しぐらい悲しんでくれても良くない? 私、貴女を裏切っていたんだけど?」
えぇ……怒るどころか褒めてやったのに、何故か拗ねられた。めんどくさい奴だなこいつ。
「私に執拗に絡んでたのも、やたらと世話を焼いていたのも、親からの指示か?」
「う、ん……上手く取り入れって」
これは流石に怒られると思ったのだろう。彼女は眉を下げて目を逸らし、歯を食いしばる。
まあ、あの頃の私は当然そのことを疑っていたからそこまで驚きはない。何か企みがあるのではと常に警戒をしていたのだ。つまり、その判断は間違っていなかったということになる。なるほどなるほど。つまり私は有能。
「まったく余計な指示をしてくれたなあの老いぼれどもめ。あいつらのせいで、こいつに私生活をどれだけ乱されたことか」
「……ごめんなさい」
「現実に戻ったらジジィ一発ぶん殴ってから会社に大型トラックで突っ込んでやろうと思っていたけど、その件があるなら保留だな。今後ちょっかい出してきたら遠慮なくぶっ飛ばす」
「えっ」
「お前の両親を許すことはないけど、それだけは感謝してるよ。その指示がなかったら……出会えなかった」
今度は私が、彼女の頭に手を乗せる。
驚いた表情でこちらを見る彼女の瞳に、笑っている私の顔が映っていた。
「例えあの日々が指示だったとしても、悪くないって思える」
「光葉」
「あれは、あの日々は、鹿島光葉の幸せだったよ」
植田麻衣が居て、あの子が居て、面倒で、喧しくて、疲れる毎日だったけど。
あの時間は間違いなく、鹿島光葉のかけがえのない宝物だった。
「誰かの指示で作られた偽りの幸せだったとしても、あの日々を愛しく思う気持ちに偽りはない」
真実がどうであれ。彼女とあの子が私との日々をどう思っていても。
私は三人で過ごした時間が大事で、幸せだったのだ。
あの日々は無意味な私の人生に、価値を与えてくれた。
「だから、お前が罪悪感を抱え込むことはないんだよ」
思い出せて良かった。
夢でも、彼女に会えて良かった。
幸せだった時間を、幸せだと思える自分になれて良かった。
「私も、あの子と光葉と3人で過ごす時間は、大好きだったよ。最初は親からの指示だったけど、途中からは、私の意志で、我儘で、あの子を産んで、貴女の傍に居た」
「そっか。私と同じで嬉しいよ」
くしゃりと歪んだ彼女の顔が、必死に笑みを作ろうとしてさらに歪んだ。
目元の端に浮かんでいる雫がこぼれる前に、笑い飛ばす。
「あはは、ぶっさいくぅ」
「ひっどいわねぇ! こんな美人に向かってなんてこと言うの!?」
「自分で言うのか……まあそうだな。お前は馬鹿みたいに笑っている顔が、一番いいよ」
「はっ、はあ!?」
目を丸くして驚いた彼女は頬を赤く染め、凄い速さで後退した。
身を守るように己の身体を抱きしめて、こっちを睨んでいる。
「あの光葉が私を口説こうとする日が来るなんて……成長したと褒めるべきか、軟派な態度を諌めるべきか悩ましい」
「いや口説いてるわけじゃないからね。素直な感想を口にしただけで」
「ああん? 私は口説く価値のない女ってことぉ?」
「ち、違っ、じゃなくて、ああもうほんとめんどくさいな!?」
生まれ変わって成長した私なら言い合いでも勝てると思ったのだが、やはりこいつには敵わない。
どれほど変わろうが、死んで生まれ変わろうが、私はずっと植田麻衣には勝てはしないのだ。
「この調子だと、紫乃ちゃんも苦労するわねぇ」
「……」
植田紫乃。
私の教え子で、私の先生。
守りたいと。誰よりも幸せであってほしいと、心から願った相手。
私は生まれ変わってあの子の記憶を失っていたけれど、偶然もう一度出会えていたことは嬉しかった。
記憶はなくとも本能的な何かが働いて、無意識にあの子の傍に居ようとしたのだろうか。
「見てたからちゃあんと知ってるわよ~? よくも私の可愛い紫乃ちゃんを篭絡してくれたわね」
「してないから」
「は? 好感度あげといていざフラグたったら放置なの? それともなに、うちの子に何か不満でもあるっての?」
「いや、別にそんな不満とかないけど。慕ってもらえるのも凄く嬉しいけど」
「じゃあとっとと押し倒さんかい!!」
「なんでだよ!? ちょっと極端すぎない!?」
「やかましい! はっきり自分の気持ちを口に出来ない根性無しにうちの子はやれんなぁ!」
「そ、そう言われても困る」
解らないものは、解らない。こればかりはどこにも正解が書いていない。誰に聞いてもわからない。
答えを作ることが出来るのは自分自身だけ。でも、私は解答を得るために必要なものを、理解できていない。
それに、あの子が幸せになる為に必要なのは、私じゃないって思う。
「あの子に必要なのは、私じゃなくお前の方だったんだよ。お前が、生まれ変わってあの子の傍に居てあげるべきだったんだ」
今からでも代われるなら、代わってもいい。
未練はあるけれど、私はもう充分すぎるほど人生を楽しんだ。たくさんのモノを得て、身に余る幸福を享受したのだ。
「はぁああ~ん? 貴女って何でもできて何でも知っているくせに、そういうことに関しては本当に駄目なんだから」
とてつもなく重い溜息を吐かれ、むにむにと頬を摘ままれた。
あ、これ、機嫌が悪い時によくされたっけ。懐かしいな。
「紫乃ちゃんはもう自分で選んでるのよ。今のあの子には、貴女が必要なの。貴女じゃなきゃ駄目なの」
「私だけ」
「そう。そして貴女にもいるの。この人じゃなきゃ駄目だって、そう思える人が必ずいる」
「…………」
「知らない感情を怖がらないで。貴女は、もうそれを理解できるでしょ?」
「…………うん」
目を伏せて頷く。
彼女は満足そうに笑って、私の肩に手を乗せた。
「光葉…光希は、人に愛されることも、人を愛することも出来る人よ。この私が保証するんだから自信を持ちなさい」
真っ直ぐな視線と力強い言葉は、私から否定の言葉を奪い去ってしまう。
「貴女は、生きているんだから」
ピシッと小さな音がして、景色に一本の亀裂が走る。
「さっさと起きなさい」
音を立てながら亀裂が増えて、周りの風景が少しづつ剥がれていく。
このまま世界が壊れて夢から覚めるんだろうと、すぐに頭で理解した。
だから彼女に会えるのも、きっとこれで最後なのだ。
「あのさ。最後に聞いておきたいんだけど」
「ん? なあに? スリーサイズ? 簡単には教えられないわね」
「いらんわそんな情報。えっとほら、お前ビデオレター残してたじゃん、あれ何なの。あれのせいで私も本当は自殺なんじゃないかって疑ったんだけど」
「あー……あれね。あれは保険で作っておいたの。私って結構いろいろと危ない橋渡ってたから、もしもの時の為にね。作ってる時ちょっと精神的に追い込まれてたから病んでる感じになったけど、最期のメッセージを遺すことが出来たから良かったわ」
空が崩れ落ち、パラパラと破片が落ちていく。
崩壊は止まらない。
「まさか貴女まで死んじゃうなんて思わなかったけどね。生まれ変わって楽しく過ごせてるみたいだから安心したけど、随分と好き放題やってるじゃない。過度なセクハラで捕まったりしないでよ?」
「よっよよ余計なお世話だ!」
今までのことを全て見られていたのかと思うと恥ずかしい。
鹿島光葉をよく知っている奴に今の自分を指摘されるのはとてつもない苦行だ。
「ふふ、紫乃ちゃんのこと宜しくね。私に似て清楚で可憐で慎ましくて優しい良い子だから」
「ちょっと周りの崩壊音がうるさくて何言ってるのか聞こえない」
もーさっきからがっしゃんがっしゃんって大きな音たてて瓦礫みたいなのいっぱい落ちてるからね。ははは、残念ながら何も聞こえません。
瓦礫が都合よく私たちに降り注がないのは、自分がこの世界の主だからだろう。
「だーかーらー! 紫乃ちゃんにマニアックなプレイしたら許さんと言ったの!!」
「やかましいわ!」
大声で変なことを言うのは止めろ! いやもうほんっとにあの子が母親に似なくて良かった。
「あ、それと起きたら夢のことは忘れてるから」
「はあ!?」
おいこの馬鹿、大事なことをオマケみたいな感じで言うんじゃない。
夢のことを忘れるって、じゃあ今こいつと話したことも、思い出した記憶のことも、ようやく認めた自分の気持ちのことさえ、全部、また消えてしまうってことか。
「やだもうそんな顔しないでよ。きっと大丈夫だから。記憶は消えても、想いは残る。記憶なんかなくても貴女と紫乃ちゃんが惹かれたように、消えないものもあるわ」
「……適当なことっ、言うなよ。私は――」
「生きて、光希」
やがて河川敷だった場所は崩壊し、何もない真っ白な世界へと変わってしまった。
そして目の前の彼女も、次第に薄れていく。
自分が消えるっていうのに、優しく微笑んだまま私をじっと見ていた。
「ふざけんなっ」
また忘れるのか私は。
彼女のことを。この気持ちを。あの日々のことを。
「ごめんね」
お前はまた勝手に、消えるのか。
私には何も遺してはくれないのか。
「――そうか」
ならせめて。
お前が跡形もなく消えるというのなら。
私は、この夢に遺してやる。
「っ、――麻衣っ!!」
堪えていた感情が溢れ出し、叫び声に変わる。
無我夢中で彼女に手を伸ばして、力いっぱい抱きしめた。
温もりも、感触もない。あるのは、実感だけ。
「……光葉?」
こいつの名を呼び捨てるのは初めてだ。
こうして抱きしめるのも初めてだ。
「お前とずっと一緒に、いたかった」
本音を伝えるのも初めてで、きっとこれが最後だ。
「麻衣と紫乃を、愛してる」
鹿島光葉が植田麻衣に遺す、最初で最後の、本当の想いだ。
「なによ、それ」
麻衣の声は震えていた。
呆れているようにも、怒っているようにも聞こえる。
「いやほんとなにそれ。言うの遅すぎない? 今更そんな大事なこと言っちゃうの? 馬鹿なの?」
「お互い様だから」
「そういうことは、もっと早く言いなさいよ。……ああ、違うわ、ごめん。もっと早く、私が打ち明ければよかったんだ。貴女に本当のことを全部話していれば良かった。そうしたらきっと、もっと違う未来があったかもしないのに」
「うん」
私たちは身体を離して、お互いの正面に立つ。
「けどもう手遅れだものね。何を語っても、夢物語にしかならないわ。まぁ、私は貴女に貰った夢物語をのんびり楽しむから、光希はせいぜい現実で紫乃ちゃんに愛想を尽かされないようヒィヒィ言いながら必死に頑張りなさい」
「わかってるよ。二人で滅茶苦茶幸せになって見せつけてやるから、ちゃんと見てろ」
「よし、よく言った! それでこそ私が認めた人!!」
ゆっくりと薄くなっていた麻衣の身体は、もうほとんど透明に近い。
淡い光を放ちながら、彼女は嬉しそうに笑っている。
私が大好きだった君の笑顔が、そこにあった。
「ありがとね。遅くても、貴女の気持ちが聞けて嬉しかった」
もうすぐ麻衣は消える。
儚く、光となって散っていく。
消えるなと伝えたい。
ずっと一緒にいたいと叫びたい。
永遠に叶わない願いを飲み込んで、絶対に吐き出さないよう唇を強く噛む。
「光葉」
そんな時、彼女は片手を伸ばして私の頬にそっと触れた。
あるはずのない温もりと感触が、触れた部分から心臓まで伝わってくる。
「私も、貴女を愛してる」
その言葉と笑顔を遺して、彼女は静かに消えていった。
「…………」
自身の心臓の辺りに、手を置く。
じんわりと胸の辺りが暖かい。
誰かに愛される気持ち。
誰かを愛する想い。
私は知らなかったわけじゃないんだ。
胸の奥に閉じ込めていたことを、ずっと忘れていただけ。
麻衣のおかげで、ようやく思い出せた。
ずっと昔に、お前が教えてくれていたこと。
「……ありがとう」
もはや言葉は誰にも届かない。
この夢に在るのは私だけだ。
ここで見たもの聞いたもの、思ったこと、気付いたこと、現実に戻れば何もかもが消えてしまう。
だが、大丈夫だと信じている。夢の記憶がなくても、この胸の暖かさは消えたりしない。
「さ、起きようか椎葉光希」
私はここにずっと居るわけにはいかない。
生きているんだから、生きなきゃいけないのだ。
静かに涙を拭い、歯を食いしばる。
目を閉じると鹿島光葉の身体が光に包まれ、あっと言う間に消滅した。
夢の主が消えれば当然、夢の世界はお終いだ。
『――――――幸せになって、光希。紫乃』
暖かな夢は終わりを告げ、椎葉光希の人生が再び始まる。




